#20 ツキ、死ぬな!!
俺は恐れおののいて後ずさった。座席の背もたれがガクンと倒れた。
車体はどんどん傾き、ついに天地がひっくり返った。耳元で大きなしぶきの上がる音がする。マキナさんは転覆してしまったんだ。
ノートがばさりと落ち、頁がめくれた。ツキの服やおなじみの道具など、トランクの天井にはいろんなものが散乱していた。ツキも天井に落ちた。頭上でリボンがぴょこぴょこと跳ね回っている。俺の頭に血がのぼった。
「マキナさん、シートベルトを外して」
言いきる前に、俺は落下した。咄嗟に頭を守る。俺は体勢を立て直し、千変鏡をツキに差し出した。
ツキが鏡に寄りかかり、人間に変身する。絹のような白髪を乱して、顔を上げた。
マキナさんのヘッドライトが海中を照していた。甲殻類の幼生がうようよ泳いでいる。
「ツキ、あの眼玉だ」
俺は言った。ツキの背後を見て、肌が粟立った。窓の外に、吸盤の並んだ腕が貼りついている。腕は丸太のように太かった。表面はなめらかだ。それが、マキナさんを包み込むようにして巻きついている。
俺は助けを求めるつもりでツキを見た。ツキは穏やかな表情だった。
「平気だよ。マキナは銃弾を跳ね返せるくらい丈夫なんだから。――さあ、二十一世紀に戻ろう」
ツキがドアに手を添え、彼女に語りかける。
けれど、ツキはドアからすぐに手を離した。頭上のシートが、ずん、と低くなったんだ。
続いて、ドアがゆっくりと歪んだ。車体のあちこちから金属のきしむイヤな音が鳴る。ツキの顔が蒼白になった。
ドアの隙間から海水が入り込んできた。天井に水が溜まってゆく。ひたひたに濡れたノートがその水面に浮んだ。
「マキナ!」
ツキが呼びかけた。彼女のカメラは、もう水の中だった。ぴくりとも動かない。ツキの呼びかけにも応じなかった。
「ツキ、外に出よう。このままじゃみんな溺れる」
水は俺の胸にまで達していた。ドアの隙間から小さな気泡が逃げてゆく。
俺はツキの腕を引いた。壊れていないほうのドアを開け、逃げ出した。
海面に顔を出す。冷たい空気が肺の中に染み渡った。すぐそばで、ツキが悲痛な声を上げた。
「マキナ……!」
ツキがまた海に潜る。俺はそれを引き止めた。
「だって、マキナが、マキナが」
ツキの目から泪が溢れ出す。
俺はとても驚いた。どんなときも落ち着いていたツキが、こんなに取り乱すだなんて。
同時に、俺はツキに感情移入していた。ツキとマキナさんは千年間ずっと一緒だった。他には見知った友人も、頼れる家族もいない。やっぱりツキにとっても、マキナさんはかけがえのないひとなんだ。
そんなひとが目の前で傷つけられたら、俺だって心を乱して泣き叫ぶだろう。大切なひとが目の前で苦しんでいたら、どんな気持になるのか。俺には痛いほどよくわかる。
「マキナさんは無事だよ。大丈夫だから」
根拠もないのに俺は言った。罪悪感で胸が締め付けられそうだった。
「マキナさんの生れた時代に行こう。そこで、マキナさんを修理してもらおう」
ツキは泪をのんで頷いた。
俺たちは海に潜った。海水が眼に染みて痛かった。でも、マキナさんの前照燈はくっきりと見えた。さっきより深いところまで沈んでいる。
眼玉の主は見当らなかった。実は、あの動物は肌の色をある程度変えられるんだ。だから、海中の風景に溶け込んで、マキナさんのカメラまで騙してしまったんだ。
息が苦しくなってきたところで、マキナさんのもとに辿り着いた。ツキが素早くドアを開ける。見えない触手が彼女の車体を揺さぶっていた。俺は平泳ぎで車内に飛び込んだ。
ツキがドアを閉める。
マキナさんは未だ上下逆さまだった。トランクの床にまだ空気が残っている。俺たちはそこに顔を寄せ合った。
「……なんとかたどり着けたな」
はあはあ言いながら窓を見やる。俺はぎょっとした。触手が間近にあった。つるつるした肌の中で、墨汁を散らしたような色素の粒がさかんに瞬きしていた。
「まずはマキナの安否確認だよ」
ツキが顔を真赤にしながら言った。表情は真剣そのものだ。車内燈に照されて、目が充血しているのも見えた。
「見ればわかると思うけど……計器盤が真暗になってる。水に浸かった衝撃で消えただけだと思うけど。前照燈は点いてるから、たぶん大丈夫。……ああ、でも、計器盤と前照燈は別だから」
ツキは肩を震わせた。
「いいよ。無理に解説しなくていいから」
背中をさすってやった。
「俺は何をしたらいい?」
目を見てゆっくりと訊ねる。ツキは「うん」と言って、続けた。
「計器盤の右端に緑色の釦がある。それを押してほしい。僕には押す勇気がない」
「わかった」
俺が水に潜るとき、ツキが付け加えた。
「パネルが光ったら、マキナは無事だよ。でも、もしも光らなかったら――」
「言わなくていいよ!」
俺は慌てて止めた。
計器盤まで泳ぐ。と言ってもマキナさんは小さいから、手を伸ばせば指が届くんだけど。
ツキも様子を見に顔を覗かせた。
繰り返すけど、マキナさんは転覆している。計器盤の右端は、向かって左側に移動している。
緑色の四角い釦があった。ツキが固唾を飲んで見守る。俺はそっと釦を押した。
計器盤に光が走った。色とりどりの印が次々と点燈する。水中に立体映像も浮び上がった。上下は逆さまだったけど、そこには日本語でこう書いてあった。
「あと五分寝かせてください」
彼女は無事だったんだ。俺たちは手を取り合って喜んだ。
その時だった。マキナさんが一回転して、もとの姿勢に戻った。触手が巻き付き、車体が軋む。空気がみんな外へ逃げてしまった。
ツキと俺は顔を見合せた。息が続くうちに別の時代へ行かなければ。
ツキがあの独特のリズムでダッシュボードを叩いた。それに合せて、マキナさんが行先を入力してゆく。
足元につるつるしたものが触れていた。俺は下を見て、目を丸くした。ドアの隙間が大きくなっている。そこから、触手の尖端が入り込んでいたんだ。
長い腕が一気に車内へ滑り込む。同時に、マキナさんのドアが外れてしまった。重いドアが海底に向かって落ちてゆく。俺は慌ててドアを拾い、もとの位置へ戻そうとした。
でも、腕の方が素早かった。平たい尖端がツキのふくらはぎに貼りつく。ツキが顔をしかめた。その口から気泡が溢れ出す。
カメラがツキのほうを向いて、止った。
俺は急いでドアを車内に引き込んだ。ドアに触手が挟まる。触手は一瞬で肌の色を変えて、車外に退散した。
(ツキ、死ぬな!!)
ツキを揺さぶる。けれど、目蓋は閉じている。まるで眠っているみたいだ。
そうこうしているうちに、あの動物が戻ってきた。今度はマキナさんを手に取って、車内を覗く。うつろな眼が静かに俺たちを見下ろした。
苦しかった。頭がものすごく痛い。俺も、もう限界だった。
息を吐き出す。
遠のいてゆく意識のなかで、動物の口を見た。軟かそうな皮膚から嘴を剝き出して、俺を喰らおうとした。




