#2 言葉がわかる蝶
「すみません。通らせてください!」
学校の廊下で、俺は紙束を抱えながら人混みを縫っていた。段ボール箱を抱えた先生や、壁を飾りつけていた生徒が「なんだなんだ」と言うような顔で俺を振り返る。
雑沓を抜け、急ブレーキをかける。勢いあまって通り過ぎてしまった。上履で滑る足をもたつかせながら、階段を一段とばしで駈け昇る。
俺は、前をよく見ていなかった。目的の階についたとき、一人の少年とぶつかってしまった。
「わっ!」
「いてっ」
原稿が宙に舞う。尻餅をついた拍子にポケットから財布が飛び出した。
財布がくるくる自転しながら、カーリングの石のように床を滑った。あたりに散らばった紙に構わず、俺はすぐさま財布を掬い上げた。青い布切のようなものが覗いている。俺は財布を少し開けて、それを丁寧に中へ収め直した。
「痛っえな、気をつけろ」
制服を着崩した少年が腰を擦りながら立ち上がった。俺は財布を背中に隠し、頭を下げた。
「す、すみません」
急いで原稿を搔き集め、クリップでとめる。腕時計を見て、気づいた。
「うわっ、あと五秒しかない!」
学内にチャイムが鳴り響いた。引戸を開ける。俺は肩で息をしながら、言った。
「遅く、なりました……!」
教室内には一台の机があった。席に着いていた少女が、部誌の束をトントンと机に立て、角を揃えている。その手元には手帳が置かれていた。表紙はすみれ色だった。
「もう刷り終っちゃったよ」
彼女が澄した声で言った。
どっと疲れが押し寄せた。部誌に載せるはずだった原稿を抱え、扉に寄りかかる。教室を飾りつけていた一年生たちが俺のほうを見た。黒板には色とりどりのチョークで大きく「文芸部」と書いてあった。
少女は席を立った。彼女が手のひらを差し出すので、俺はおそるおそる原稿を手渡した。
「文化祭は二日間あるから。これは、明日刷る分に挟んでおくね」
俺はほっと胸を撫で下ろした。
「でもね、羽揺」
俺にだけ聞こえる声量で、俺の名前を呼んだ。彼女は続けた。
「何度も作品を書き直す、その姿勢は素晴しいけど……〆切を破るのはこれで十八回目だよ? 文芸部の二年生は羽揺一人だけど、いつまでもこんな感じなら、次期部長は任せられない」
俺は唇を嚙み、うつむいた。
「マジなんだって!」
午後。鞄を背負って校舎から出たとき、聴き憶えのある声が上がった。俺は校門を抜けた。
学校を囲う塀の一部に人だかりができていた。声はその中から聞こえてくる。近くの路肩にパトカーが駐っていた。
「それを見たのはきみだけなんだね」
人だかりに頭を突っ込む。人数が多くて、視界が狭まる。ちらりと、警察官が聞取をおこなっているのが見えた。それを受けているのは、けさ階段で俺とぶつかったあの男子生徒だった。
「そうなんですよ」
彼は大きく両腕を拡げ、訴えた。隣には副校長先生が立っていた。
「今朝、喉が乾いたから、そこのスーパーに飲物を買いに行って。で、学校に戻るとき、この道からでかい音が聞こえたんですよ。それで、覗いてみたら」
彼の背後を一目見て、俺は息をのんだ。塀の一部がぐずぐずに崩れている。
「ちっこい車が壊れた塀の前に停ってたんですよ」
「その、あなたの言う『ちっこい車』っていうのは、軽自動車のこと?」
副校長先生が訊ねた。男子生徒が首をひねる。
「軽といえば軽の範疇なんだろうけど、普通の軽よりずっと小さかった。一人乗くらいの」
「車の色とか、ナンバープレートは憶えていますか? その後どこへ向ったとか」
警察官が身を乗り出す。少年は真剣な眼差で言った。
「銀色で、プレートはありませんでした。バックしてすぐ、浮び上がって、空に溶け込みながらスーパーの裏へ飛んで行ったんです」
副校長先生が思わず吹き出した。
耳元でくすくすと笑い声が洩れた。警察官は眉尻を下げて言った。
「きみ……想像力が豊かなのはいいけど、私たちをからかうのはやめてほしいな」
「マジなんですって!」
少年は声を張った。
「ちっこい車が飛び立って、透明になったんですよ!」
俺は一人、肩をすくめてその場を立ち去った。
駅前を人々が行き交っている。
タクシーが列をつくり、バスが替りばんこに出入りしている。俺はICカードをしまい、歩き出した。
視界の隅にキラリと光るものが映る。俺は人混みに流されて一旦は通り過ぎた。だけど、なんだか気になってその場まで引き返した。
逆行する人とぶつからないよう気をつけながら、アスファルトの上を慎重にさがした。目的のものはすぐに見つかった。革靴やサンダルやパンプスに踏まれそうになりながら、小さな光が煌めいていた。
「よっ」と、俺はそれを拾い上げ、歩道の脇にすばやく寄った。ゆっくりと手を開くと、掌の上で緑色の宝石のようなものが転がった。太陽の光が透けて、きれいな黄緑色の影をつくっている。
摘んで、じっと観る。宝石は平たい三角柱だった。端には孔が開いている。その孔に細い細い鎖が通って、直径七センチくらいの輪っかをつくっていた。ペンダントのようだけど、それにしては紐が短すぎる。手首につけるのかな。
あとで交番に届けよう。そう思って、ペンダントをポケットに入れて立ち去ろうとしたとき、植込に何かがとまっているのに気づいた。
黒い蝶だった。翅に青緑色の筋が入っていて、それこそ宝石みたいに美しかった。
「こんな蝶、七姫にいたんだな……」
独言をもらしながら蝶に近づく。
蝶はなかなか逃げなかった。どうしてだろうと首をかしげると、輻射状に伸びた白い糸が見えた。蝶は植込にとまっているんじゃなくて、蜘蛛の巣に引っかかっていたんだ。
巣の主が今にも蝶に触れようとしていた。
俺はしっしっと蜘蛛を指で追い払った。蜘蛛は巣の端まで後ずさって、長い肢を折り畳んだ。
大勢の靴音が響いていた。背後に視線を感じる。だけど、そんなことはどうでもよかった。
巣から蝶をはがそうとする。蝶は俺の指が触れると、翅をはばたかせて暴れた。
「大人しくしろって」
不満を漏らすと、驚いたことに蝶は大人しくなった。まるで俺の言葉が通じたみたいで、不思議だった。でも、おかげですんなりと作業が進んだ。
俺は蝶を傷つけないよう、慎重に糸をはらってやった。
「次は気をつけろよ」
指を離す。
蝶が夕焼空に飛び立った。俺はそれを見送って、家路についた。