劣勢上等
その日、一時的に帝国軍は前方正面の丘陵の六合目まで迫った。練度の差というよりかは圧倒的な物量によるゴリ押しによる戦果と言える。
丘陵の最終防衛ラインとも言える土塁にまで迫られ、危機的な状況に陥ったが、間一髪で駆けつけた援軍によって攻めかかってきた帝国軍は撃退された。丘陵の中腹まで攻め立てられた帝国軍の死体は五百を超えた。それ以外の場所での死者も数えれば帝国軍は二千を超える。
ロサ公国の死者はすべての丘陵を合わせてざっと六百人。単純な損耗比は10:3とロサ公国優勢に見えるが、公国と帝国とでは戦力に大きな開きがある。片や1万2,000、片や8万5,000という実に八倍近い戦力差の中、ロサ公国が失ったのは戦力の5%、帝国は2.3%だ。比率で見ればロサ公国の負ったダメージは帝国の二倍以上という計算になる。
しかもあくまでこの数字は死者だ。負傷者はこの数字よりもずっと多い。特に帝国軍の猛攻を受けた前方正面の丘陵での死者数、負傷者数がひどい。帝国軍の猛攻を退けた、ということで兵の士気は十分に高いが、戦線離脱者の数字を誤魔化せるほどではない。何もしなければ三日と経たずにロサ公国は地図からその名をなくすことになるだろう。
「劣勢だな」
満天の星空を見上げながらシドは独りごちた。時刻にして夜の七時、周りをバタバタと将兵や将校が慌ただしく駆ける中、一人優雅にシドは星空の鑑賞をしていた。わざわざ外に椅子を出し、背もたれに背中をもたれかけさせる彼の姿はいっそ自暴自棄になっているようにすら見えた。
しかしその黄金の瞳は清々しいまでに状況を楽しんでいた。一手間違えれば素っ首叩き落とされる絶望的な窮地にあって、灰髪金眼の少年はくつくつと笑った。胸がはずむ。そんな表現の通りに久方振りの逆境にシドの心は恋を覚えた乙女のようにきゅんきゅんと撥ねていた。それは自死すらいとわず、他人を己の自慰に巻き込む行為と知りながらも、心が砕けた陶器人形は自分の興奮を抑えられなかった。
国家存亡、亡国、そんな表現を嚥下し、喉越しの良さを確かめるが如く、シドは机の上に置いてあった報告書に目を通す。書かれているのは「例の仕掛け」の進捗具合だ。長々と文章が書き連ねてあるが、概ね順調である、と要約すると書いてあった。そのことに安堵と満足を覚え、脳内で思案を巡らせるシドの肩を叩く人間がいた。振り返ると涼しげな表情を浮かべたエルランドが剣を片手にこちらを見下ろしていた。
「才氏シド、そろそろ撤退させるが、かまわないな?」
「オーリーン将軍。はい、もちろん。月明かりだけでは丘の動きは分かりませんからね。敵方も夜戦の気配はなし。動くならば絶好のタイミングかと」
シドの返答にエルランドは無言のまま頷いた。表情は一切読めない。いや、シドが読めないようにわざと感情を押し殺しているように見えた。
つまり、あれだ。シドの作戦によって出た犠牲者のことを心のどこかで苦々しく思っているのだ。
それを察し、シドは軽く、しかし相手にわかるくらいには大げさに肩をすくめた。反省しろ、哀悼の意を示せ、そんな言葉を投げたいのだろうことは予想できる。ましてシドは部外者だ。部外者が、外国人が、異邦人が好き勝手に自分の部下の生き死にを決めるような現状に納得いっていないだろうエルランドの心境はむしろ人間として正常と言えた。
エルランド達、もとい彼ら煬人はいわゆるNPCだ。しかしこの量子世界においてNPCとはただのゲーム上のキャラクターではない。煬人と彼らを呼ぶように、れっきとした人間だ。シドやその他のプレイヤーと同じように感情があり、意志があり、成長する存在だ。そこを蔑ろにして逆上した煬人に殺されるプレイヤーをシドは何度も見てきた。理性が人間を律することができないならば、煬人にもそれが適用されるというわけだ。
全く笑えない話だ。
作り込むにしても作り込みすぎだ。旧時代のAIとやらならばここまでのことはできなかった。せいぜいが人間らしい受け答え、考え方をするそっくりさんを作れるだけで、人間的な思考ロジック、感情ロジック、非論理的ロジックは淘汰されていたことだろう。しかし煬人にはそれら三つがある。それら三つ以上の人間と呼んで遜色ない要素がすべて揃っている。
シド達が、つまりプレイヤー達が生きていた時代、まだ人が量子世界に入る前の時代からエルランド達はいた。正確にはエルランド達のような煬人を構成する要素を盛り込んだ人工頭脳体、アイシスが、ではあるが。特にその中でも最上位とされたアストラ級は、とそこでシドは思考を打ち切り、席を立った。
「オーリーン将軍。納得がまだいっていませんか?」
「心でも読めるのか?」
「まぁ、似たような感じです」
嘯くシドをまじまじと眺めつつ、オーリーンは深いため息を吐いた。
「——別に納得がいっていないわけではない。ただ苦々しく、歯痒く思っただけだ。自分の無能さにな」
「無能さ?オーリーン将軍は優秀な将であると」
「ああ、そういう意味ではない。人間として私は無能だ、という話だ。ベーネゲルト千騎長を憶えているか?」
「ええ、もちろん。なんです、特攻でもしましたか?」
そうじゃない、とエルランドはシドの前で左右に向かって手を振った。
「ついさっき、あの男が詫びを入れてきたな。人間の良し悪しは一概には測れない、という話だ」
「意外です。固辞するものとばかり」
なんならそのまま固辞したままなら溺死してほしかった。だが実際は固辞していなかった。それもまた人間的と言える。あるいは人間的でないとも。人間だって色々だ。柔軟な思考を持つ人間もいれば、凝り固まった思考を持つ人間もいる。今回の場合、ハンス・ベーネゲルトがそれだ。
シドの勝手な印象ではハンスはただの猪武者か、ロマンチシズムの盲信者だった。無茶な特攻によって華々しく散ることが本懐とでも思ってそうな、まさにバカ一辺倒な印象を受けた。しかし実際はまともな人間だった。まともにちゃんと自分の非を認められる人間だった。
「まぁ、その話はさておいて。撤退準備ですよね。僭越ながら意見させてもらっても?」
「何か、気になることでも?」
「撤退する部隊の殿、もとい後方を警戒するための部隊に私の部下を同道させていただけませんか?」
「何を警戒して、ああ、なるほど。例の猟兵共を警戒しているのか」
エルランドの言葉にシドは首肯した。
ザルツ平原でロサ公国の騎兵軍団を破った直接の要因である「猟兵」、それは敵軍の将であるリオメイラ直轄の部隊であることはすでにロサ公国全体に知れ渡っている。垂直移動を可能とする部隊というだけで籠城戦をしなくて本当によかった、とシドは安堵していた。
彼ら猟兵は山岳戦のプロフェッショナルだ。しかも本来ならば不利な平地での戦いでもロサ公国軍に圧勝できるほどの強力な兵士だ。わずかな丘陵の揺らぎに反応し、夜闇をかき分けて撤退中の部隊を襲うかもしれない。
「一応、かかしは用意してある。兜と鎧を着せておけば遠目にはわからん。そんな状態で襲ってくるか?」
「夜闇を見通す類のスキルを持っている可能性もあります」
「猟兵ゆえ、か。確かにありえる話だが。……わかった。すぐに部隊を編成してくれればこちらも取り組もう。あまり指揮系統を混乱させたくないんだがな」
陰鬱そうにため息をエルランドは吐く。すいません、とシドは申し訳なさそうに謝意を口にするが、彼は辟易とした様子で手を振った。憔悴したように目頭を抑えるエルランドが消えた頃合いでシドはその場から去り、彼がすでに編成した殿部隊のいる天幕に入った。
天幕の中にいたのはシドの副官であるカルバリーを筆頭に、カルバリーが手ずから鍛えた精強な兵士達だ。幻想級とまではいかないが、伝説級の武具で身をつつみ、平均レベルは80台と一兵士として見れば十分以上の実力者達は入ってきたシドを一瞥し、ついに出番が来たか、と口元に笑みをたたえていた。
数は40人。これはカルバリーも含めての数字だ。各前方丘陵の殿として送る本陣の兵士はそれぞれに100人ずつで、これを等分した状態で合わせると110人が殿軍となる。猟兵の数がわからない以上少しだけ物足りないが、カルバリーの直下にある三人の90レベル越えの猛者の存在を加味すれば多分大丈夫だろう、とシドは考えていた。
「じゃ、よろしく。無事に帰ってくることを祈ってるぜ」
その日、深夜の内に前方丘陵では本営に向かって移動が行われた。ただ移動するだけではない。負傷者や戦没者を運んでの移動だ。ヤシュニナの流儀に則れば戦死者は大地に還すという意味を込めてその場に放置するのだが、ロサ公国では家族の手による火葬が主流なので、家族のもとに送る必要がある。ただでさえ馬車が使えない丘陵地帯で何人もの人間が何度も上り下りを、しかもわずかな光源で行うのだ。
——気づかれないわけがない。
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