#16 訪問者
「ただいま」
傘立に紺色の傘とすみれ色の傘が差し込まれた。俺は文化祭の片付けがおわって、姉ちゃんとともに昼前に帰ってきたんだ。
「おかえりなさい」
焜炉に火を点け、母さんがこちらに目をくれる。
「お母さん、ただいま」
姉ちゃんが鞄を置き、返事をした。
「羽揺、おかえり」
「羽揺さん、おかえりなさい」
「ツキ、マキナさん、ただいま」
ツキはソファーに腰掛けテレビを観ていた。母さんに貰ったのかな。珈琲味のチューブ型アイスを吸っていた。マキナさんもその隣に停り、物珍しそうに天気予報を観ている。
「関東平野は晴れる見込です」
スーツを来た気象予報士が棒で地図を指し示す。俺たちの住む七姫市は、降水確率〇パーセントだそうだ。
姉ちゃんが二階へ上がる。俺も階段を駆け上がり、自室に入った。
制服を着たままに椅子に腰掛ける。ふと、机の上に目がとまった。ぼろぼろの恐竜図鑑と開きっぱなしのノート。そしてシャープペンシルが転がっている。その脇に、文化祭で配った部誌が置かれていた。
何気なく部誌をめくる。自分の小説を読み返し、愕然とした。
「なんだよ、これ……」
気取った言葉遣い、独特すぎる比喩。完全に自分の文章に酔っている。とても人様に見せられる代物ではないと思った。
耳が熱くなった。ツキの笑顔が脳裡をよぎった。ツキはおととい、これを読んで「おもしろいね」と言ってくれた。けれど、あの感想はお世辞だったんじゃないか?
俺はいたたまれなくなった。勢いに任せてその頁をむしり取った。ぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に叩き込む。
肩で息をしながら、ゴミ箱を見下ろす。その時、インターホンが鳴った。
「穂乃香、出てくれる?」
階段の奥から母さんが声がした。
「羽揺、出てくれない? 私、まだ着替えてるから」
隣の部屋から姉ちゃんが顔を出した。
姉ちゃんと目が合った。彼女の表情がこわばる。たぶん、俺がとても怖い顔をしていたんだと思う。
「……出てくるよ」
顔を見られないよう下を向きながら、玄関へ向かった。
扉を開ける。その向こうを見て、俺は思わず「わっ」と声を上げた。部誌のことなんてどこかへすっ飛んでしまった。
玄関に仮面をつけた男が立っていたんだ。
「ど、どちら様ですか」
びくびくしながら訊ねる。男は「そうだなあ」と考える素振をしてから、「ユウとでも呼んでよ」と軽々しく言った。
ユウさんは俺よりほんの少し背が高かった。なぜか半透明のレインコートを羽織っている。その中に着ているのは白い半袖のシャツ。防水加工のある紺色のロングパンツを穿いていた。裾の下に見え隠れするのは黄色いレインスニーカーだった。
「ユウさん。ご用件は」
彼は「あ、そうだったそうだった」とわざとらしく頭を搔いた。
「実は、この家に泊めてほしくてお邪魔したんだよ」
白い中華風の仮面には目の穴が二つあいていた。黒い瞳が俺を見下ろし、微笑む。
背筋がぞくぞくした。どうしてこの家に泊まるんだ? どうして顔を隠しているんだ? 意図がわからなくて、気味が悪かった。
「親を呼んでくるので、待っていてもらえますか」
上ずった声で、やっとそれだけ言った。俺が振り返ると同時に、ツキが廊下にやってきた。
「どうしたの。羽揺」
ツキが玄関を見た。そして、ユウさんの風貌にぎょっとする。
俺はもう一度ユウさんを見て、ツキとは違う意味で目を見張った。彼は傘立を物色していたんだ。
「ユウさん、それ、俺の傘」
ユウさんは紺色の傘を引き抜き、一人で外に出て行った。
俺たちは頷き合うと、外に飛び出した。
「非道いじゃないですか。他人のものを勝手に持ち出すなんて」
俺は抗議した。ユウさんは俺の傘を携え、飄々と住宅街を歩いている。
「君らが濡れないように、俺が持っていくんだよ」
ちらりと振り返ってユウさんが言った。俺は彼の言葉の意味が分からなかった。水溜りに青空が映っている。
ツキが俺にこっそりと尋ねてきた。
「誰?」
俺は首を横に振った。
「こんな変な人、知らないよ。勝手に訪ねてきたんだ」
「羽揺の知合じゃないの?」
「まさか」と言おうとして、俺は口を噤んだ。
俺は、ユウさんの声に既知感を覚えていた。以前にどこかで聴いたことがあるような気がしたんだ。一人々々、知合の顔が脳裡に浮かぶ。けれど、なかなか思い当る人がいなかった。友人の声でもないし、親戚の声でもない。学校の先生の声でもなかった。
スーパーマーケットに入った。白髪のツキが一人いるだけでも相当目立つのに、今日はユウさんもいる。仮面をつけた男が買物籠をぶらさげている姿は、周りの視線を総なめにした。
ユウさんは即席麺の売場へ向った。通路にはいろんな種類のカップ麺が所狭しと並んでいる。
「どうして顔を隠しているんですか」
俺は尋ねた。
「どうしても隠さなきゃいけないんだ」
仮面越しに棚とにらめっこをしながら、彼は答えた。
ユウさんはレジへ向った。籠からはカップラーメンが溢れんばかりだ。
その途中、ふと彼が立ち止った。
パン売場の隅にカートがいくつか置いてあった。その中に和菓子が並べられている。よく見ると、一九八円のふぞろいどら焼七ヶ入が、一五八円に値下げしている。
彼はそれを一袋、籠に入れた。
「やっぱり晴れてるじゃないか」
ユウさんが会計を済せている間。店の外に出て、俺は拍子抜けた。道路に張った大きな水たまりが、昼間の日の光を反射させていた。
ツキがふふっと笑った。
「『何が起るんだろう』って身構えてたけど、杞人の憂えだったね」
俺たちは笑い合った。
ユウさんが歩いてきた。大きな買物袋を片手に提げている。もう片方の手には俺の傘が握られていた。
「ユウさん。その傘使わなかったんですから、早く返してくださいよ」
俺が声をかけた、その時だった。
自動車が道路を走り抜けた。水溜りが巨大なしぶきになって俺たちに襲い掛かる。ツキが腕を盾にした。俺は目をつぶった。
まぶたの向こうで、水が何かに当って弾けた。
不思議に思って目を開ける。紺色の傘が開かれていた。水に濡れてキラキラ輝いている。一方、俺は濡れていなかった。ツキも無事だった。
ユウさんが傘を畳む。彼の体は濡れていた。つるつるしたロングパンツが水滴をはじいていた。
「未来から来たんだね」
いつもより低い声で、ツキが言った。
そうか、と俺は納得した。ユウさんはこうなることが分かっていて、俺の傘を持ち出したんだ。レインコートを着てきたのも同じ理由からだ。
「誰? 何をしにやって来たの?」
ツキが睨む。
その剣幕を吹き飛ばすように、ユウさんは爽かに笑った。
「俺は『ただの助っ人』だよ」
そう言って、俺に傘を返してくれた。
「ツキ、俺はもうかけたよ」
俺の部屋で、ツキに免疫スプレーを手渡す。ツキはそれを受け取る前に、確認した。
「喉も?」
俺は「あっ」と声を漏らした。
「忘れてた……今からかける」
ユウさんは床に坐り込み、どら焼を食べていた。レインコートを脱ぎ、ズボンも履き替えている。仮面を少しだけずらし、口をもぐもぐさせていた。
「はい。これは手を付けてないよ」
ユウさんが皿を差し出してくる。どら焼からは湯気が立っていた。バターと小豆の甘い香りも漂ってくる。俺はそっぽを向いた。
「遠慮します」
「どうして。好きなんだろ」
鳥肌が立つ。ごくんと唾を飲み込んだ。確かに、俺はどら焼が好物なんだ。
「……どうして知ってるんですか」
おそるおそる振り返る。ユウさんが未来人だとしても、果してそんなことまで調べられるのかな。誰にも話したことがないのに。どこにも書いたことがないのに。
「ユウさんって、何者なんですか」
「だから、ただの助っ人だよ」
何度訊いても、同じ言葉を繰り返すばかりだ。
「『助っ人』と言いましても、一体全体、私たちの何を助けるのですか。人手はもう足りています」
マキナさんが言った。ユウさんはどら焼を吞み込んで、彼女のカメラを見詰めた。そして、こう言い放った。
「これから陥るんだよ。ピンチに」
マキナさんが黙り込む。ツキが顔を真青にさせた。俺は息を飲んだ。
俺たちの反応をユウさんが笑い飛ばす。
「心配するなよ。本当のピンチになった時は、俺が颯爽と駈けつけてやるから」
ツキが困惑気味に訊ねる。
「だとしても、どうして僕たちを助けるの? 僕たちと何の繋りがあるの?」
ユウさんがペットボトルのお茶を一口含む。そして、ぴんと立てた人差指を口元に添えた。
ツキは首をかしげた。




