18.蛇足――ニーズヘッグ①
「…………」
タクトはシラユキを巻き込まぬよう少しだけ距離を取る。決して敵から目を離さぬようにだ。そして、瞳だけを左右に動かして今自分の置かれている状況を確認した。
目の前には〝蛇足〟、ニーズヘッグ。その体躯はこちらよりもひとまわり上といったところだろうか。けれど身体の大きさがそのまま強さに直結するわけではないことをタクトはその身をもって経験してきた。ラーフと同じだ。中型だろうが扉持ち。油断など許されない。
ニーズヘッグはここから抜け出す唯一の通路を塞ぐように陣取っている。今は蛇足をふり撒きこちらを見据えるだけだが、いつ襲いかかってきてもおかしくはないだろう。実際、塵はすぐ隣にまで漂っている。
タクトが今取れる行動は二つ。戦って勝つか、誰かしら仲間がくるのを信じて耐え続けること。残念ながら逃げの一手を取ることはできない。
普段であれば一目散に逃げる。シラユキは既に救出した。別にこいつにかまう必要などない。出入り口を塞がれているとはいえ、もうユグドラは完全に沈黙している。世界樹を包む膜も消失しているのだ。単純な話、飛び降りれば逃れることはできる。この超高高度から落下して無事で済むとは思えないが、それこそ仲間がどうにかしてくれるだろう。
それが最善であることくらい考えるわけもなく分かっていた。だが、どうしてもその行動をとることができない理由がある。
「黒い波……。あれが全部蛇足かよ」
ユグドラの頂を囲むかのように波打つのは大量、いや無限の蛇足。全てを包むそれが海のように広がり、まるで航海にでも出ているのではないかと錯覚させる。
蛇足の力が未知数な以上、この中に飛びこむのは自殺行為だ。そして、その逆もしかり。外からの救援も同じ理由で期待できない。
ほんの一握りの希望は既に遺跡内部まで侵入している生徒達がここに辿り着くかどうかのみ。けれどそれを待つ余裕がこの状況で残されているはずがない。
ポツポツ。雨が落ちてくる。じっとり纏わりつくかのように滴るしずくはタクトの体温を徐々に冷やしていくことだろう。ただでさえこちらは先の戦闘で消耗しているのだ。その上動く気力を奪われては戦いにすらならない。
先に動くのはタクトか。それともニーズヘッグか。両者を濡らす雨の中、最初に動いたのは後者だった。
「――ッ!?」
瞬間、なんの動作もなくニーズヘッグがその姿を消す。まるで最初からそこにいなかったかのように。残されたのは雨の中でもなお舞い続ける大量の蛇足だけだった。
いったいどこから仕掛けてくる? タクトは剣を構え敵の次の一手に備えた。そう、備えていたはずだった。
ポツポツポツポツポツポツポツ………………。
「…………は?」
いつの間にか真横にニーズヘッグが現れていた。そこにいるのが当然のように。そして、攻撃に備えていたはずのタクトに思いっきり頭突きを仕掛けてくる。
なぜかその行動をボーっと眺めていたタクトは回避することもなく、簡単に攻撃を許す――が、
「いや、思ったより重くねぇーぞ……?」
足を二歩、三歩下げたところで簡単に踏みとどまることができた。少し痛みはあるが極端に目立つ外傷があるわけでもない。扉持ちの癖にそこまでの力がないのだろうか。
思えば抜け殻だってタクトとシラユキの二人だけでも余裕がある程だった。これならば案外なんとかなるのではないだろうか。
ドンっ。
気がつけばまた身体が後ずさっていた。すぐ正面にはいつのまにやらニーズヘッグの姿。あぁ、そうか。また攻撃を受けたのか。
ドンっ。
まぁ、そりゃそうだ。突然前後左右に次々と敵が現れるのだ。攻撃を受けてしかるべきだろう。
ドンッ。
とはいえ別段威力が高いわけではない。ほら、今だって少し身体がぶれる程度。痛みもないのだから避ける必要なんてない。
ドンッッ。
そんなことよりも気になることがある。それは先ほどからポツポツと妙に耳へと残る雨音だ。攻撃なんかよりもそっちに気を向けた方がいいだろう。
ドンッ。ドンッ。ドンッッ。――グシャッ。
なにかが引きちぎられる音が静かに響く。だが、そんな余計な雑音すらも入り込む隙はない。まったく不思議な感覚だ。なぜこんなにもこの雨音に気を取られるのだろう。
ギギギギィィ――。
いや、なにかが変わったか? 先ほどまでは強く小突かれているだけだったが、今はなんというか締め付けられているようだった。というかいつの間にかニーズヘッグの長い尾部に巻きつかれていた。
目の前で起きている光景をぼんやりと眺める。そうか、今から絞殺されるのか。まぁいい。当たり前のこと。だって今は雨の音が気になって仕方がない。ニーズヘッグの攻撃にかまけている場合ではないのだ。
ポツポツポツポツポツポツ……。
口から血が流れる。締め付けられて内臓のいくらかがやられたのだろう。けれど痛みは感じない。だってそんな余計なことは全部雨音が忘れさせてくれるから。
そう、余計なこと。内臓が潰れようが、左腕が喰いちぎられようが、いつの間にか潰れている右脚が目の端に入ろうが、それは自分には関係のないこと。自分の命など考える価値もない余計なものなのだ。この雨音に比べれば些細なことだ。
ラービッシュでの無駄に過ごした子供時代も。
サイクルで騙し続けた嘘つきの主人公生活も。
いつも自分を気づかう学園長も。
厳しいながらに鍛えてくれる生徒会長も。
助けてくれる仲間たちも。
大切な親友も。
今のタクトには必要のない余計なこと。そんなことよりも雨だ。どんな余計な思考も洗い流してくれる雨だ。
雨、雨、雨、雨、雨、雨ッ!! そろそろ自分は死ぬだろう。これだけ締め付けられていてはお終いだ。今ならまだ抜け出せるかもしれないが、雨音の方がずっと優先度は高い。
耳に残るのだ。ポツポツと。こべりつくのだ。ポツポツと。だから使命なんて投げ出そう。主人公なんて諦めてしまえ。誰かを助けるなんて立派な考えは捨てるべきだ。だってタクトには雨音以外に大切なことなんてないのだから。
ポツポツポツポツポツポツポツポツ…………。
――――本当に、そうだろうか? なにか忘れている気がする。雨が雨が……。自分にも大切なものがあった気がするのだ。雨が雨が……。約束があった。雨が雨が……。でもどんな約束だった? 雨が雨が……。大切な人との約束だ。雨が雨が……。なんでこんな余計な約束なんかに思考を持っていかれるのだろうか。雨、雨、雨! 大切なのは雨なのに! それ以外は余計で不要なものなのに!
あぁ、誰だっけ。雨雨。大切な人ができたんだ。雨雨雨雨。えっと名前は。雨雨雨雨雨雨。自分も考えた気がする。雨雨雨雨雨雨雨雨。確か、お姫様の。雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨。
「――あぁぁぁーーッッ!! うるっせぇなぁ! あめあめあめあめうっとーしぃ!! 余計な音ばっか入れやがって! これじゃあシラユキのこと思い出せねぇーじゃねーかァァーーッッ!!」
タクトは頭がパンクしそうになり叫ぶ。同時になんか自分の身体にまとわりついていた蛇の尾部に剣を突き刺し切断、無理矢理に脱出する。そして、なにも考えずに目の前の生物を斬りつけた。
シャァァッッ!? タクトの耳に雨以外の音が駆け巡る。その瞬間ぼんやりとしていた意識がようやくはっきりしてきた。
「はぁはぁはぁ……。左手は……ある。足も潰れてねぇ。こりゃあ幻覚ってやつか?」
くねりながら後退し距離を取るニーズヘッグを目で追いつつ、手を何度も握りしめ、足を踏みしめる。どうやら今までの出来事は夢幻のようだった。絞められ潰れたような気がした身体の内部も問題はなさそうだ。
思えば遺跡内部で見せられた故郷の景色。あれもいわゆる幻覚だったのではなかろうか。だとしたら、こいつの蛇足能力の一つは余計な幻を相手に見せる、もしくは押し付ける、だ。
「なるほどねぇ。ははっ。この雨も雲も全部蛇足だったつーオチかよ。滅茶苦茶だなーおい」
空を仰ぐ。すぐ近くまで降りてきているように見えていた暗雲。その正体は蛇足で作り上げられたものだったらしい。今も身体に打ち付けられている雨もそう見えるだけの偽物。そして、雨としてタクトの身体に染み込ませた蛇足を操り幻覚の類を見せた、そんな所だろう。