プロローグ
ヤシュニナ氏令国の首都、ロデッカの大通りを仮面をかぶった少年が杖を片手に走っていた。雪国という土地柄のためか、時折除雪されていない雪で足がとられて転びかけたりしながら、シドは議事堂への道をひたすらに走っていく。
——まったく朝から全然ツイていない。
議事堂に速く到着するためにソリを使ったが、偶然の事故でソリが横転し今こうして走らなくてはいけなくなった。自宅を出る前にも時計が壊れていたり、気に入っていた杖の先端が折れていたり、長靴に穴が空いていたり、と不運が続いているのだ。今日は仏滅なんじゃないか、と疑いたくなるほどツキがない日だ。
雪国の恐ろしさ、すなわち降雪量と積雪量はいつも以上にひどく、つい昨日までは晴々とした青空を天に仰いでいたのに仏暁、仕事を終えて窓の外を覗いてみれば、玄関が埋もれるほどの雪が降っていて、ギャーと言いつつショベルを片手に使用人と一緒に屋根の上の雪掃除や玄関口の雪掃きに精魂を費やしていたおかげで出かける時間が大幅に遅れた。時計の時間がズレていたというのもあるが、一番の原因は雪掃除だ。
それでもソリを使えば間に合うと思ってソリを呼んだ、そう雪国である以上は車輪なんて使えたものではない。トナカイに牽引されたサンタクロースの空飛ぶソリに四輪馬車の車体をくっつけたような高級ソリに乗って家を出てみれば、突然歩道から走ってきた子供を避けようとしたソリが横転し、今シドは走っていた。
圧縮したその日の出来事をビロビロに伸びて張りがなくなったゴム製品のようにつまみびらかに話してみると、本当に運がない。幸いなことと言えば子供と御者に怪我がなかったことくらいだな、とつくづく思いながら、シドは議事堂への道をひたすら必死に走った。
出発時刻に遅れ、色々と事故が重なったが、それでもどうにか振鈴前に議事堂前に到着したシドだったが、入り口の守衛室で再び、一悶着が起こった。有り体に言えば入堂のための証明章がどこかへと消えてしまったのだ。やべぇ、と思って衣服のポケットをひっくり返したりしていると、ポロリと内ポケットから彼が探していた証明章が落ちた。
結局、開会時刻間近にシドは議事堂内に設けられた会議室に入室した。見知った顔が汗だくの彼を不思議そうな目で見つめる中、気まずそうに所定の席へシドは座った。彼が席へついた直後、バタバタと三人ほど会議室へ入室し、シドは自分が最後ではなかったという安堵から胸をなでおろした。
どうやら今駆け込んできた三人が最後のメンバーだったようで、上座に座っていた大男は彼らが着席したことを確認すると、手に持っていたガベルをカンカンと叩き、開会の合図を送った。振鈴が鳴り、開いていた二つの扉がバタンとしまり、それまでガヤガヤと話し声が聞こえた室内がしんと静まり返った。
会議参加者全員に今日の議題の参考資料が配られ、約10分ほど経って各人が資料の束をめくり終えたのを見計らって、一人の男が席を立って議場の中心へと歩いていった。
体躯は180を越え、目は細く、貼り付けたようなうすら笑いが気持ち悪い男だ。出立ははっきり言えば王の玉座近くにはべる道化か、さもなくば大陸雑技団の大道芸人かなんかに違いない。しかし男の中で最も目を引くのは衣服ではなく、その眉間から生えている長い一本角だろう。サイの角を彷彿とさせる一本角は男の白い肌以上に輝いており、よほどそれが大事であるということを窺わせる。
「橋歩きの議氏アルヴィースから議題を提出いたします。昨日アインスェフ大陸より亡命を希望する旨の知らせが外事院宛に届きました。亡命者の名はテリス・ド・レヴォーヵ。我が国の隣国であるアスカラ=オルト帝国の現財務大臣であります」
どよめきは走らない。あくまでアルヴィースが口にしたのはすでにこの場の全員に知らされている。全員が全員、冷たい目を壇上のアルヴィースに注がれた。彼が発する次の言葉に皆、耳を傾けた。
アルヴィースは不敵な笑みを浮かべたまま、さらに話を続けた。
「本件につきまして外事院は同氏の亡命を受け入れることを提案いたします。いかなる外交的圧力にも屈せず、安住の地を求める寄る辺無き放浪者へ手を差し伸べるべきです」
面倒な話になったな、とシドは議場の天蓋を仰ぐ。今日は何時に自宅に帰れるのかを心配しながら、彼はこれから行われる議論に臨んだ。
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