#5 タイムマシン
車が一メートルほど後退して、ツキのほうを向いた。車内で緑色の光が点滅して、それから青や黄色の光が次々とともっていった。
「どこへ行っていたのですか! 心配しましたよ」
車は女性の声で喋った。ツキは困ったように髪を搔き上げた。
「ミヤマカラスアゲハに化けてたら、蜘蛛の巣に引っかかったの。それで遅くなっちゃった。ごめんね」
車内の光が強くなった。モーターの回転する音も聞こえてくる。
「小さな動物に変身したら危ないと、あれほど言ったではありませんか!」
「仕方なかったんだよ、マキナ」
ツキが苦しそうに言う。
「この時代は人間ばっかりで、大きな動物がとっても少いんだよ。野生種となると、小鳥か昆虫しか選択肢がなくて」
「それにしましたって、これほど遅くまであなたが帰ってこなかったこと、この九百九十九年間で一度もありませんでした! 時間をかけたのなら、もちろん成果はあるのでしょうね」
車――マキナさんが確認する。ツキは言葉を詰らせた。
「……ごめんなさい」
「どうしてこうもあなたは!」
マキナさんはますます怒った。
そして、はたと喋るのをやめた。こちらを向き、ツキに訊ねた。
「この黒い猫は?」
「人間の子供だよ。僕が巣にかかっていたところを助けてくれた」
俺はマキナさんを見つめた。
フロントガラス越しに何かが動いているのが見えた。小さなカメラのようなものが二つ、天井附近に並んでいる。俺が一歩左に寄ると、カメラも少し左を向いた。レンズの向こうで、真暗な孔が拡がったり、窄まったりする。
なんだか生き物みたいだな、と思った。その時、俺の耳が何かを捉えた。
「どうしたの」
ツキが訊ねた。俺は耳をぴくりと動かして、言った。
「何かが近づいてくる。プロペラみたいな音がするんだ」
音は少しづつ大きくなっていた。
マキナさんも何かに気付いたように、車内に光をともらせた。
「来ましたね。時間通りです」
ツキはマキナさんを見て、頷いた。それから、俺に言った。
「隠れて。その裏に」
ツキが室外機を指さす。俺は戸惑いつつ、その後ろに駈け込んだ。
ツキとマキナさんもすぐにやってきた。ツキは俺の隣でかがみ、身を潜めた。マキナさんは俺たちの後ろで停車すると、みるみるうちに透明になった。
心臓がばくばくと脈打った。
「どうして隠れるんだ」とか「これから何が起るんだ」とか、ツキを問い詰めたくて堪らなかった。でも、俺は我慢した。ツキは、室外機と室外機のあいだから息を殺して様子をうかがっている。その横顔が、静かにしていろよと無言でうったえているように見えたんだ。
音がやってきて、止った。俺は、ツキの足元から辺りの景色を覗いた。
屋上には、俺たち以外誰もいないように見えた。だけど、マキナさんとは別の方向からモーター音が響いてくるのを、俺は聴き逃さなかった。
景色がゆがむ。転落防止用の柵が、一部分だけ消えた。俺は息をのんだ。屋上の端っこにもう一台のマキナさんが現れたんだ。全体の形も、特徴的なタイヤも、瓜二つだった。
俺は本物のマキナさんのほうを見た。姿は見えないけど、モーターの回る音が聞こえる。
俺は、もう一台のマキナさんをじっくり眺めた。
運転席に誰かが乗っている。でも、視力が弱くて顔立や髪型まではよく見えない。
次の瞬間、車がまばゆい光に包まれた。視界が真白になる。俺は目を細めた。ツキも眩しそうに目をしばたたかせる。
光が弱まってゆく。発光が収まり、俺は目を見張った。車が跡形もなく消えていたんだ。
「……行ったね」
「行っちゃいましたね」
ツキが言い、マキナさんが返した。俺は車の停っていた辺りに駈けつけた。
車が透明になっただけだと、俺は頭のどこかで信じていた。だから、前足で車にちょんと触れようとしたんだ。でも、前足は空を切った。辺りで飛んだり跳ねたりもしてみる。それでも、俺は車にまったく当らなかった。
ツキが歩いてくる。マキナさんも色を取り戻しながら、ゆっくりと俺に近づいた。俺はツキに尋ねた。
「あの車は何だったんだよ。どこへ行っちゃったんだ?」
「あれは若いころのマキナだよ。サンジョウキの南極へ行ったの」
ツキが言った。あまりにさらさらと自然に答えたので、俺はうっかり聞き流しそうになった。
「今、『三畳紀』って言わなかったか」
聞き間違いかと思って、俺は確認した。ツキは「そうだよ。三畳紀。今から数えると、二億年以上前の時代だね」と言った。
俺は混乱してしまった。胸がドキドキして、頭の中が火を焚いたように熱くなった。
ツキの言葉の意味がわからなかったわけじゃない。――マキナさんは、いろんな時代を自由に行来できるんだ。だから、大昔の世界へ旅立つこともできる。逆に、過去のマキナさんがこの時代にやって来たって、おかしくはないんだ。
心を落ち着かせ、呼吸を整えてから、俺はゆっくりと訊ねた。
「マキナさんは、タイムマシンなんですか」
俺はマキナさんに向けて言ったつもりだった。だけど、猫の姿では言葉が通じないのか、彼女は答えなかった。代りにツキが「そう。マキナはタイムマシンなんだ」と答えた。
マキナさんは俺の目の前に停っていた。車内で青い光が点滅している。
わずかな時間に、いろんなことが俺の脳裡をよぎった。自分の将来のことや、俺の大好きな恐竜のこと。そして、忘れられないあの子のこと――。
タイムマシンの存在を、自分でもびっくりするくらい、俺は素直に受け入れていた。ツキの言葉が、とてもまやかしとは思えなかったんだ。不思議な道具や仕掛も、未来の技術で作られたのだと考えれば辻褄が合う。
「質問ばっかりで申し訳ないけど、訊いていいかな」
ツキは俺を見つめて頷いた。俺はずっと気になっていたことを訊ねた。
「ツキ。キミは一体何者なんだ」
俺は、ツキ自身のことについてほとんど何も知らなかった。
ツキは口を閉ざした。それから、ゆっくりと息を吐いて、うつむいた。
「僕が知りたいよ」
白髪が肩からこぼれる。その横顔を俺は黙って見ていた。