#3 きみは誰?
宵。虫たちが鳴いている。
家に着いたとき、俺は暗闇で光る二つの眼を見つけた。目を凝らすと、玄関燈に照らされた白黒の体がぼんやりと見えてきた。近所で飼われている猫らしい。
俺がじっと見詰めるので、それを威嚇と受け取ったんだと思う。白黒猫は家の庭の方へ逃げ込んでしまった。
暗い廊下に青白い光が射し込んでいた。俺は扉をそうっと開けた。
「……ただいま」
「おかえり」
ダイニングの席に着いていた少女が、俺には目をくれずに言った。こつこつと鉛筆を動かしている。
彼女はもうラフな恰好に着替えていた。だけど、ポールハンガーに高校の女子の制服が掛かっていた。スカートの色は、俺が穿いている制服のズボンと同じだった。テーブルには大学の入試問題集が開かれている。その脇にはすみれ色の手帳もある。
鞄を置いて二階へ行こうとしたとき、「羽揺」と少女に呼び止められた。
「これ、明日配るやつ」
鉛筆を置いて彼女が差し出したのは、高校の文芸部の部誌だった。
彼女――楢原穂乃香は俺の姉ちゃんだ。俺の所属している文芸部の現部長でもある。
部誌は、表紙こそ同じだけど、今朝見たものより少し厚かった。
「羽揺の分も入ってるから」
姉ちゃんが言った。俺は申し訳なく思った。
「ありがとう。姉ちゃん」
そして、気付いた。
彼女が、俺の顔をじいっと見つめている。まるで変なものでも見るように、目をすこし細めている。しかも、視線が微妙に合わない。俺のおでこか、耳のほうを見ているみたいなんだ。
落ち着けなくなった俺は、そろりそろりと後ずさって二階へ逃げた。
俺はベランダに出た。
空には十日夜の月が浮かんでいる。眼下に家の庭が見えた。手摺を抱きかかえるようにして、月明りのもと、部誌を開く。
目次には俺の小説の題名も印刷されていた。他の部員とは書体が違っていた。著者名は「楢原あすか」となっている。
俺は首を横に振った。
(落ち込んでばかりじゃダメだ……)
ポケットから財布を取り出す。隙間からちょろっと青い布のようなものが覗いている。
財布を開くと、青いリボンが出てきた。正確に言うと、リボンをあしらったヘアゴムだ。形がよれよれで、ところどころ黄ばんでいる。
俺はそれを丁重に摘み、月にかざしてみた。逆光になったせいで、表面が毛羽立っているのがよく見えた。
そうだ、と俺は自分に言い聞かせた。
(姉ちゃんも応援してくれてる。いつの日か、きっと長篇小説を書き切ってみせるぞ!)
ガチャン、とドアの開く音がした。俺は慌てて振り返り、リボンと部誌を背中に隠した。
「な、何」
部屋の入口に姉が立っている。彼女は自分の頭を指差し、言った。
「羽揺、何つけてんの?」
「えっ?」
俺は自分の頭に触ろうとして、思い出した。手がふさがっていて触れないんだった。
姉はベランダまでやって来て、俺の頭を凝視した。心臓がばくばくと脈打つ。
俺の不安とは裏腹に、姉は呆れたように噴き出した。
「何かと思ったら、蝶々がとまってるじゃない。リボンでもつけてるのかと思って、わざわざ二階まで見に来ちゃった」
姉はくすくす笑いながら階段を降りていった。
俺は部屋に入り、窓ガラスに自分の姿を映した。右耳の上に黒い蝶がとまっていた。青緑色の綺麗な筋が入っている。
「あの蝶だ!」
俺は声に出した。
駅から家まで歩くあいだ、ずっとくっついていたのか。すれ違う人に見られていたかと思うと、過ぎたことなのに恥しくて、顔から火が出そうだった。
俺は蝶を素手で捕まえようと思った。部誌は持ったままだ。手のひらと中指以降で冊子を挟み、親指と人差指で蝶を摘む作戦だった。窓を覗き込みながら、慎重に。
でも、俺が捕まえる前に、蝶は俺の頭から飛び立ってしまった。
俺は掃出窓を全開にした。こうしておけば勝手に出ていくと思ったんだ。
だけど、蝶はなかなか出ていかない。何かを探し回るように蛍光燈の周りをぐるぐる飛んでいる。
「こっちから出られるってのに」
窓を軽く叩き、蝶に話しかける。蝶は言うことを聞かなかった。昆虫に言葉が通じるわけがないんだけど、駅前でのこともあって、この蝶は人間に従うんだと俺は信じ込んでいた。
俺はじれったくなった。
二段ベッドの上の段から虫採網を取った。部誌はベッドの下の段に置いた。でも、何を血迷ったのか、リボンは右手に持ったままだった。
網を振りかざす。蝶は軽々とそれをかわした。網の柄が窓ガラスに当って、「カツン」と滑稽な音が鳴った。
俺は網をもうひと振りした。蝶はまた逃げた。みごとに空振をして、俺は姿勢を崩し、カッコ悪く床に突っ伏した。
その拍子に、ズボンのポケットから小さなペンダントが飛び出した。緑色の宝石が「コトン」と床に落ちる。あとで交番に届けようと思って、まだ届けていなかったんだ。
蝶がはたとこちらに目を向ける。ひらひらとペンダントに寄ってきて、近くの床に降り立った。
しめた、と思った。虫採網を放り出し、両手ですばやく覆いをつくる。自分がずっとリボンを握っていたことに、俺はこのとき初めて気づいた。
両手で蝶を押し潰した。
「……あっ」
やっちゃった、と思った。
俺は勢い余って蝶を押し潰しちゃったんだ。あろうことか、リボンを持った手で。よりによって、あの大切なリボンで!
両手を離す。フローリングに青いリボンがへばりついていた。俺はおそるおそるリボンを床からはがした。その下に、無残な姿になった蝶を想像して。
だけど、そこに蝶はいなかった。俺は慌ててリボンをひっくり返した。何ともない。まっさらだ。
次の瞬間、リボンがぽとりと手から落ちた。リボンはよっこらしょと立ち上がると、ぴょんぴょこ跳ねてペンダントに飛びついた。
俺は口をあんぐりと開けてそれを見ていた。
ペンダントの緑色の宝石から、にゅるりと大きなものが出てきた。宝石はマッチ箱より一回り小さい。そこから、文庫本大の物体が飛び出したんだ。俺の目は釘づけになった。
それは、四角いうちわみたいな形をしていた。写真立のように後ろに支えがあって、それが空中でひとりでに開いた。カタンと音を鳴らし、床に着地する。
俺は身を起した。
板の表面に俺の顔が映っていた。天井の蛍光燈や背後の二段ベッドも見える。「これは鏡だ」と理解するのに、そう時間はかからなかった。
リボンがぴょこぴょことやって来て、鏡にもたれた。
気づいたとき、そこには俺と同じ年頃の美少女がいた。いや、長い髪のせいで女の子だと思ったけど、顔立をじっくり見れば男の子に見えなくもない。真白な髪を揺らしてフローリングに膝まづいている。肌も色が薄かった。まるで全身が透き通っているみたいに思えた。
俺は我に返って、第一声。
「だれ?!」
「僕と一緒に来てくれないかな」
声も中性的だった。オレンジ色の瞳で、真剣そうな目つきで俺を見つめてくる。
「どこへ?!」
「羽揺? 騒しいけど、何かあったの?」
一階から声がした。
「姉ちゃんだ!」
足音が階段を登ってくる。
俺はわたわたと歩き回った。部屋には見知らぬ白髪の美人がいる。この状況をどう説明したらいいんだろう。