#4 猫になった俺
白髪はあの鏡を持ち、ベランダに出た。俺はそれを追った。背中から見て初めて気づいたんだけど、彼(彼女かもしれない)は見たこともない型の服を着ていた。それから、耳の上に青いリボンをつけていた。
白髪は何かを見つけると、俺の腕を引いた。そして、俺に手鏡を握らせた。さっき書き忘れたけど、この鏡の支えは持手にもなるんだ。だから、床に立たせることもできるし、うちわのように手で握ることもできる。
俺は鏡を覗き込んだ。鏡はステンドグラスのように透けていた。鏡越しに、植込で光る二つの目を見つけた。
ガチャン、とドアの開く音がする。白髪が鏡に触れた。途端に、手鏡がむくむくと膨らんだ。同時に重たくなっていく。ついには腕が耐えられなくなって、俺はそれを手放した。
「羽揺? ……羽揺、どこ?」
姉ちゃんの声が聞こえる。
気づいたとき、俺は布の山に埋もれていた。白髪が布団を被せたんだろう、と俺は勝手に解釈した。布団から這い出て、俺は姉ちゃんに居場所を伝えた。
「姉ちゃん、ここだよ」
ドアのほうを見て、俺は言葉を失った。
姉ちゃんが巨人になっている。身長が二階建の家くらいあるんじゃないかな。
姉ちゃんが俺に気づく。巨人に見下ろされて、俺は後ずさった。足に布団が絡まる。下を見て、俺は固まった。
布団じゃなかった。白いツルツルした生地と、暗い色の生地。その間に、書初半紙ほどの幅の、分厚い革の帯が見え隠れしている。大きさは全然違うけど、見憶えがあった。俺のワイシャツと制服のズボン。革製の帯は、俺のベルトだ。
あたりを見渡せば、見慣れたドアや、ベッドや、ベランダに続く掃出窓があった。姉ちゃんが巨人になったんじゃない。俺が小さくなったんだ。
「にゃんこが二匹……?」
姉ちゃんが呟いた。
彼女の顔色が悪く見える。部屋の色も、なんだかおかしい。景色が鮮かじゃない。世界から色がひとつ抜け落ちてしまったみたいだ。
「随いてきて」
声が聴こえた。俺は振り返った。
ベランダに真白な毛並の猫が立っていた。頭に青いリボンをつけていて、首から緑色の宝石をぶら下げている。
猫が駈け出した。動揺する姉ちゃんと、夜闇に消えゆく尻尾を見比べる。俺はベランダへ飛び出し、白猫を追いかけた。
白猫にはすぐに追いついた。
俺たちは、駅前で一番高いビルの階段をのぼっていた。階段といっても、商業施設でお客さんが使うような開放された階段じゃない。関係者以外立入禁止の、せまくて暗い裏の階段だ。
埃の積った段々を、白猫が飛び跳ねるようにして登ってゆく。さらりと揺れる尻尾を追いかけながら、俺は階段室をちらちらと眺めた。
風景はやっぱり鮮かじゃなかった。真赤なはずの消火栓ボックスが、くすんだ黄色のように見えた。そのかわりと言っては何だけど、暗闇なのに物の輪郭がはっきりと分った。
「猫は夜目がきくからね」
登りながら白猫が言った。いや、何も言っていない。振り返った猫の口は、閉ざされたままだったんだ。俺も、この耳で聴いたわけじゃなかった。なんというか、頭の中に直接語りかけてくるような。
「テレパシーみたいなものだよ。『千変鏡』を使えば、しばらくはこれでやりとりできる」
「何を言ってるのかさっぱりだ」
俺は言った。言ったつもりだった。だけど、俺の耳に聴こえたのは「みゃあ」という猫みたいな声だった。
俺は口を噤み、階段の途中で立ち止った。声があきらかに変だ。そう言えば、俺はずっと両手を地面につけて歩いている。無我夢中で追いかけていたので、今まで気づかなかった。
自分の腕を見て、俺は目を丸くした。黒くてもふもふになっている。手のひらには肉球まであった。
混乱する俺を見て、白猫が妖しく笑う。
俺たちはビルの屋上にやってきた。
空は曇っていた。月が見えたり、隠れたりしていた。航空障害燈が間近で点滅している。振り返ると、たくさんの室外機が運転しているのも見えた。
白猫は器用にペンダントを外し、足元に置いた。前足の肉球で、これまた器用に緑の宝石を踏む。宝石から、あの手鏡が飛び出した。
「見てごらん」
白猫が言った。俺はそれを覗き込んだ。
鏡に俺たちの姿が映っていた。一匹は端正な顔立の白猫だ。青いリボンをつけているんだから間違いない。
その隣にいるのは、しょぼくれた表情の黒猫だった。俺が瞬くと、黒猫も目をぱちくりさせた。後ろに力を入れると、俺のわきに黒い尻尾が横たわった。
俺は鏡にへばりついた。黒猫も俺に抱きついた。細いヒゲがぴゃんぴゃん生えている。口を開けると、舌の表面の小さなとげとげまでよく見えた。
俺は確信した。猫になったんだ。俺は猫になったんだ!
首筋にヒヤリとしたものが触れた気がした。俺は振り返って、白猫に説明を求めた。
「これはどういうことなんだ。……ええと」
「チョキだよ」
白猫が言った。
「チョキ?」
俺はその言葉を繰り返した。三秒くらい考えて、白猫に訊ねる。
「君は、チョキという名前なの?」
白猫は黙り込んだ。また三秒くらい経って、首をかしげながら言った。
「ううん、ツキだったかも」
「憶えてないの?」
訊ねると、白猫は困り果てたように「好きなほうで呼んでよ」と言った。
「ええと、じゃあツキさんで」
「『さん』は要らないよ。僕も付けないから」
「諒解……俺は羽揺。楢原はゆる」
俺が名乗ると、白猫改めツキが言った。
「ならはらハユル? あすかじゃないの?」
「それはペンネームだよ。っていうか、なんで俺のペンネームを知ってるんだ?!」
俺が驚いていると、ツキはペンダントをかけ直しつつ、さも当然のことのように言った。
「冊子を読んでたでしょ。ブシ、っていうの? そこに書いてあった。ベランダで見たよ」
「ああ、あの蝶はやっぱりきみだったのか」
俺は妙に納得した。
「ツキ。どうして俺が黒猫になってるんだ」
「ちょっと待って、段取があるから――マキナ!」
虚空に向けてツキが言った。猫の鳴声が響き渡った。
「貸して」と、ツキが俺に言った。俺は手鏡を明け渡した。
ツキが鏡面を肉球でたたく。俺はそれを覗き込んだ。
鏡に細かい文字がびっしり浮び上がっていた。これは初めて見た。部屋で見たときに気づかなかったのは、たぶん、蛍光燈の明るさに邪魔されていたからだと思う。
薄々わかっていたけど、これはただの手鏡じゃなくて、なんらかの機械であるらしかった。しかも、とんでもなく精巧な。
ツキが鏡の柄に触れる。次の瞬間、猫の体がむくむくと膨らんで、その場にスラリと立ち上がった。気づいたときには、あの白髪の美人になっていた。
「起きて、マキナ」
長い髪を夜風になびかせ、ツキが歩き出す。
そして、俺は我が目を疑った。眼の錯覚かと思った。
景色が突然ゆがみはじめたんだ。月がぐにゃりと潰れて線になり、消えた。俺の背後にあった室外機が映った。そうして、隠れていたものの表面がだんだんと見えるようになった。
ツキが立ち止る。その前には一台の車が停っていた。俺は一人感嘆しながら車の前に廻り込んだ。
銀色の車体に四つの車輪がついていた。車輪の構造が立体的で、中にプロペラのようなものが水平に取りつけられている。
「マキナ、お待たせ」
ツキが言った。俺の胸は期待に膨らんだ。
珍しい機械を持っているツキのことだ。きっと、この車は「喋る」んだ。ツキの声に反応して、今に恰好いいセリフが飛び出すに違いない。
「うーん、あと五分寝かせてください」
らしくない台詞が飛び出した。