Ⅲ-6 昏い那落はさきならなくに
ジョンさんを誤って狙撃してしまう一件が起きてから十日余りが経ち、目が覚めてからの彼の怪我の具合は快方に向かっていた。今では身の回りの事くらいはひとりでもできるようになっている。
エルネスティーが帰って来るのはいつもより少し早めの正午あたり。クランのお店へ行って新しい薬の材料の買い付けと、ドックスおじさんの所に買い出しに行ってくるだけ。その後は特にする事も無く、お昼ご飯を食べて、他愛無い会話をして、三時にはおやつを食べて、ジョンさんの傷口の消毒と包帯を交換して、それから夕飯、といった決まりきったルーチンをこなす。本当ならこんな暇な日はエルネスティーと町を散歩するのが常だけれど、それはできない。
「はあ」
ジョンさんは安静にするため眠っているし、エルネスティーがいない間はあんまり暇でする事が無い。暇潰しがてら書庫の小説と無地の紙を用意して、気に入った場面を絵に描いてみるなんて遊びをしているけど、元より絵心なんて無いからどうしても納得のいくものが出来上がらない。
「はあ」
暇だなあ。
エルネスティー早く帰って来ないかな。
わたしはテーブル上にある絵心皆無の落書きを手でぐちゃぐちゃにして放り投げた。あんまり暇すぎてもうどうしようもない。
ジョンさんの見回りは……と思って今日何百回目かの時計を見るも、さっき行ってからまだ三分も経っていなかった。エルネスティーが出かけたのは一時間前。
「やあ、マルール」
「あれっ?」扉が開いて入ってきたジョンさんに虚を突かれた。「どうしたの? 起きちゃった?」
「いや、何だか体を動かしたい気分になって目が覚めたんだ。エルネスティーって子は?」
「エルネスティーならお出掛け中だよ。今日はお昼過ぎまで帰って来ない」
「そうか。君は何してたんだ」
と、ここで気付いたように足元に視線を向け、彼は丸まった紙くずを拾い上げた。
「あっ、それ──ジョンさん!」
あれは絵心皆無の小説の挿絵。イスから立ち上がって慌てて呼び止めるも時既に遅し。彼は紙を広げて中に描いてある絵をしげしげと眺め始めた。
「これは」
「いや、えっと、これは、その」
「マルールは字が書けないのか?」
「え? うん……」
小説の言葉を見よう見まねで書き写して挿絵の場面をわかりやすくしたかったのだけど、如何せん読めはするけど書けないわたしにとって、絵の下手さと同じくらい字の汚さは他の人には明かせない秘密のひとつだった。それこそエルネスティーの研究ノートに綴られるすごく綺麗な字をたまにこっそり眺めている身からしたら、到底見せられるものじゃない。
「さすがにこんな時代でも文字すら書けない子は少ないと思うが」
「そ……そうなんだ」
色々仕事をこなす上で、契約書へのサインなんかは全部パパがやっていたかもしれない。思い出された記憶の限りでも仕事のスケジュールはパパがメモ帳で管理していたみたいだし、わたしはただパパから指示された相手を撃っていただけだった。
「……『アエリータ』か、ここはこんな古い本も置いてるんだな」
「知ってるの? 記憶は?」
「いや、そういう知識はきっと忘れてないんだろう。元の記憶はさっぱりだ」
「そっか……」
しょんぼりしているとジョンさんは肩に手を置いた。
「まあ何と言うか、そうだな。俺で良ければ字の書き方教えてやってもいいぞ。この時代でも字が書けないのは何かと不便だろ」
「えっいいの? やった、じゃあちょっと待ってて! お手本持って来るから」
「お手本?」
ジョンさんの怪訝な表情をそこそこに流し見て、わたしは実験室から一冊の本を持って来た。エルネスティーがいつも書き留めている研究ノートの内の一冊。勝手に持って来るのは悪いかなと思ったけど、後でちゃんと戻しておけば怒られる事は無いだろう。
「このノートに書かれてるような文字が書けるようになりたいな」
そう言ってノートを広げると、途端にジョンさんは苦々しげに笑った。
「ああ……こいつは筆記体って言ってな、俺もこれは書けないんだ。ちょっとコツが要るんだよ。俺が書けるのはブロック体って言って、誰でも書ける読みやすい文字さ」
「そうなの? 同じ文字なのに書き方が二種類あるんだ」
筆記体って読めないからわからなかったけど、やっぱりエルネスティーってすごいんだな。伊達に長生きしてない。
「でも、ブロック体ってのを覚えれば字が書けるようになるんだよね!」
「ああ、今は大体皆それで書いてるしな」
「よし──早速教えて。やる気出てきた!」
「よっし、じゃあまずはレター表の並び方からな。レター表には……」
色鉛筆の黒を手に取りそこで一瞬ジョンさんの手が止まった。かと思うとすぐに動き出しAからZまでレター表を書いていく。やっぱり書き慣れていると速いのか、一分と経たず全て書き終えた。ブロック体もすごく綺麗。
「マルールも……隣に真似して書いてみな」
「うんっ」
そうしてわたしたちは文字の書き方の練習を始めた。小説の気に入った一文を真似する練習もすると、文法や単語は危ういけど単純な文章なら拙いながらも書けるようになる。形は覚えたてでガタガタだけど、読めない訳では無い。
初めて書いた言葉は「ERNESTII」だった。その次に「MALHEUR」。気持ちを伝え合うにはまずお互い呼び合う名前にこそ気持ちを込めないとな、と言うジョンさんの提案でそうした。じゃあ、《《わたしを、君に、込めて》》、ってどう書くの、と素朴な疑問を投げ掛けると、「I LOVE YOUって書くんだ」とニヤニヤしながら答えてくれた。
「I LOVE YOU……かあ。いつか使う時来るかな?」
「これは一番好きな相手に使う文句だから、マルールも慣れたら自然と使うようになるさ」
「一番好きな人……」
エルネスティー。
「俺が書いたレター表は持っているといい。字を綺麗に書きたいならきちんと練習するんだぞ」
「あ……うん、ありがとう。わたし頑張るよ」
「おし、じゃあ俺はもうひと眠りして来る。何かあったら起こしてくれ」
「うん。色々ありがとうね、ゆっくり休んで」
ジョンさんは肩越しに手を振ってキッチンを出て行った。わたしはジョンさんが書いてくれたレター表を見る。
しっかり練習して、エルネスティーをびっくりさせてやるんだ。
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エルネスティーが帰って来たのはそれから四時間ほど経ってからだった。
「おかえりエルネスティー。随分遅かったね」
「野暮用があって。二人とも入って」
言うと、後ろに向かって呼びかけた。エルネスティーの袖から入って来たのは二人の少女、クランとソフィだった。
「そう言えばエル姉の家来るの、久しぶりね」
「あ、あの、マルールお姉ちゃん、久しぶり」
「うん、久しぶり。でも二人を連れてどうしたの」
いつかのようにわたしとクラン、エルネスティーとソフィという組で対面に向かい合うように座った。早々に話を切り出したのは頬杖をしたクランだった。
「エル姉から聞いたけど、エル姉とマルール、最近全然二人でお出掛けしてないんだって?」
「え、うん。そうだけど」
あらら、とクランはエルネスティーを横目で見て呆れた様子だった。
「これはエル姉があたしに言った事ね」と言うと「エル姉、いつもマルールに留守番させてるのが気の毒なんだって。それで、あたしたちに代わりに留守番と男の人、任されてくれないかって相談してきたの」
「って事は……」とエルネスティーを見た。
無表情だけど、照れてるみたい。
「そ。エル姉の頼みだし、マルールの気持ちも酌んで、一日だけあたしたちが代わりに留守番しててあげようって事になった訳」
「ほんとうっ!?」
勢い良く椅子を蹴飛ばして立ち上がると、隣で手持ち無沙汰にしてきたソフィがびくっと体を震わせた。ああごめんね、驚かせちゃったね、となるべく優しく言ってやると、目を丸くしたまま無言でおもむろに頷かれた。
気を取り直して椅子を元に戻して座った。
「それで、いつ」
「今日明日限り。この時期はあたしの店も保存食用のカエルとかトカゲの干物とか、塩漬けの動物のモツとか飛ぶように売れるの。だからあんまりお店を休業していたくなくて」
「ふんふん、なるほど」
善は急がねば逃げていく。おおよそ二週間ぶりに二人で一緒に出かけられるという期待と嬉々の念を込めた視線をエルネスティーに向けると、彼女はすました顔でわたしの色々なものをぶち壊してくれた。
「きらきらした目を向けているところ悪いけれど、マルール、実は遊ぶために出掛ける訳ではないのよ」
「えっ」
どういう事なの、と聞いてみた。
「一昨日出掛ける時に家の前にギヨームさんがいて手紙を渡されたの。もし薬以外にも有益な物を持っていたら、それを持って邸宅まで来て欲しいと。この町にとって役立ちそうな物は暇潰しで作ってきたし、私が持っていても腐るだけだから丁度いい機会だと思ったの」
役に立ちそうな物は数多く作ってきた。わたしと二人して運べば何とかなる、そうは思っていたが、男の人を介抱するために家に必ず誰かがいなくてはならない事情と重なってしまっている。同時にマルールにばかり留守番させるのも気が引けるという事で、ダメ元でクランとソフィに頼んでみるというので相成った訳だった。
エルネスティーがそこまでわたしの事を考えていてくれただけで感涙ものだけど、泣いている暇なんて無い。二人で一緒に外を歩ける。仕方無いけれど、今はそれだけで充分ありがたいのかもしれない。
「おっけーおっけー、荷物持ちなら任せて。それに、ここんとこ本当に退屈してて死にそうだったんだから」
エルネスティーの提案しかと受け止めた。と言うと、彼女は小さく頷いた。それを横目で見てクラン、バカップル、と微かに呟いたのが聞こえた。バカップルとは失敬な。エルネスティーは誰よりも賢いんだから。
「それじゃあ決まりね。作った物は一箇所に纏めてあるから、まずはそれを持って来ましょう。クラン、ソフィ、あなたたちは自由に過ごしていて。でも一時間に一度ほどは男の人の様子を見に行ってくれる?」
クランとソフィは頷き、わたしたちは一箇所に纏めているという倉庫まで行く事にした。
エルネスティーに連れられて来た場所は、この地下の中でも奥まった位置にある寂れた倉庫の一角だった。真っ暗な倉庫内を灯油ランプの灯りを頼りに進むと目的らしい影の一群が見える。一面だけガラスがはめ込まれた四角い箱、薄っぺらなプラスチックの塊、丸い機械とT字型の棒が蛇腹のホースで繋がれたもの、蓋を開けると中が円柱状の鉄の入れ物になってる巨大な箱、その他何だかよくわからないゴテゴテしたガラクタみたいな物がうず高く積まれていた。一目見て、これがアンルーヴの町の何の役に立つんだろうと疑った。
エルネスティーはそのゴテゴテしたガラクタ置き場をくまなく探す。わたしは彼女の分のランプも手に持って、彼女が探す場所を明るく照らしてやる事にした。
「それにしても、ここにあるの全部エルネスティーが作ったんでしょ」
作った物、と言ったからにはそういう事なんだろうと思い訊ねてみると、「ええ」という声。
「やっぱりエルネスティーすごいなあ。すご過ぎてわたしなんか霞んできちゃう……」
「前にも言った事があるけれど、そういう評価は適材適所よ。マルールにはマルールのいい部分があるわ」
「でも、エルネスティーほど何でもできる訳じゃないんだよ」
そう言いながら、わたしは彼女が移動したのを見計らって、そちらにランプを掲げる。
「エルネスティーはさ、料理は上手だし、薬も、こうしたよくわからないものも自分で作れる。それに引き換えわたしは服とか革の扱いがちょっとできるだけ。食べ物だってエルネスティーみたいに要らない訳じゃない。エルネスティーはただ奪うだけじゃなかった。色々生み出す事もできる人だよ。でもわたしは、ただ他から奪ってそれを利用してるだけなんだ」
エルネスティーは作業したまま何も言わない。ほんの少し返答に困る物言いだったかなと思うけど、でもそれは事実だと思う。
「また、何だかくよくよしているようだから言っておくわ」
彼女はなお作業したまま続けた。
「マルールには私が持っていない強みがある。それが何なのかは私にもわからない。でもあなたのその強みが、私を今の私にさせてくれている。あなたのおかげで今の私がいる。逆説だけど。……あなたがいなければ今の私はいない。だから本当に、それだけで」
そこで一旦言葉を区切った。作業も同時にぴたりと止まり、ごちゃごちゃした中に腕を伸ばしてぐっと引っ張った。するとすっぽ抜けてきたのは小さな機械。両端に大きなレンズが付いて、片方だけの翼のようなものがぱかっと広げられていた。
取り出したそれを軽くいじると、「ぴぴっ」と音が鳴って翼の端っこ付近に赤いランプが灯る。
「まだ電池が残っていたみたい」
「それ何」
「これはビデオカメラと言っての撮影機一種よ。静止画が基本のカメラと違って動きが撮れる。こっちを向いて」
その、ビデオカメラ、なる物を覗きながら構えて、わたしに向けてきた。
「動いてみて」エルネスティーが言い、わたしは適当に準備運動するような動きをしてみせた。「もういいわ」
言ってまた「ぴぴっ」と止めると、今度はこちらに歩いてきた。
「見て」
翼っぽい部分に付いたガラスの面を見せると、そこに先程のわたしの動きが映し出された。
「何これ、どうなってんの?」
「理屈は難しい。電子機器だから。八ミリカメラを進化させた機械と言えば想像しやすいかしら」
電子機器。八ミリカメラ。名前はわかったけど、どういうものかはさっぱりだ。
「うーん、よくわからないけどすごいねそれ。エルネスティーが、えっと……現役の十七歳だった頃には普通にあったの」
「ええ。でも、これは私がここに来てから材料を集めて自作したもの。当時は眼鏡や眼球だけで映像が撮れる時代になっていた。そうしたものは現在の技術水準で作るには難しい代物になっているはず。こういう古い型のビデオカメラは今の技術水準でも似たようなものが作れる」
でもこれも、いずれ誰にも作れなくなる。
ぽつりと呟くとエルネスティーはしばしそれを弄び、最後に溜め息を吐いて電源を切ると、持って来た仕分け用の箱に丁寧に入れた。
「エルネスティー、さっきの」
途切れた先の言葉は何だったのか、聞きたくて口を開いた。
彼女は言う。
「マルール。あなたは、マルールなのよ」
以前にも彼女から言われて、つい最近イゾーにも言われた言葉だ。
変わらないでいてほしい、と。
それ、どういう意味か全然わからないんだ。
背中を見せたまま言う彼女にどうしようもない隔たりを感じて、わたしは思わずそう言いたくなってしまった。けれど口がうまく動かず、ひとつも言葉にする言葉ができない。もし、それを言ってしまうと、目の前のエルネスティーが今一瞬の内に掻き消えてしまいそうに感じられてしまったから。
「それよりも、ね、エルネスティー」
伸ばそうとしていた手をぎゅっと握り、平静を装っていつもの声色で語りかけると、「なに」と彼女も何事も無いように振り返った。
「早く残りの分仕分けないと、一緒に外歩けなくなっちゃう。急ごう」
「ええ、そうね」
いつもの通り、いつもの通り過ごせば、それでいいじゃん。そう思ったのはイゾーが来た時。いつもの通り過ごしてしまえば何も恐れる必要は無いのだから、何も変えずに穏やかにエルネスティーと暮らしていく事だけを考えたい。
穏やかであれば、それに越した事は無いんだから。
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結局、ベルトランさんへ持っていく荷物を探し出すだけで一時間半も時間を食ってしまった。暇潰しで作ったまではいいが、もはや使う機会は無いだろうと整理もせず放ったらかしにしていたのが原因らしい。そんなエルネスティーの意外と間の抜けた一面をからかいつつ、わたしたちは道具を入れた箱を抱え、再びクランとソフィのいるキッチンへと向かった。
キッチンの前まで着くと、中から楽しげな声が聞こえてきた。
「どうしたのかしら。二人とも」訝しげに扉を開けるエルネスティー。「何してるの。あなたたち」
「あっ、エル姉! 見てよこれ! すっごい笑えるの!」
けらけら笑ったようなクランとソフィの声に釣られて見ると、彼女らは画用紙サイズの紙を広げていた。
「え……」
そこにはわたしが片手間に描いてきた絵心無い落書きの数々が、テーブルに並べられていた。
「どこからそれを!」
ちょっと上手く出来たぞ、と思った絵心の無い落書きはお菓子のブリキ缶にまとめて入れて、キッチンの戸棚の奥に隠していたはずなのに。
「あのね、お腹空いたからお茶でもしようかっていつものクッキー探してたら、戸棚の奥にお菓子のブリキ缶を見付けて、綺麗に畳まれた紙があったから二人で見てみたら……」
目に涙まで浮かべるクラン。言葉尻でくすくす笑わないで、結構傷ついちゃう。
テーブルに広げてある絵はどれも町や森や動物がいる風景を思い出して描いたもので、当然描けている筈も無く、遠近はともかく、赤く色付いた鉄格子みたいな煉瓦の建物に、ビリジアンの毛玉にひょろっとした茶色の毛が生えたみたいな森の木々、頭でっかちなウサギや足の短い鹿の姿などなど、一時はコーヒーを淹れるために焚いたかまどに焼べそうになった程の代物だった。
「やっぱりわたしなんてエルネスティーには遠く及ばないんだ……」
「……これはマルールが?」
「え? うん……」
「……」
背中を向けてじっと絵を見つめるエルネスティー。
「もう……そんなのいいからさ、クランもソフィも、お願いだからこれ以上わたしを辱めないで……」
笑いながら絵をしまってくれたが、その後も二人して時折口元が緩んでいたのを見るに、これは当分忘れてくれそうにないな、と思った。
絵は別の場所に隠しておこう……そんな事を思いながらわたしとエルネスティーは、埃まみれの機械たちを磨く作業に移ったのだった。




