#10 家族と対面
俺たちはふたたびマキナさんに乗って、夜に戻ってきた。
靴を脱ぎ、真暗な場所に降り立つ。俺は明りをつけた。俺の部屋だった。ここでツキと出会い、猫に変身したことが、遠い昔のことみたいに思えた。
マキナさんはあたりを物珍しそうに見まわしていた。彼女は普通の車よりずっと小さいから、大して広くはない俺の部屋でも、ある程度なら走り回ったり、飛び回ったりすることができた。土足(足じゃなくて車輪だから、土輪とでも言うべきかな)だったので、床が汚れるのではないかと俺は心配した。だけど、不思議なことにマキナさんは砂粒ひとつ落していなかった。
「服、貸すよ」
クローゼットを開けながらツキに言った。
「見慣れない服装だから、俺の家族がびっくりするかもしれない」
俺の服を何着か差し出す。ツキの性別がわからないから、女性が着ても違和感のないものを選んだつもりだった。
ツキは自分の着ていたものを見て、頷いた。
「ありがとう。確かに、時代に見合った服のほうがいいよね」
部屋を出て、着替が終るのを待つ。廊下の掛時計を見上げた。六時半前だった。一方、腕時計の針は九時半を指している。どうやら、三時間ほど早い時刻に戻ってきたらしい。
「着替えたよ」
ツキの声がした。俺は扉を開けた。
「なかなか似合ってる」
素直に感想を伝える。ツキは照れ臭そうに「ありがとう」と言った。
その時、物音が聞こえた。俺は振り返った。足音が階段を登ってくる。
「誰かが来た」
俺は小声で伝えた。もしかしたら、過去の俺が帰ってきたのかもしれない。
ツキがペンダントから透明な何かを引っ張り出した。
「『隠れコート』があるから、平気だよ」
そう言って何かを羽織る。途端に、ツキの首から下が透けてしまった。俺は足踏をしながらそれを見ていた。
「これを着ると周りから見えなくなるの。マキナと同じメタマテリアルで出来ていて、周囲の光を迂迴させるんだよ。今は顔が見えているけど、フードをかぶれば完全に――」
俺は待ちきれずに言った。
「説明はいいから早く!」
ガチャン、とドアの開く音がする。俺は二段ベットの下の段から息をひそめて様子をうかがっていた。ツキは俺の隣にいる。マキナさんは部屋の隅で透明になり、じっとしていた。
扉の向こうから人影が現れた。ドキン、と心臓が跳ねる。もう一人の俺が部誌を持って入ってきたのだ。
過去の俺はベランダで脚を組み、部誌を開いた。俺がやった通りだ、と思った。過去に来ているんだから当然と言えば当然なんだけど、ちょっとした感動を覚えた。
今度は姉が入ってきた。自分の頭を指差し、彼女が言った。
「羽揺、何つけてんの?」
俺は二人のやり取りから目をそらし、ツキのいるほうを見た。
ツキも俺と同じように隠れコートを着ている。だから、姿は見えない。けれど、目を凝らせば敷布団が凹んでいるのが見えるし、耳を澄ませば呼吸音が聴こえるので、そこに坐っているということはわかる。
もう一人の俺が部誌をベッドに投げこんできた。俺はそれを放置した。
敷布団の表面が波打つ。耳元でツキの声が囁いた。
「読んでいい?」
俺は部屋の中を見渡した。過去の俺は、蝶を追うのに夢中になっている。
「どうぞ」と差し出すと、部誌が浮游した。空中にとどまり、ペラペラと頁がめくれる。とてもシュールな光景だった。
白猫と黒猫が窓の外へかけていった。それを見計らってコートを脱ぐ。動揺していた姉が、俺に気づいた。
「あ、そこにいたの」
そう言って視線を逸らす。俺も隣を見た。コートを脱いだツキが、ベッドの端に腰かけていた。
「はじめまして」とツキが頭を下げる。姉は目をぱちくりさせて、言った。
「……どちらさま?」
*
「別にいいけど」
皿をカウンターに置き、母さんが言った。それを聞いたツキとマキナさんが、リビングで嬉しそうに踊りはじめた。
「ええっ! 泊めちゃっていいの!?」
俺は仰天した。母さんは当然のごとく言った。
「『いい』って言ってるでしょ。そんなことより、早くこれで拭いて」
台布巾を手渡された。俺は腑に落ちないままテーブルを拭いた。
会社から帰ってきた父さんが、口をあんぐりと開けてツキとマキナさんを眺めていた。こんなふうに驚いている父さんの姿を、俺は初めて見た。
姉ちゃんは勉強道具を片付けている。彼女が手帳を携え、小声で訊ねてきた。
「羽揺。あの話って本当なの?」
瞳がゆらゆらと揺れていた。俺は深く頷いた。
「はい。お待ち遠さま」
母がテーブルに料理を並べた。カルボナーラスパゲッティーだった。皿は五枚あった。
ツキがそれに気づいて、控えめに母を見た。母は微笑んだ。
「あなたの分もあるから。召し上がって」
ツキは目を輝かせた。
「ありがとうございます。いただきます」
五人で席に着く。俺は手を合せた。風が雨戸を叩いていた。
「失礼かもしれないけれど、きみは何で動いているんだい?」
父さんがフォークを取る前に、マキナさんに尋ねた。声がすこし震えている。
「動力は電気ですよ。あっ、発電方法をおたずねでしょうか」
テーブルの横でマキナさんが言った。俺はフォークを置き、口を挟んだ。
「それは俺も気になってた」
マキナさんはちらちらと車内のカメラを動かした。
「太陽光発電です。燃料などを取り込むことはございませんので、どうぞお気遣いなくお願いします」
「いやいや、教えてくれてありがとう。そうか、ソーラーか」
父が感心したように頷き、麺を口に運んだ。
「ツキさん?」
姉ちゃんが呼びかけた。ツキはナプキンで口を拭き、「なんでしょう」と言った。
姉ちゃんはすこし迷うように辺りを見た。それから、「ここにはいつまでいるんでしたっけ」と言った。
「五日間だよ」
俺が代りに答えた。
「五日でも何日でもいいのよ」
母さんが妙にやさしい声で言った。ツキは「はい。ありがとうございます」と頭を下げた。
俺は首をかしげた。
俺はバスタオルで頭を拭きながら、リビングに足を踏み入れた。マキナさんと父さんが会話している。
「四次元ペンダントは、空間の二点をつなぐのです」
「昔、SF小説で読んだことがあるよ。ワープ理論だね」
「はい。それを時空間全体に適用したのがタイムマシンなんです。時間の二点をつなげて――」
彼女の説明に耳を傾け、父さんはメモを取っていた。万年筆を走らせるごとに、手帳が小刻みに揺れる。一言も聞き漏らすまいというような熱の入れようだった。
俺はぼんやりと考え事をしながら二階に上がった。
「ねえ、ツキ」
ツキはベッドに腰かけ、部誌を読んでいた。俺はその隣に腰かけた。見ると、俺の書いた小説の頁を開いていた。
「読んでくれてるんだ」
ツキはちらりと顔をあげた。
「うん。結構おもしろいね」
オレンジ色の目を細め、笑った。
「あ……ありがとう」
俺はやっとそれだけ言って、口を手のひらで覆い隠した。顔が熱を帯びた。自分の作品を褒めてもらえた。とてもうれしかった。
「小説なんて読んだことあるの?」
熱が下がってから、俺は訊ねた。ツキは噴き出した。
「僕が何年生きてきたと思ってるの? 君よりずっと読んでる自信がある」
「だって、先史時代に本屋はないだろ」
「二十二世紀にもたびたび行くよ。着いたら、必ず本を買うの。電子書籍だけど」
ツキが楽しそうに語る。本が好きなんだな、と俺は思った。
「『シートン動物記』は? 俺、今日黒猫に変身して、それを思い出した」
「アーネスト・トンプソン・シートンの著作かな。僕は原書を読んだよ」
「英語で! すごいなあ」
「トゥキ様、羽揺さん。おやすみなさい」
マキナさんが言った。彼女は部屋の入口にいた。
「おやすみ、マキナ」
ツキが返す。俺は戸惑いながら「お、おやすみなさい」と言った。
車内の光が消えた。マキナさんはのろのろと机の前まで移動し、そこで透明になった。
「羽揺、そういえば何の話だったの?」
「何って……ああ、きみの寝る場所がね」
俺は、ツキに相談しようとしていたことを思い出した。
俺は普段、二段ベッドの下の段で寝ている。上の段は使っていない。物が置いてあるだけだ。
「上の段を使いたければ、これから片付けるけど」
「ううん。片付けなくてもいいよ」
ツキが千変鏡を取り出す。かと思えば、鏡はすぐペンダントに引っ込んでしまった。きっと、ペンダントが鏡を吸い込んでくれたんだろう。ツキは「千変鏡とペンダントは連動してる」と言っていたし。
ツキの体がぎゅうっと縮んで、リボンの縫目に引っ込んでゆくのが見えた。床にリボンとペンダントが落下する。
リボンはぴょこりと立ち上がると、ベッドをよじ登った。そして、上の段のあいているスペースに収まった。
「そっか、その大きさなら確かに片付けなくてもいいね」
リボンがベッドの隅でぱたぱたと動く。
俺はリボンのそばにペンダントを置いた。それから、柔らかいハンカチをリボンにかけてやった。




