Ⅲ-14 思い懸けし面影遠退く
ドックスおじさんの八百屋へ行ってから、クランの下手物店へ立ち寄り、ミゼットおばさんの仕立屋へと赴く。それがここ数年の外出ルートだった。クランが下手物店を始めたのは私が彼女の生活を支えた頃からだからそれも頷ける。
ミゼットおばさんの仕立屋への道はもう数十年近く通いつめた道だった。そして、数十年間歩き通した石畳の上を私は今日も歩いている。初めて通った時といくらか違うのは、石畳のひびの数や染みが多くなっている事と、店の屋根や看板の色、家の戸口の取っ手の形、それにすれ違う町の人たちの視線。
かつては彼らに目を向けないようにフードで頭を覆って地面を向きながら歩いていた。晴れの日も雨の日も雪の日も、そうして道を歩くようにしていたら付いた渾名が「青い魔女」。煉瓦と石造りの建物の多い町でクロークの青は目立ってしまう。町の人の風貌とはっきりした差別化ができて、なるべく波風立てないようにするにはこの色が一番だった。ただ、それだけだった。
その色最高に似合ってるよ──そう言ってくれた最初の人がミゼットおばさんだった。店先で煙草を吸い、凛とした声の女の子だった。当時はまだ同い年か、彼女の方が僅かに年上の時代。最初は私に話しかけられたものと思わず通り過ぎようとしていたが、目の前を通る時に手首を掴まれて無理やり路地裏に引っ張られた。
「アナタに言ってるのよ。青い魔女さん」
「……私、ですか」
「そうよ。人の声を無視するなんて、長く生き過ぎて耳が遠いのかしら」
沈黙の肯定でありたかった。耳が遠くなっていたのだとしたら本当に喜ばしい。けれど、それは現実逃避にしかならなかった。
「手、離してください。先を急いでいますから」
「急ぐ場所なんて無いくせに」
嘘でも言って切り抜けようとしたけれど無駄な足掻きで、私はその女の人に厳しい視線を向けた。
「いいから離してください。迷惑なんです」
「あーあー、早口だし声小さいし聞こえなーい」
苦手な性格の人、第一印象がそれだった。一番嫌いな人間と表現した方がより的確かもしれない。それは今もある側面ではそう。ミゼットおばさんは昔から勝ち気で我が強く、有無を言わせない気迫を持って、裁ち鋏の切れ味と同じくらい鋭く真実を言い放てる人だった。ドックスおじさんから聞いた話ではとにかく喧嘩早かったようだ。
「エルネスティーちゃん。聞いてるかしら」
「あ、はい」
「たまにぼんやりして人の話を何も聞いてないの、アナタの悪い癖よ」
「ええ、そうでしたわね」
あれから数日後、マルールの新しい着替えと衣服を受け取って早々に帰ろうとしたら、ミゼットおばさんが「ちょっと休んでいきなさいな」と提案してくれたものだから、厚意を受け取って店の奥の作業用テーブルで紅茶をいただいていた。
「少し昔を思い出していて」
「百年も生きてりゃ少しどころじゃなさそうだけど」ミゼットおばさんは秋口にマルールが差し入れたクッキーをお茶請けにして、それを手に取って一枚齧った。「そう言えばお客さんはどうなったんだい」
「記憶を取り戻して、今は首謀者と共に宿屋に軟禁中です」
「あらそう──あの子も大変だったわね」
「ええ」
がっかりした様子を隠さず言い放たれた言葉は、ミゼットおばさんの期待を嫌でも感じさせられた。
かつてエリクを谷底で見つけて連れ帰り、傷が癒え、記憶が戻るのを待ちながら日々を過ごしていた中で、ミゼットおばさんとの間に確執が生まれてしまった時期があった。表立って取り合いになる事は無かったけれど、事あるごとに私を出し抜こうとする狡猾な時代があった。
「あれからほんの少しでも彼の消息は掴めたのかしら」
「いいえ……」
「そうよね。だって彼は谷底に身を投げて死んだのだもの」
そんなやつが便りのひとつでも寄越してきたら、とっくの昔にアタシだってね──ぶっきらぼうに言い放つミゼットおばさん。やはり今でもエリクへの未練は捨てきれていないらしい。そして、私はもう足掻いたところでエリクの隣を歩けない。彼が死んだ事で自身に諦めがついたのは、その事実に気づいた瞬間だった。
「なに辛気臭い表情してるのよ」
「でも」
「アタシなんてこれまでの人生で本気だったのは彼だけ。ねえエルネスティーちゃん……周りに自分を大切にしてくれるお友達がいっぱいいたってね、命に代え合うほど大切な人がひとりもいないってのは、寂しいものよ」
意図せず唇が結ばれて、それがほどけて口を開いた。
「だとしたら私の命は、誰に代えるためにあるものなんでしょうか」
それはミゼットおばさんにとっても意図しない反論だったようで、彼女もまた口を固く噤んだ。お互いに同じ人を好きになってしまったからこそ、そして存命の人間では恐らく誰よりも私を知っている人だからこそ、余計にこの反論は鋭く心に刺さったかもしれない。マルールは今まで出会ったどんな人よりもエリクの面影を思わせる人なのだから。
「エルネスティーちゃん」と、しかし私の想像に反してミゼットおばさんは大きな溜め息を吐いた。「命にならもう代えてるじゃない。アナタのLegion Graineをマルールちゃんに移植したんでしょ」
「……」
マルールは私のために命に代えてまでフォルジェロと決闘した。けれどそれも今は昔の話。今のマルールは私をどう感じているのだろう。前はうんざりするほど気持ちが伝わってきたのに、今では輪郭がぼやけたようにわからない。
私にナイフを当て手の甲を薙いだ。こめかみを打って気絶させ、彼女が彼女の生きる事にひた走ってしまったあの時。殺さなきゃ、とマルールが呟いたあの場面。そして、金属片で喉を引き裂いたあの一瞬、私が分け与えた命を彼女は自ら絶とうとした──。
そうではなく、この落ち着かない感じはもっと別の何かなのかもしれない。マルールが現れた事で生活は慌ただしくなった。いつも感情が揺れ動いて、気疲れしてしまう時だってあった。それは、彼女が現れてくれて本当に心の底から楽しかったからに違いない。そして今はきっと違う。心が揺れ動くよりも先に頭の中に霞がかった悩みが浮かんでしまう。
マルールについての悩みなのか、エリクについての悩みなのか、私の過去に関する悩みなのか、あるいはその全てなのか。どうもはっきりとしないそれが。
「Legion Graineは本来この世界に存在するべきではありません。私は人々の日常をこんな風にしてしまった諸悪の根源であるLegion Graineと私自身とを、なんとしても人々の忘却の果てに消え去ってしまわなければならない。それはマルールも例外ではないと思っています。私たちも本来なら、命に代え合うほどの仲ではありませんから……」
神妙な面持ちで私の言葉を聞いていたミゼットおばさんだったが、言葉を紡ぐにつれ顔に深い皺が増えていった。そして最後まで言い終えると、心底不服そうな声で言う。
「嘘おっしゃいよ。アナタ、彼と一緒にいた時よりもずっと、マルールちゃんと一緒にいる時の方が楽しそうだもの。他のバカどもはそんなもっともらしい言葉で騙せても、アタシは騙せないわ」
ミゼットおばさんの言葉は、心の奥底にすとんと収まってくれるものだった。
「……今まで言えなかった事で、とても申し訳ないと思っているのですが」
「何かしら」
「半世紀来、親しくしてくださってありがとうございます」
素直に気持ちを打ち明けると、ミゼットおばさんは途端に下手物でも見たかのような苦渋の表情をしてみせた。
「年を取るって恐ろしいわね」
そう言って片手で耳朶を触り、そそくさと煙草を取り出しマッチで火を点け、ぷかぷかと吸い始めてしまった。
「ではミゼットおばさん、そろそろお暇しますわ」
「さっさと出てお行きよ。急ぎだったんでしょう」
ふんとそっぽを向いて言うミゼットおばさんを店の扉前まで見届けながら、私は仕立屋を後にした。後はまっすぐ家へと帰るだけだ。帰ったらまずはおばさんに仕立ててもらった服を整理するところから始めて、それからマルールの容態と食事の準備をしなくては。
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家に帰った後の事を考えながら商店街を歩み始め、五分ほど道なりを歩いた時だった。商店街を抜け人の姿がまばらになってきた道の横で、仕立てのよさそうな外套を身に着け、頭に目深のフードを被った人物が周囲を気にした様子で見渡している。その外套からして少なくともアンルーヴの町の人ではなさそうだった。
「何かお探しですか。私で良ければ困り事を伺います」
背後からそっと声をかけるとその人物は周囲を見渡す仕草をぴたりと止めた。けれど驚いているといった風ではなく、振り返るか否か考えあぐねている感じにも思われた。
「探し物……いや、何だろう。別に探しているものなんて無いんだけどな」
「では」
「ふらりと立ち寄っただけのような気もする」
不思議な言い方をする人、と思った。外套の中に背負っているのか、リュックのような形が浮かび上がっていた。
「宿でしたらこちらへ道なりに進むと商店街に出ますから、そこを真っ直ぐ五分ほど歩いて右に曲がった所に気前のいい主人が営む場所があります。この町に来る貿易商が贔屓にしていますので安心できるかと」
「そう。良かった。こう寒いんじゃ、火を入れた暖炉も親切な人も必要だものな」
ありがとう、と目の前の男性が小さく頷いた。けれども相変わらずこちらを振り返ろうとはしない。そうなると不審に思われてきて、それで思わず聞いてみた。
「なぜ、こちらを見て話されないのですか」
男性は黙った。そうではなく動揺しているのかもしれない。善意で声を掛けてきた相手が、まさか殺しの標的だったと気づいたのだとしたら。
「どうしてそっちを見て話さないのか、か」
男性は大きな溜め息を吐き、そして言った。
「訳ありの人はいつだって顔を隠したがる」
男性はそこでようやく身を翻した。
「──かつては君もそうだった、だろ?」
言葉を失った。目の前に現れたのはエリク──いや、実際には私の知っている彼ではなかった。長い年月で顔つきはより精悍になり、声も見た目相応の低さになっている。つまりエリクは成長し、老いていた。けれど、それは普通の人間ではありえないほどゆっくりとした時の流れを感じさせるものだった。
あるいは私のように。
「どうしてあなたが、それに私」
「死んでいたかと思った、だろう」
エリクはあくまで冷静な声色で私の言わんとしている事を先取りした。
「黙って出て行ってしまって本当に申し訳無かった」
「……」
「宿を教えてもらって悪いが、もう部屋は取ってあるんだ」
「エリク。言っている意味が、全然わからないの。お願い。教えて」
今までの事。あなたが私の前から消えてしまってからの事を。
エリクは黙って私を見ているだけだった。そしてそのうち彼は静かに口を開いた。
「本当に知りたいのか」
それは意図しない返答だった。「どういう意味」
「エルネスティー。僕が君と共にいたのは決して長い期間ではなかった。たった一年足らずだ。それでも僕は君から多くの事を学んだ」
突然現れて突然姿を消して、そしてまた突然目の前に現れた相手の話など、どうやって信じれば良いのだろう。
「ねえエリク。全部私にはわからない。だってあなたが消えてから半世紀も経っている。それにあなたと違って、私はこの町からほとんど出た事が無い……」
彼を知ろうとしなかったのは事実だ。彼を追い掛けて彼を探すべきだった。死んでいるかもしれないなんて単なる憶測には脇目も振らず、生きていると信じて探しに行くべきだった。だからこそ決定的な喪失を胸の内に抱えてしまったのは、私自身の心の弱さのせいだった。
「君は昔から何でも知っていたけど、そうか。最近の情勢についてはよくわかっていないんだな」
呆れながら言いつつも彼の視線は安堵したような優しさを湛えていて、彼の経た年月を否応無しに感じられてしまった。
「長い期間を空けたからこの町で僕の顔を知っている住民は少ないだろうし、いいさ、話そう」
「……あなたが出て行ってしまってから出来た喫茶店があるの」
そうして私は彼を先導してその喫茶店へと向かった。




