#9 今朝へ
俺もマキナさんに乗り込んだ。
でも、彼女は一人乗だ。たった一つの座席に、無理やり二人が坐ることになってしまった。これではぎゅうぎゅう詰めで、息をするのも大変だ。
俺は目でツキに訴えた。ツキが四次元ペンダントから千変鏡を取り出す。
ふいに、座席にゆとりができた。見ると、俺のわきに青いリボンが落ちている。リボンになったツキは、ぴょこぴょこ跳ねて俺の体をよじ登った。
ドアミラーに自分の横顔が写っている。頭にツキがしがみついていた。これじゃあまるで、俺がリボンをつけているみたいだ。
俺の腰がシートベルトで固定された。
外は暗かった。前方に崩れた塀が見える。右手には二車線の道路が走っていた。その道を挟んだ反対側に、閉店したスーパーマーケットがあった。
いよいよタイムスリップだ。心臓の鼓動が速まった。
「行先、九月六日午前九時十分」
マキナさんが言った。
途端に、不思議なことが起った。外がじわじわと白くなっていくんだ。まるで霧が広がるように、下のほうから立ち上ってくる。
俺は、屋上での光景を思い出した。過去のマキナさんがタイムスリップするとき、車体は強い光に包まれていたはずだった。でも、今はまぶしくも何ともない。俺の勝手な想像だけど、サングラスみたいに、窓に加工が施されているのかもしれなかった。
それから、白んでゆく過程がやたらとのんびりしている。屋上での発光は一瞬だったけれど、この時はたっぷり十秒くらいかかったと記憶している。こればっかりは、どういう理屈なのか見当もつかない。
白霧が月を飲み込んだ。
それから、だんだんと視界が晴れた。今度は上のほうから霧が散ってゆく。窓からあたたかい光が差し込んだ。東の空に太陽が昇っている。それだけじゃない。壊れていた塀が元通りになっていた。カラーコーンもテープも見当たらない。
スーパーマーケットに目を移す。商品入の袋を提げたお客さんが一人、自動ドアから出てくるところだった。
「到着しました」
マキナさんが言った。
フロントガラス越しに袋を提げた女性が横切ってゆく。こちらには目もくれなかった。俺たちの姿が見えていないようだった。
ツキがぺしぺしと俺の頭を叩いた。
「何。どうしたんだよ」
俺はツキに訊ねた。けれど、俺の頭をひたすら叩くばかりだ。リボンの姿だと、千変鏡のテレパシーも使えないらしい。
ツキは独特のリズムで俺を叩いていた。
ぺしぺーしぺしぺしぺし、ぺーしぺしぺしぺし、ぺしぺーしぺーしぺし、ぺーしぺし、ぺしぺしぺーしぺーし。
「終ったの?」
突如、マキナさんが言った。俺は何事かと身構えた。見ると、マキナさんのカメラがツキのほうを向いている。どうやら、通訳を請け負ってくれるみたいだ。
「『終ったなら外に出して。人間に戻して』と言っています」
マキナさんがドアを開ける。俺は頷いて、彼女を降りた。
高校の隣には公園がある。俺たちはそこの植込の裏に隠れた。ツキは人間に戻っていた。マキナさんは透明になっている。
「あと二十秒です」
マキナさんが言った。俺は心の中でカウントダウンした。
二十秒経ったちょうどその時、塀の前に白い光が満ちた。ツキはそれを指さし、ささやいた。
「マキナ、時代と場所!」
「今やっています!」
ブウン、と見えない何かが俺の頭上を通り過ぎた。マキナさんのドローンだ、と俺は思った。
目の前でブレーキ音が響く。直後、塀の崩れる音がした。コンクリートのかけらが飛んできて、俺の頭にコツンとぶつかった。俺は植込の影から様子をうかがった。
路には土埃が立ち込めていた。視界がだんだんと晴れる。俺はその中に一台の車を見つけた。その車は、マキナさんとまったく同じ大きさで、まったく同じ形をしていた。
「あれが、九百九十九年と三百五十五日前の僕たち」
ツキが真顔で言った。
過去のマキナさんが後退した。ガラガラと音を立て、塀が崩れ落ちる。
その時、俺は気づいた。スーパーのほうから誰かが歩いてくる。階段で俺とぶつかった、あの男子生徒だった。
彼はマキナさんを見て、ぴたりと立ち止まった。彼は右手にペットボトルを握っている。青い水玉模様の乳酸菌飲料だ。
「出ました! 中生代ジュラ紀新世、場所は北米です」
マキナさんが報告した。ツキは「ありがとう」と言った。
過去のマキナさんがゆっくりと空に昇ってゆく。男子生徒はそれを見上げ、ボトリとペットボトルを落とした。「ちっこい車」はスーパーの向こうへ飛んでいき、やがて青空に溶け込んだ。
「これで一件落着だよ。どうかな。なんとなく流れはわかった?」
不意にツキが言った。俺は「まあ……なんとなく」とはっきりしない返事をした。
すると、ツキが今度はもじもじしながら切り出した。マキナさんも控えめにこちらを見ている。
「あのね、言いにくいんだけど……実は、寝床を探していて」
俺は溜息をついて、言った。
「親に相談してみるよ」
ツキが目を輝かせて、マキナさんを見る。彼女も車内燈をキラキラさせた。
こうして、五日間の大冒険が幕を開けたのだった。