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恐竜時代で放課後を  作者: 半ノ木ゆか
第3話 ジュラ紀の森
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#11 免疫スプレー

羽揺はゆる、支度できた?」


 階段から姉ちゃんの声がした。俺は答えた。


「あと少し!」


 鞄を背負い、部屋を出ようとする。その時、二段ベッドの上の段に目が留まった。


 ツキとマキナさんは、俺たちが朝食をとっている間にも起きてこなかったんだ。


 俺はベッドを覗き込んで、布団代りのハンカチをツンツンつついた。


「ツキ、朝だぞ」


 ハンカチを取る。すると、白いねっとりとしたものが糸を引いた。


「うわあ!」


 俺はびっくりしてのけぞった。


 よく見ると、白いものは動いていた。リボンを引きずり、ハンカチの上を這い、ペンダントに触れる。千変鏡が飛び出す。


 床に白髪の美人が降り立った。俺は目をぱちくりさせながら、言った。


「お、おはよう」


 ツキはぼそりと呟いた。


「変形体」


 俺は首をかしげた。ツキが溜息をつく。


「今のが僕の素の姿だよ」


 ベッドから四次元ペンダントを取り、自分の首にかける。俺はその横顔に訊ねた。


「どういうことなんだ」


「……昨日、猫から人間に戻るとき、自分のもとの姿を思い浮かべたでしょ」


 俺は頷いた。


「僕はもとの姿を憶えていないから、変身を解こうとすると、コンピューターがエラーを起すの。それで、ああいう不定形になっちゃうんだよ」


 そう言って、長いまつ毛を伏せた。髪と同じような真白なまつ毛だった。


 俺は、なんと言葉を返せばよいのかわからなかった。


「羽揺! 文化祭、間に合わなくなっちゃう!」


 姉ちゃんの声が響く。


「ごめん。俺、急いでるんだ」


 足を踏み出す。ツキは口角をあげて「うん。行ってらっしゃい」と言った。


 俺は階段を降りながら、ツキの表情を思い浮かべた。まつ毛を伏せた、あの表情を。


 自分が何者なのかわからないというのは、一体どんな心地なんだろう。さまざまな姿に化けながら、そのいずれもが本当の姿でなかったとしたら。五百年もの長いあいだ、どうやって自分と向き合ってきたんだろう。



 窓からほのかな光が射し込んでいた。ダイニングにノートとシャーペンのこすれる音が響いている。


 文化祭から帰ってきた俺は、学校の宿題を凄じい速さで片付けていた。ほとんどの課題は文化祭前に終らせていたから、あとはその数学の問題を残すだけだった。


 向いの席の姉ちゃんも、俺のほうをちらちらと見ながら大学の過去問集の頁をめくっていた。その手元にはいつものように、すみれ色の手帳が置かれている。


「……よし、終った!」


 筆記用具を搔き集めて、わくわくしながら席を立つ。


「ねえ、羽揺」


 手を止めて、姉ちゃんが俺を見上げた。


「ちょっと相談があるんだけど――」


「ごめん」


 俺は彼女の言葉を遮った。


「ツキとの用事があるから、またあとでね」


「……わかった」


 姉ちゃんはそわそわしながら問題を解きはじめた。


 俺は履きなれた靴をぶら下げ、部屋の扉を意気揚々と開け放った。


「ツキ、今日はジュラ紀に行くんだろ」


 ジュラ紀といえば恐竜の時代だ。俺の心は浮き立っていた。


 部誌を読んでいたツキは、俺の姿に目を見張り、両手を胸の前で振った。


「だめだよ。そのままの恰好は」


 俺達は庭先に出た。西の空は曇っていて、もう薄暗かった。ツキが蛇口の前でかがみ、ペンダントから虫眼鏡のような道具を取り出す。


「これで靴の裏を見てごらん」


 何気なく虫眼鏡を受け取る。ジュラ紀に履いていくつもりだった靴の裏を覗いて、ぞっとした。脚のない虫がうじゃうじゃ這いまわっていたんだ。それが、ソーセージくらいの大きさに拡大されている。


「なんだなんだ、この生き物は」


 ツキは蛇口をひねった。


「原虫と細菌。ダニのなかまや植物のたねも入ってるね」


 俺の靴をたわしで丹念に洗う。


「僕らの身のまわりには、小さな生き物がたくさんいるんだ。もしもこんなのを大昔にばらまいたら、その時代の生き物がおびやかされちゃうかもね」


 ツキが水を切る。俺は納得した。


「だから、こうして洗い流しておくのか」


 速乾ドライヤーで靴を乾かしながら、「逆のことも言えるよ」と付け加えた。


「ジュラ紀にも微生物はたくさんいる。その中には、人間が今まで出会ったことのないような、危険な細菌やウイルスもある。それを今の時代に持ち帰ったら、大勢の人間が死んじゃうよ」


 俺は「コレラ」とか「天然痘」とかいう単語を思い浮べた。世界中で流行はやった病気はたくさんある。同じことがまた起ってもおかしくないんだ。


「自然の吊合をくずしかねないから、別の時代へ生き物を連れていくことは、未来の法律で固く禁じられてるんだよ」


 ツキはペンダントからスプレー缶のようなものを取りだした。


「『免疫スプレー』。これを噴きかけると、物の表面に見えない膜ができるの。――かけてもいい?」


「いいよ。……うわ、何するんだよ!」


 ツキが、俺の顔面にスプレーを噴きかけたのだ。


「だって、今『いい』って言ったでしょ」


「靴にかけると思ったんだ」


 俺は咳込みながら言った。目もしょぼしょぼする。ツキは「ごめんね」と言った。


「羽揺。口を開けて」


「えっ、喉にもかけるの?」


「大丈夫。毒じゃないから」


 俺は目をつむり、大きく口を開けた。「シュー」という音が聴こえた。


「ツキ。これにはどういう効果があるんだ」


 目を開けて訊ねる。ツキは俺の靴にもスプレーをかけた。


「水や空気は、このスプレーで作った膜をすり抜けられる。でも、蛋白質なんかの大きな分子は弾き返されるんだ。だから、病気のもとになる微生物がやってきても、羽揺の体には附かない。逆に、体にもともと住みついてた微生物を、大昔に落してくる心配もないよ」


 俺は自分の腕に触れて、言った。


「菌をくっつけたままにするのか……なんか不潔だな」


「ゴシゴシ洗えばすぐ落ちるよ」


 ツキは靴を俺に返してくれた。


「洗わなくても、十二時間経つと効目が切れるから。毎度かけ直すのを忘れないでね」


 俺は頷いた。


「気をつけるよ」


 ツキは階段を登りながら言った。


「マキナの車体も表面が特殊な構造になっていて、汚れや微粒子をはじくんだよ」


「そうか」


 俺は合点がいった。道理で床が汚れないわけだ。


「それはいいとして、俺の体の中はどうするんだよ。息したり、瞬きしたりするのは大丈夫そうだけど、水なんか飲み込んじゃったらイチコロだよ」


 ツキは微笑んだ。


「行ったら話すよ」


 二階に着くと、ツキが立ち止った。俺はその肩越しに前方を見た。俺の部屋の扉の前に、姉ちゃんが立っていたんだ。


「俺ならここにいるけど」


 ツキの前に出る。扉を見上げていた姉ちゃんは、「あ、羽揺。下にいたの」と笑った。すみれ色の手帳を胸に当てて持っていた。その小口から写真がはみ出ている。どこかの海岸が写っているらしかった。


 俺は訊ねた。


「それで、何の話だっけ」


 姉ちゃんはツキのほうをちらりと見て、慌てたように手帳を背中に隠した。


「ううん、なんにも!」


 そう言って、隣の部屋に閉じ籠る。扉の表札が揺れ、カランと軽い音を立てた。「穂乃香の部屋」と書かれている。


 ツキが小首をかしげる。白い髪がさらさらと零れた。俺は肩をすくめて自分の部屋に入った。


「マキナ。そろそろ行くよ」


 ツキが虚空に向けて言った。数秒後、部屋の中央にマキナさんが現れた。


「あと五分だけ寝かせてくだ……あっ」


 彼女は天井燈を赤くした。


「ごめんなさい。すぐ支度します!」


 車内のメーターがあわただしく動き出す。


「羽揺、今日行く場所がどんなところか知ってる?」


 ツキが向き直り、訊ねてくる。俺は「もちろん!」と大きく頷いた。


 俺は恐竜図鑑を開いた。全身が鱗でおおわれた、軽快そうな二本足の動物が描かれていた。長い尻尾をくねらせ、手には三本の鉤爪を備えている。大きく開けた口には、鋭い歯がずらりと並ぶ。目の上には三角形の小さな角のようなものが生えていた。


「ジュラ紀後期の北アメリカには、アロサウルスがいたんだ。俺の一番好きな恐竜だよ」


 頁をめくりながら喋る。


「ステゴサウルスは有名だよね。それから、ブラキオサウルスも。ディプロドクスにケラトサウルスにコエルルスに、それからそれから――」


 ツキはお腹をかかえて笑った。


「……わかったわかった。羽揺はよく知ってるね」


 俺は顔を赤らめて、図鑑を閉じた。カバーが破れていて、ぼろぼろだ。


「使い込んでるね」


 ツキが見遣る。俺は図鑑を抱きしめた。


「俺、動物が好きなんだ。ペットとか、博物館の剝製とかじゃなくて、大自然でのびのびと暮してるのが好き。だから、マキナさんがタイムマシンだって知ったときは、わくわくが止らなかったよ。なんて言ったって、生きて動いてる恐竜を見られるんだからね。今も、夢を見てるような心地さ」


「夢じゃないよ」


 ツキが立ち上がる。


「僕たちはこれから、本当に恐竜時代へ行くんだよ」


 俺はゆっくりと頷いた。靴を持ち、図鑑を机の上に置いた。

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