雪原会話
北方方面軍は二種類の兵種によって構成されている。リオメイラ正規兵と公爵直下の猟兵だ。この二つの軍隊は一見するとどちらもリオメイラに従っているように見えるが、その本質は大きく異なっている。
帝国正規軍において将軍、部隊長というのは絶対権力者である皇帝の代行者として軍権を握っている。実態はどうあれ形式上はそういうことになっている。絶対権力者、その代行者である将軍、部隊長の命令に逆らうことはなく、一糸乱れず統率された軍隊は、皇帝の絶大な威光によってその真価を発揮する。
実態の部分では上官への信頼が大きい。長きにわたって練兵と実践の苦難、鉄と火の試練をくぐり抜け、共に苦難を分かち合った言うなれば戦友への絶大な信頼、それは兵士達にとって無機質な命令に色を持たせ、温かみをくれるある種の麻薬のようなものだ。◯◯の下で戦うことは誉だ、◯◯の命令は信頼できる、と兵士一人一人に思わせる甘美で陰湿な麻薬、それが可能な人間は長い間共に過ごしてきた将軍、部隊長といった兵士たちにとっての標以外にありえない。
その上官達の剣は皇帝へと捧げられている。彼らは一様に皇帝へ忠誠を近い、いかなる命令であっても遂行する。ぉれが忠義であり、自らに与えられた役割だと考えているからだ。
皇帝への忠義という建前と上官への信頼という本音。この二つの要素がいい塩梅で混ざり合い、今日までの帝国軍は成り立っている。そもそもが強者の側につくことで亜人達と戦争を繰り広げていたオルト地方、アスカラ地方の人間にとって、強者の意を汲むことは当然、普通、常識だ。帝国においてその強者の最上位は皇帝であり、皇帝の命令は上官にとって絶対、上官の命令は一兵卒にとって絶対だ。
しかしリオメイラはあくまで貴族だ。一応将軍位を得てはいるが、それは名目上、形式上のもので、正規兵は実際には帝国軍中将や少将などのフィルターを介してリオメイラのことを見ている。彼女の存在はあくまで兵士達にとって上官の上官に過ぎないのだ。
ここまでは皇帝と似たり寄ったりだが、帝国軍の性質上、大隊規模以上の部隊は大体2年から3年の周期で任地替えが行われる。2〜3年の周期で部隊の任地替えを行うため、リオメイラを直接の上官とする将校ですら彼女の人となりを知らなかったりすることも多い。兵士などはそれ以上に彼女のことを知らない。
対照的に常に彼女と共にある猟兵はリオメイラに心酔している。リオメイラの無茶を理解はせずとも、納得はせずとも受け入れる。忠誠レベル、というものが仮に存在するならば、彼らはカウンター・ストップしているわけだ。
「つまり、やることは十軍の時とおんなじだ。帝国軍の正規軍側にこっちを攻めさせる。あそこの指揮系統は、確か中将が数人で一人一人の下に幕僚が数人だったからな」
帝国において大将軍の地位にいる人間は六人だけだ。その内三人は西部の大長城に配備され、残る三人は帝都にいるか、アスカラ地方の大都市を周期的に回っている。ちなみにリオメイラは公爵夫人兼大将軍相当という地位にいる。
帝国中将に昇れる人間は少ない。相応の実力と自尊心、野心の持ち主と言える。今の北方方面軍の帝国正規軍側のトップが誰かはシドもカルバリーも知らないが、中将位に昇れるだけのあれやこれやは持っているに違いない。リオメイラに叛意を抱いていればなお素晴らしい。
「無理臭くありませんか、才氏シド。いくら叛意を持っていると言っても讒言の一つや二つでこっちの意図通りに動きませんよ」
シドのアイディアに苦言を呈したのは彼と同様に頭に包帯を巻いているシャルラだ。血止め用と火傷用の塗り薬を塗っているため傷が開く、火傷が痛むということはないが、万全の状態ではない。
シドとカルバリー、そしてシャルラの三人は夜の雪原を歩く。丘陵の間に設けられたある種の盆地、三人の足跡以外に何もない真っ白な大地をなんとなしに三人は歩いていた。彼らの周りに人はなく、獣の気配もない。左右の丘陵にオレンジ色の灯りが見える以外に闇を照らすものはない。その明るさがなければ雪原を歩くことすらままならないほどに暗い道、足元すら覚束ない状況の中、先頭を歩くシドに二人は続く。
「んー。なんかいいアイディアない?」
「そうですね。離反工作を仕掛けるなら、こちらかがアプローチをしてみるべきですよね」
「——私達が大手を振って帝国軍の陣内に入れると思っているんですか?」
「師父カルバリーのおっしゃる通り、不可能ですね。だから別のアプローチが必要になりますね」
だよなぁ、とシドは頷く。それこそ帝国軍の陣地前で裸躍りでもしない限り、こちらの領域に入ってはこないだろう。無論、こんな極寒の大地での裸踊りなどやりたくもないが。
「連中は警戒しているから、そこが問題だよなぁ」
「あくまでリオメイラのみが警戒しているのでは?現場の指揮官達はこの状況にやきもきしているのではないでしょうか」
シャルラの言葉にシドは頷きたかったが、そう考えるのは早計だ。万が一にもリオメイラではなく、帝国正規軍の人間が彼女に撤退を進言したのならばそもそも分断工作は意味をなさない。こちら側が丘陵を攻めてもらいたい、と考えている、と喧伝するようなものだ。
結局のところ、シドもカルバリーもシャルラも状況を把握できないでいた。帝国軍が本当に警戒しているなら、数日は攻めてこない。帝国軍が攻めてこない限り、シド達は何もできない。時間はシド達の味方ではないからだ。シド達の背後には王都ただ一つがあるだけで、食糧はおよそ三ヶ月分程度だ。帝国軍はロサ公国の南部を手中に納めており、無理をすれば春先どころか夏頃まで駐留することができる。
やろうと思えば、今すぐにでも軍を退いて越冬することもできるのだ。もしカスト・グアンザムに籠城していれば帝国軍はそういう戦術を取っただろう。今の状況、帝国軍が丘陵を目指して進軍している理由はロサ公国の公王であるヘルムゴート・ビョールⅢ世が親征していて、公王を殺すなり捕らえるなりすれば早期に決着をつけることができるからだ。
その前提条件はすでに破綻している。帝国軍側が「待ち」に入ればシド達は何もできない。正確にはシドの思い描いた構図にはならない。
「才氏と師父が本陣突撃をすれば敵軍の司令官の首級は挙げられますが?」
「それじゃだめだ。秩序立った撤退をしてもらわないとロサ公国は無法地帯になる。指揮官がいない軍隊なんて野盗と変わらないからな」
「そうでした。ま、元々帝国軍は野盗みたいなものなので、指揮官がいようといまいが変わらないでしょうけど」
帝国の歴史は拡大の歴史だ。国家を守るために先に自分の敵を潰す、という先制攻撃至上論の防衛計画に基づき、ここまで肥大化した国家だ。つまるところは野盗と変わらない。最も盗むのは金銀財宝ではなくすべてを内包した国土であるわけだが。
「いっそ、こちらから前進してみるか?」
「いや、それだと明らかに何か仕掛けがある、と喧伝しているようなものでしょう」
「えー。うーん。じゃぁ取れる手段って一つしかなくないか?」
腕を後ろで組むシドは心底嫌そうな声音で唸った。後ろに続く二人は顔を見合わせると、シドの言わんとすることを予想していたとばかりにほぼ同時に肩をすくめた。
シドが何を言おうとしているのか、それは状況を見れば明々白々だ。何をしようとしてもこちらの意図を相手に教えかねない。喧伝しかねない。ならばどうするべきか。何もしなければいい。帝国軍がこのゲルバイド丘陵地帯に来た時と同じように何もせず、待ちに徹すればいい。
それこそが唯一、今シド達が、ロサ公国が取れる最も情報漏洩を抑えられる手段だ。
「——来る保証がないのに、ですか?」
「天に祈りましょう。天からの祝福を待ちましょう、師父カルバリー」
「いや、ほんと。マジでさ。俺、今自信喪失しそうよ?」
雪中にその身を沈めそうなほど嫌そうにシドは体を傾けた。それを見てカルバリーはほのかな微笑をだけ浮かべた。思い返せばシドはこういう人間だった。感情が体に、声に、顔に仲間内ではよく出る人間だった。
仮面をかぶってからあまり見せなくなったが、本質の部分は変わっていない。そのことに安堵しつつ、カルバリーは気を取り直して実直な口調でシドに声をかけた。
「人間誰でも間違いはあります。まぁ、言うじゃないですか。失敗は成功の父と」
「肝心なところで失敗しちゃ意味ねーでしょうがぁ!!」
シドを慰めたつもりだったが、逆効果だったようで、一際大きなシドの慟哭がこだました。
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