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恐竜時代で放課後を  作者: 半ノ木ゆか
第6話 羽揺の過去
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#26 先史時代のウイルス

 氷河期から帰ってきた直後、俺は大変な目に遭った。体がのぼせたみたいに熱くなって、立っていることもままならなくなったんだ。


 教科書を詰め込んだ鞄を引きずる。朝食をとるため部屋を出ようとすると、ツキがドアの前に立ちふさがった。その手にはドライバーのような工具が握られている。


「羽揺、学校へは行かないべきだよ。部屋を出るのもよしたほうがいい」


「なんでだよ!」


 俺は拳を握り締めた。


「文化祭明け最初の登校日だぞ。宿題を提出しなきゃいけないんだ。こんな風邪ごときで……ゲホゴホ、へっくしょん!」


 慌てて口元を押えたので、汚いものが飛び散ることはなかった。マキナさんがこちらを向く。ボンネットは開きっ放しだった。


「鼻かんで」


 ツキがティッシュの箱を差し出してくれる。俺は「ありがとう」と言って紙を一枚取った。


 丸めた紙をゴミ箱に投げ捨てようとすると、ツキがまた手を差し出してきた。


「何」


「早くそのかんだやつ頂戴」


 俺はぎょっとして鼻紙を背中に隠した。


「どうして。汚いよ」


「免疫スプレーをかけてあるから、僕に伝染うつることはないよ」


 伝染るとか伝染らないとかそういう問題じゃないんだよな、と思いながらも、渋々それを手渡す。ツキはあの虫眼鏡のような道具越しに、真剣な眼差で鼻紙を覗き込んだ。


 ツキは何かを見つけると、今度は千変鏡を虫眼鏡のレンズに当てがった。俺は床を這い、その背後に廻り込んだ。


「ツキ、千変鏡なんて使ってどうするんだよ」


「羽揺の『風邪』を引き起した微生物を、これで特定するんだよ」


 鏡面には「遺伝情報読込中」の文字が表示されている。


 表示が変った。千変鏡が微生物を特定したんだ。その内容にツキが目を見開く。


「やっぱり。二十一世紀の生き物じゃない」


「えっ」


 意識が朦朧としかけていて、言葉の理解が追い付かない。


「羽揺さん。もしかして、免疫スプレーをきちんとかけなかったのでは」


「まさか。ちゃんと全身に……あっ」


 喉に噴きかけるのを忘れてた!


 ツキは息を吐いて、言った。


「マキナ。あれを出して」


「はい」


 マキナさんのダッシュボードから見憶えのある小銃がせりあがってきた。無色のガラスで出来ていて、液体の薬品が入っている。万化銃ばんかじゆうだった。


 丸めた鼻紙にツキが銃口を向ける。引金を引くと、何種類かの薬品を封じ込めた弾が飛び出した。鼻紙は濡れたそばから変質して、空気になってしまった。


「羽揺が外に出てたら、パンデミックになってたかもね」


「それって、病気が世界中で大流行しちゃうとかいう、あれ?」


 ツキが頷く。


 もし、俺が部屋の外に出ていたら。もし、俺が登校していたら。駅前の雑沓を歩き、ぎゅうぎゅう詰めのバスに乗り合せていたら。そう考えると、背筋が寒くなった。


「大昔の感染症だから、この時代の薬は太刀打できない。僕がこれから二十二世紀へ戻って、薬を買ってくるよ」


 ベッドで横になっていると、マキナさんが戻ってきた。


「羽揺さんの部屋に入らないよう、ご家族に伝えてきました」


「ありがとう、マキナ」


「二人とも、迷惑かけて本当にごめんな」


 俺は言った。喉に痰が絡っていて、変な声になっていた。


「すぐに戻るからね」


 ツキがマキナさんに乗り込む。


 部屋に光が満ちた。俺は反射的に目をつむった。目を開けると、もうそこにマキナさんの姿はなかった。


 チクタクチクタク、秒針が時を刻んでいる。


 薄い布団に顎まで潜り、上を見る。ここは二段ベッドの下の段だ。大きな木の板が視界いっぱいに広がっている。俺は三歳のころから毎晩この板を眺めてきた。木目の形もすっかり憶えている。


 そして、この板の向こうには。二段ベッドの上の段には――。


 だんだんと木の板が遠ざかっていくような錯覚がした。天井よりも雲よりも高い。空へ空へと昇ってゆくように見える。手を伸ばせば届くはずなのに。


 かと思うと、今度はそれが俺めがけて落ちてきた。目の玉に触れそうなほど接近する。俺は思わず手を盾にした。


 自分の指が目に映る。なんだかいつもより細く思えた。力を加えたら、小枝みたいにぽっきりと折れてしまいそうだ。俺の指って、こんなに頼りなかったっけ?


「なんなんだよ、これ……」


 怖くて、不安になって、両目をぎゅうっと瞑った。掛布団がものすごく重い。巨大な船が乗っかっているんじゃないかと思った。とても苦しかった。



 俺は霧の中にいた。


 あたりをきょろきょろと見回しながら、あてもなく歩く。右も左も真白だ。地面までかすんで見える。


 その時、鼻歌が聴こえた。


 立ち止り、耳を澄ます。女の子の声だ。背後から響いてくる。俺はきびすを返し、声の聴こえるほうへ急いだ。


 意外なほど近くにいた。


 白い空の下に一本の大樹が立っていた。その枝に一人の少女が腰かけている。彼女は俺に背を向け、足をぶらぶらさせながら、鼻歌まじりに何かを書き綴っていた。


 長い黒髪は、青いリボンで一本に束ねられている。


飛鳥あすか……飛鳥なの?」


 鼻歌が途切れ、彼女の足も止まった。ポニーテールが大きく揺れる。振り返った白い顔が俺を見下ろす。


 彼女は目を見開き、ノートを胸に抱えた。水色の表紙の可愛らしいノートだった。驚いたような、嬉しいような表情で、赤い唇を動かす。


「羽揺……ひさしぶり」


 前に会った時よりずっと大人っぽくなっていた。けれど、その声は間違いなく彼女だった。


「今までどこへ行ってたんだよ。ずっと探してたんだぞ」


 俺は嬉しくなった。喉に感情がこみ上げてくる。


「早く家に帰ろう。父さんも、母さんも、姉ちゃんも待ってる。今夜は飛鳥の大好きなカルボナーラなんだ」


 飛鳥はさみしそうな顔で、言った。


「ごめんね。もう帰れないの」


 俺は戸惑った。


「どうして。カルボナーラ、嫌いになったのか? カレー南蛮のほうがよかった? 何か嫌なことでもあったのか? それとも――」


「ちがうよ」


 飛鳥は首を横に振った。


「帰らないんじゃなくて、帰れないの」


 俺は言葉を失ってしまった。


 飛鳥の背中には白い鳥の翼が生えていた。彼女が肩を動かす。それと同時に、翼が拡がる。羽根の一枚々々が、明りを反射させてつやつやと光った。


 飛鳥が降り立つ。俺はそこに駆け付け、彼女の手を握った。冷たかった。


 大きな黒い二つの瞳が、涙を浮べてゆらゆら揺れていた。


「もっといろんなお話、書きたかった。もっとたくさんお出かけしたかった。もっとみんなと一緒にいたかった。でも……もう行かなくちゃ」


 彼女がまたさみしそうに笑う。肩越しに満月が見えた。


「飛鳥!」


 飛鳥の体がみるみるうちに灰になって、俺の手からこぼれてゆく。彼女はもう片方の手で、自分のノートを俺にあずけた。


 俺はノートを受け取り、言った。


「書くよ、俺! 飛鳥の分までたくさん書く! きっと書く! だから、それまで待ってて!」


 飛鳥は微笑んだ。


 風が灰を運んで行った。木と、月と、一冊の水色のノートだけが残った。

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