Ⅱ-4 木の実頼みの誼みの時間
アンルーヴでは冬を明けた次の季節を「春」ではなく「秋」と呼ぶ。
「秋」はぽかぽか暖かい日が続き、まるで春のよう。秋になれば周辺の森の木々たちは一斉に芽吹き、森は青々とした若葉で覆い尽くされる。アンルーヴ周辺の森は主に土地に根差した特別なブナで構成されていて、次いでクリの樹やトチの樹、ミズナラの樹などなど、食糧にもなる木の実を実らす木々たちでいっぱいなのだという。
この季節は木の実や若芽などを目当てに再び訪れる冬に備えて動物たちも顔を出し、食糧備蓄に精を出す。秋の実りは次の冬に備えるアンルーヴの人々の食糧にもなるのだ。
それで秋なんだね、と言うと、エルネスティーは頷いて応えた。
お昼をちょっと過ぎた頃に町を出て、エルネスティーと一緒にクッキーの材料を拾いに来ている森の道中で歩きながら蘊蓄が語られるのを、そんな風にして適当に相槌打ちながら聞いていた。
わたしはエルネスティーの後ろにぴったり張り付くようにして歩いている。危ないから前歩くよと言ったわたしに対して彼女は、よそ見して崖から落ちたら困ると片意地張って断固阻止した。わたしはライフルを既にその手に握っており、いつでも動物(特にヒグマ)の来襲に備えている。
「疲れない? 大丈夫?」
「いつもの道だもの。慣れているわ」
家を出てから小一時間以上、わたしたちは歩き続けている。そして「もうすぐ着く」という彼女の言葉にわたしはほっとした。
延々続いているように思われた勾配を抜け、一際輝く日の光を携えたその場所は木々に覆われていない、円形にひらけた場所だった。草木は太陽の光を受け、ここだけ膝の辺りまで伸びている。
わたしたちはそんな開けた場所を抜け、また木々たちに覆われた森の中へと入る。そうして少し歩いたところで、前方に奇妙なものが見えた。
「あれって山小屋?」
「そう」
細い蔦や苔が石造りの小屋にへばりつくように覆っているが、建物自体にそれほど傷みはなく、どうやら丁寧に手入れされているようだった。扉は最近新しいものになったのか、まだ鮮やかな茶色と木目が見える。
わたしはエルネスティーに続いて山小屋に入った。中は薄暗いが、マッチを取り出して中央にぶら下げられた灯油ランプに火を点けると、わたしたちが普段生活している地下程度の明るさになる。荷物を置いてテーブルに着くとそのまま突っ伏した。
「ねえ、ここにクッキーの材料があるんでしょ。早く帰って作ろうよ……おなか空いた……」
「そうね。とりあえず少し休憩しましょう。まだやることはあるし」
わたしは先んじて座って顔を伏せていたテーブルから、がばっと上体を起こした。
エルネスティーがブリキの水筒に入れた紅茶を備え付けのコップに入れ差し出してくれた。それを受け取ると一気に飲んで胃袋の乾きを潤す。
「ありがと。それで、やることって何?」
「クッキーを作らなきゃ」
はああ、と大きな溜め息が出てきた。「それなら家でも作れるんじゃ……」お菓子作りにはほとんど使わないけど小さな竃はあるし、問題ないはずだ。
けれども、いいえ、と彼女は言った。
「この山小屋には大きな竈があって、それでクッキーを焼かないと駄目なのよ」
「どうして」
「この豊かな森で育った木の実の味を引き出すには、大きな竈でゆっくり時間をかけて焼かないと意味がないの。あなたがいつもおいしいと言って食べているクッキーは秋の間にここで作ったものなのよ」
「でも、エルネスティーは食べ物が」
「以前はミゼットおばさんやクランのために作っていたけど、マルールが来てから消費が激しくなってしまったわ」
だから、今日から数日は、泊まり込みでクッキーを作ります。
「へ?」
「泊まり込みよ」
「え、えと」
「もう少し休憩したら木の実を拾いに行くから」
エルネスティーは部屋の隅に置かれた大きな籠を指差す。一つしかないが、きっとあれはわたしが背負うことになるのだ。
「……着替え……とかはまあ洗えばいっか。それは置いといて、お風呂とかベッドとか、大丈夫?」
わたしがそう言うと、なぜか彼女は顔を背ける。
「ない、訳ではないけど」
「なんだ、じゃあ──」
「お風呂は薪で沸かせるけど、ベッドは、その、一つしかない」
その瞬間、わたしの頭の中であるビジョンが浮かんだ。
『さすがに一つのベッドに二人は狭いね』
『そうね──』
『わ、ちょ、狭いのに動かな──ひゃっ』
『どうしたの』
『え、エルネスティー。そそ、その、エルネスティーのて、手が胸に当たって』
『これ?』
『なんで鷲掴みにするのちょっと?』
『……』
『……うっ』
『私より大きいなんて度し難い』
『え、ちょ、エルネスティ、ぃ……』
──は?
「なにこれちがああああう!」
「うるさい……」
わたしは叫んで、頭の中で展開されていた甘すぎて耐えられない物語を取り払った。
「エルネスティーはわたしが手引きするんだよ! 逆にわたしがされるとか天地がひっくり返ってもあり得ないって! そうでしょエ──」
そこでわたしがエルネスティーを見ると──
何を想像していたのか敢えて聞かないけど、いっぺんあの世に行って帰って来ないほうがいいのかもしれないわね。
──三角座りした人ひとりがすっぽり入れそうな寸銅鍋を頭の上に掲げ持ち、わたしの前に立ちはだかる。その目は光を失い、冷たい無表情だ。
「ゴ、ゴメン……エルネスティー……」
わたしは彼女のそんな様子にすっかり怖じ気づき──顔はおそらく真っ青で、全身の毛穴という毛穴から冷たい汗が垂れ流しに違いない──精一杯の勇気を振り絞って心の底から謝罪の言葉を搾り出した。以前のエルネスティーならここでキツい一発をお見舞いするのだろう。しかし、その一発が飛んでこないあたり、わたしたちの距離もあれ以来だいぶ縮まった。
エルネスティーはすうっと大きく息を吸うと、力の抜けた溜め息を盛大に吐きながら寸胴鍋を床に下ろした。
「こんな好色に好きになられるなんて、私の人生で二番目に衝撃的な事実ね」
「好色とは心外だなあ。ねえ?」
ふふんと鼻を鳴らしてエルネスティーにそう言う。だってエルネスティーはわたしが死んでいる間に口めがけてキスするくらいにはわたしよりずっと好色なんだから。
「まったく……。休憩も済んだし、木の実を拾いに行くわよ」
「はーい」
こめかみに手を当てて呆れたエルネスティーの言葉に元気よく返事をして立ち上がる。立て掛けておいたライフルを抱え、きちんと動作するのを確認してから渡された籠を背負い、外へ出た。
「それで、どこに行くの」
「効率的なルートがある。こっちよ」
エルネスティー曰く、木の実を効率的に拾えるルートは山小屋をスタート地点にきれいな円形をしており、その円形を辿るように木の実の樹が散在しているのだという。あまりにも綺麗な円形のため、人工で植えられたものなのではないかと考えたらしい。
「右回りに歩くとクリの樹が多くて、左回りだとミズナラの樹が多いけれど、どちらから行きたいかしら」
「わたしがいつもおいしいって唸っているほうからがいいかな」
「だとしたらクリの樹からね。途中でクルミの樹もある道だわ」
行きましょう、とエルネスティーが言って歩きだす。ライフルをしっかりと握って彼女の後ろをついていった。
この季節の森は木々の青々とした葉から差す木洩れ日がきらきらしていて、なんだかとってもロマンチックな気分になる。それで、思いきって前を歩くエルネスティーにこんなことを言ってみた。
「ねえ、エルネスティー。ちょっとの間だけ手繋がない」
すると、せっせと動いていた彼女の足がぴたりと止まる。そして肩越しに眉をひそませた顔を向けてきた。
「また何か企んでいるの」
「何も企んでないよ。この森があんまり綺麗だから、一緒にそんな気分になれたら嬉しいなって」
「……ちょっとの間だけよ」
「やった! ありがとっ」
そうして思わず彼女の隣までぴょんぴょん跳ねながら行くと、ひしっとその小さい手を掴む。いつでもライフルを構えられるように、繋ぐ手は左手だ。わたしは一度だけエルネスティーの顔を見てにこにこ笑顔を向けてから歩き出した。それから時折道なりに落ちているクリやクルミを拾いながら、他愛ない会話を交わした。
唐突にわたしの話になったのは、数ヵ月前に襲撃してきた「Cold Boar」もといフォルジェロが、わたしに対して何か話していなかったかという話題になったからだった。あの日のことは二人とも無意識に避けていたから、ちゃんと面と向かって話すのは初めてだった。
「フォルジェロという男は確かに自分をCold Boarと名乗っていた。あなたは何か聞いていないの」
「うん……その時のわたし、相当頭に血が昇ってて、あいつを倒すことしか考えてなくて……。なに口走っていたのかまではっきり覚えてないんだ。でも、あいつは本物のCold Boarなんかじゃないって感じた」
わたしがそう言うと、そう、とだけ返してくるエルネスティー。
何が起こったのかまではっきり覚えているが、それ以上となるとまるで頭に靄がかかったように見えなくなってしまう。エルネスティーに関することだったとなんとなくわかる。しかし、具体的な部分はやはり思い出せない。
「エリクの遺した詩にCold Boarの名前があって、フォルジェロも同じように名乗っていたわ。私が聞いた限りでもCold Boarとは遊撃隊の、そのリーダーに与えられる名誉ある称号だと。マルールは思い当たることがない?」
エルネスティーが静かにそう問うてくる。わたしは「Cold Boar、遊撃隊、名誉ある称号……」と呟きながら記憶の糸を手繰ろうとしてみたのだが、そんな記憶など端から持っていないような感覚もする。
エルネスティーが詩を読み上げた時ピンとくるものがあったが、あれはCold Boarという名前に反応した訳ではないのだろうか。
そこでふと、数ヵ月の間ベッドの下に忍ばせておいたエリクの生前のメモと日記が思い出された。あれをもう一度じっくりと観察すれば、何か思い出せるのではないか。
「渋い顔して、どうかしたの」
「えっあっ、いや。早く記憶を取り戻せないかなと思って」
わたしが心にもないことを咄嗟に返答すると、エルネスティーはほんの少し悲しそうな表情になる。
「エルネスティーこそどうしたの」
彼女は顔をわずかに伏せながら言った。
「記憶を取り戻したら、あなたもエリクみたいに何も言わずに出ていってしまうんじゃないかと思ってしまって」
そうしてエルネスティーは立ち止まり、その場で屈むと、大粒のクルミを手にしてわたしの背中の籠にころりと入れた。
「それって、やっぱりわたしにどこにも行ってほしくないってこと?」
そう訊ねてみるが、彼女はクルミを入れてからすぐに歩きだす。
ただ、言われた。
「私はあなたにLegion Graineを移植したわ。だから、あなたを最期まで診ずにどこかに行かれたら、この病気の治療法について新たな研究ができなくなってしまう」
「そっか」とわたしはちょっぴり残念な気持ち。けれど「じゃあ何度でも言ってあげる。わたしはエルネスティーから離れないよ。永遠にエルネスティーといられるなら、永遠にエルネスティーといたい。そういう気持ち」と付け加えた。
嘘じゃないからね! と釘を刺して言うわたしに、彼女は眉をひそませつつも口元に笑みを浮かべる。
「いつの間に惚れ薬なんて作ったのかしら」
「エルネスティーは存在自体が惚れ薬なんだよ」
エルネスティーはそうしてわたしの手をするりと抜け出すと、少し遠くにある木の実を拾ってまた戻ってくる。手には大きなクリの実。まるまると肥えたクリの実をころりと入れてくれる。そして、すっと手を出す彼女。
「エルネスティーから手を差し出されるなんて……」
「マルールに手を差し出すくらい、今さらどうってことないもの」
「うーん、確かに……少なくともエルネスティーはわたしの口めがけてキスするくらい垢抜けてるもんねえ?」
わざとらしく笑いながらそう言うと、眉間に皺を寄せた渋い表情のまま踵の硬いブーツの底で足を思いきり踏みつけられた。「にゃん!」とおかしな悲鳴が出ちゃう。
「いったああ……。だって本当のことなんでしょ? どうしてキスした訳?」
つま先の痛みに耐えながらその真意を問うと、エルネスティーは顔をしかめながら言った。
「詫びよ。わがままに付き合わせてしまった詫び。キスくらいだったらまだ取り返せると思ったから」
「と、取り返せるって……」
がっくりと肩を落とす。てっきり彼女を助けるために命を懸けて戦った勇ましい姿に惚れてのことかと思っていた。
「あ、でもさ。そのわがままに付き合ってるのって、現在進行形でしょ。ねえ、つまりそれってさあ……へっへっへ」
下心丸出しのダミ声で言うと、エルネスティーからキッと鋭い目で睨まれた。軽いジョークなのに本気にするあたりが真面目な彼女らしいというか、なんというか。
「ところで今どこらへんにいるの。もうだいぶ歩いたような気がするんだけど」
さっさと話題を切り替えたわたしにエルネスティーも気持ちを切り替えてくれたみたい。
「まだ全体の四分の一あたりね。でも、今日は山小屋に着くのが遅かったからこれくらいにしておきましょう。やめ時を誤ると帰るうちに暗くなって、朝まで遭難してしまうから」
エルネスティーの言葉に、わたしは背負った籠を一度揺らして言う。
「そうだね。籠の中身も半分くらい溜まってるし、早く帰ってエルネスティーと一緒に寝たいもん。できればお風呂も入りたいよね」
「ベッドは仕方ないけど……」
わたしが言うと、エルネスティーはぽつっと呟き小さく俯いた。
エルネスティーには目の周りの模様と同じ形の、雫のような形をした黒い模様が無数に浮かんで体を埋め尽くしている。その姿と言えば、例えるなら遠い東方の怖いお話である「ミミナシホーイチ」のような見た目なのだ。まるでなんかのまじないの呪文が体を覆っているように見えて、初めてそれを見た時のわたしも息を飲むほど驚いた。
だから、そんな体を彼女は見られたくないのだろう。恥ずかしいからというよりも、見る人を不快にさせたくないからという理由で。中に黒いドレスを着ているのは黒い模様を目立たなくさせるためで、青いクロークを着ているのは、防寒のほかに全身を覆って模様を隠すためでもある。
「大丈夫。冗談だよ。とりあえず帰ろう。立ちぼうけで話してたら日も沈んじゃうし。お風呂沸かすのはわたしがやっておくから、エルネスティーはわたしのためにおいしい晩ごはん作っといてね」
「……そうね。帰りましょう」
エルネスティーったら、また難しいこと深く考えてる。わたしは全然気にしてないのに、自分がそうやって気にしているようだからずっとひとりぼっちだったんじゃないのかな。
なんて考えてみるが、口には出さない。そういうことは一緒に過ごしているうちに、わたしがこっそり取り去ってあげればよいだけなのだ。
そうして、わたしたちは帰路へと歩き出した。




