Ⅰ-16 魔女の失踪
エルネスティーの言いつけを守り始めてから早三日。わたしはベッドの上でエリクのメモに目を通していた。
エリクはエルネスティーが大好きだった。大好きな人の殺害という目的の反動が彼を苛み、その命を終わらせてしまった。わたしが取るべき行動は、だとしたら彼女をできるだけ好きだと思わないようにすることなのだろうか。でも、たった一日離れただけでますます好きな気持ちが増してしまったのは家出の件で証明された。
どつぼに嵌まっている。
軽く息を吐いて上半身を起き上がらせた。破いたメモを本の間に挟むなんてことをしているのだ。きっとまだエリクは何かこの場所に遺しているはず、とそう考えたのだ。
そうしてベッドから起き上がろうと両足を靴に入れた時だった。
「マルール、どこ行くの」
「あ」
運悪く部屋の扉が開き、向こうからエルネスティーがやってきた。左腕の化膿止めの薬を塗る時間だったのをすっかり忘れていた。
「ちょっとトイレに行こうと思って」
「ついさっきトイレの前で見かけた。どこに行くつもりか知らないけれど、安静にしてなさいと言ったでしょう」
エルネスティーは化膿止めの軟膏の瓶の蓋を開けながらそう言う。つくづく運が悪い。
「左腕を出して」
仕方なくシャツを左側だけ脱いだ。包帯を手際よくほどいていくエルネスティー。
わたしはエルネスティーが新しく化膿止めを塗っている間も、エリクのさらなる手がかりについて考えた。
いつか本当の気持ちを知ってもらおうと、努めて遺したもの。
「……っ」
「痛い?」
「いや。大丈夫」
エルネスティーは一瞬訝るような視線を向けたあと、化膿止めを塗るのを続けた。
わたしも隠し事をしている。家出をしたのはエルネスティーがわたしにまだ隠し事をしていると思って、素直に答えてくれなくて、そこから段々腹が立ったからだった。だが、隠し事をしていると怒った当のわたしが隠し事をしているのだ。
これは言うべきなのか──エリクの手記を見つけて、そこに書かれているものを見て、もしかしたらエルネスティーを殺すためにわたしもここに来たのかもしれなくて、エルネスティーが好きで、だからエルネスティーを殺さないように崖から飛び降りてしまう、君の元を去るかもしれない──そう、言うべきなのだろうか。
手際よく新しい包帯を巻き直すエルネスティーはそんなわたしには少しも気づいていない。
エルネスティーはエリクを失って三日三晩、あるいはそれ以上の日を泣いて過ごしたのだとミゼットおばさんは言っていた。そして、エルネスティーはきっとわたしの姿にエリクを重ねている。エリクの姿を重ねたままのわたしがこれを打ち明けてしまったら彼女はどう思うか。今度は三日三晩やそれ以上では済まないかもしれない。
「ねえ、エルネスティー」
「なに」
「わたしがエルネスティーに大切な隠し事していたとしたら、どうする」
エルネスティーははっと顔を上げた。
「記憶が戻ったの?」
首を横に振る。
「ううん。失くした記憶の中に、もしエルネスティーにとって大切なことがあって、そのためにわたしが谷底に落ちて、こうして一緒に暮らすことになっているんだとしたら、エルネスティーはわたしをどう思うのかなと思って」
わたしは遠回しに訊ねた。いつか記憶を取り戻すであろうその時に包み隠さず伝えられたら良いのだが、それはエルネスティーを悲しませてしまう。
エルネスティーは包帯を巻き終えると、こう言った。
「別に、どうもしないわ。ただ」
「ただ?」
そこでエルネスティーは顔を俯かせた。しばらく黙ってからひかえめに言う。
「記憶を取り戻しても、あなたは何も変わらないでいてほしい」
「……」
どういう意味だろう。変わらないでいてほしい、とは。エリクのままでいてほしいのか。
わたしはポケットのメモに意識を向かわせた。もしかして、エルネスティーはこのメモを既に発見しているのだろうか。
「えと、どういう意味」
「そのままの意味よ。記憶を取り戻したら同時に元の性格も取り戻すというのはよくある話じゃない。あなたもそうなのかはわからないけれど……エリクでもなくて……私は今のマルールが好きだから、そんなふうになってほしくない──て、何言ってるのかしら、私。ごめんなさい。忘れてちょうだい」
少し慌てて言い直すエルネスティーを肩をそっと抱いた。
「ありがとう。エルネスティー」
今のわたしを好きでいてくれて嬉しいよ、と言ってあげると妙にそわそわし始める。エルネスティーのことだから、きっと恥ずかしくてそうなっているのだ。
そうやってエルネスティーはぱっと弾かれたようにわたしの腕から離れた。
「それじゃ、私ちょっとクランのところへ買い物に行ってくるから、ベッドの中でおとなしくしているのよ」
「うん、わかってる。行ってらっしゃい」
去り際の言葉も聞くか聞かないかの焦りようでエルネスティーが急いで部屋から出ていく。わたしは笑顔で手を振ってエルネスティーを見送った。
エルネスティーが出て行って少し経ってから、わたしはベッドからむくりと起き上がった。あの書庫へ行って他に手がかりが無いか探すのだ。
念のためそろりそろりと忍び足で書庫へ向かう。書庫へたどり着いて扉を開けると、宙にぽっかりと浮かぶ一つ目があった。それでちょっとだけ肩が跳ねる。シュトートはキッとひと鳴きすると、外へ出ていきたかったのか、わたしの足下をすり抜けてどこかへ行ってしまった。
晩御飯までには帰って来てよね……そんなことを思いながら書庫のランプを点ける。怪しげな場所はないか、わたしは目を凝らして探した。
目を皿のようにして探していると、書庫のいちばん奥の片隅、伝記系の本棚の片隅に焦げ茶色のノートがあった。暗い書庫内の暗い奥の片隅でほとんど黒いノートがひっそりと置かれているため、くすんだ本棚との保護色で見落としてしまいそうになる。手に取ってみると、それは伝記の豪華な装飾の表紙とは違い、質素でところどころ傷んでいた。
わたしは意を決してそのノートを開く。
『五十二年二月二十一日の日記。今日はエルネスティーと初めていっしょに外へ出た。だが、どうやらエルネスティーはこの町の人からはあまりよく思われていないらしい。模様のせいだろうか。俺はそういうのあまり好きじゃない』
……。
『五十二年七月七日の日記。数少ない記憶の中の知識だが、今日は七夕という日だということを思い出す。東方の恋人の会瀬の伝説の日で、ロマンチックな日。エルネスティーに告げ、外に出て空を見上げた。今日も寒かったが、その分綺麗な天の川を見ることができた。彼女も喜んでいたように見える』
……。
『五十三年二月二十一日の日記。今日で一年が経った。急に不安になる。エルネスティーと接すれば接するだけ、自身の抜け落ちた記憶が意識させられる。記憶が無いまま彼女と一緒にいたいと思うが、いつか記憶を思い出したとき、俺は、この状況で思い出したくないことも思い出されてしまうような気がして、こわい』
……。
『五十三年三月二十日の日記。全て思い出した。思い出してしまった。もうエルネスティーの側にはいられないかもしれない。どれだけの間この感情に耐えられるか、自分に自信が持てない』
やがてぱらぱらと最後までページをめくると、そこには破いたような跡があった。おそらくこのページが、以前わたしが拾った紙片の部分なのだろう。やはりエリクとわたしは似ている。否が応にも似てしまったのはわたしなのだが、それまでの経緯も似ているのだ。
「エリク、か」
これを書いたエリクの姿を想像してみようとするが、もちろん浮かぶはずがなかった。頭に浮かぶのは悲痛な気持ちが嫌でもわかる文章ばかりだ。
わたしは息を、吸って吐いた。
この日記はとても有力な証拠だ。そして──エルネスティーが隠している重大な事実にも、確信が持てた。気づいてしまった事実は衝撃的だし、完全に納得するのにも少し時間がかかるのだろうと思う。
そして、わたしは確かに重大な隠し事をしていたエルネスティーを怒るようなことはしない。けれどもそれは確認しなければならないだろう。だって、今のエルネスティーの一番近くにいて彼女を支えてやれるのは自分だけなのだ。わたしはエルネスティーとずっと一緒にいてやると決めたのだ。たとえエリクと同じ轍を踏んでいるのだとしても、エルネスティーがわたしとエリクを重ね合わせても、わたしはエリクとは違うのだと自分自身の意思と行動で証明してみせる。
もう一度深呼吸した。とりあえず、この日記はメモと合わせてエルネスティーにはまだ見せないほうがいい。エルネスティーにもきっと、この日記は衝撃的なはずだ。
ノートを持って自室に戻り、部屋に着くとポケットから取り出したメモをノートの間に挟んだ。ベッドの骨組みとマットの間に差し入れてからまたベッドに横になる。そして目を瞑った。
エルネスティーは早いうちに帰ってきて、きっと寝ている間に夕飯を作ってくれるのだ。いつもそうだから、今日も安心して眠ることができる。夕飯が出来たらわたしを起こしに来て「夕飯が出来たから起きて」と言ってくれる。わたしたちは二人で向かい合って楽しい時間を過ごす。
そう思ったから、わたしは眠りに落ちることもできたのだった。
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「うーん……」
わたしは体の妙な怠さで目が覚めた。まだエルネスティーは帰って来ていないのか、気配がない。ところがサイドテーブルに置かれた振り子時計を見て不思議に感じた。時計は零時少し前。
明らかにおかしい。いつものエルネスティーなら、まず帰って来た時点でひと声掛けてくれる。晩御飯が出来たら起こしてくれるはずだし、とにかく、何もしないなんてあり得ない。
そこで自然と脳裏に浮かんだ。エルネスティーは何か大変な事態に巻き込まれているのではないか。エルネスティーは町の人から疎んじられているし、彼女を恐れて目の敵にしている人もいるらしい。だから、そんな町の人たちに連れ去られてしまったのではないか。
不安はすぐに体を突き動かした。ベッドから起き上がるととにかくエルネスティーの姿を探した。いなければいないで連れ去られた可能性が高まり、いるならいるで安心できる。
通路を早歩きで進み、キッチンやらリビングやらシャワー室なんかを見て回るが、どこもかしこも使った形跡がなかった。わたしの夕飯も準備されていない。もしかして実験部屋で実験や作業に夢中になっているのかと思い向かってみるが、部屋は真っ暗で、エルネスティーの姿も実験した形跡も何一つ見当たらなかった。
エルネスティーがいなくなった。
一度歯ぎしりをし、わたしは自室に戻ると急いで着替え始めた。ハンガーに掛けてあるシャツとベストとパンツを乱暴に引っ付かんで身に付け、ブーツを履く。エルネスティーを探しに行かなければならない。どこに行ったのかはわからない、それでも探さなければならない。
そのまま部屋を出ていくとき、視界の端にライフルが目に入った。念のために持っていくべきだろう。エルネスティーを連れ去ったものの正体がまったくわからない以上、最大限の攻撃と防衛手段は用意しておくべきだ。弾薬帯を腰に巻き付け、長い髪は邪魔にならないよう紐で適当にまとめ上げる。深夜ともなれば町の人たちは皆寝静まっている頃、ライフル担いでうろうろしても大丈夫のはずだ。
わたしはライフルに弾を込めてセーフティをかけた。そして、部屋を出た。
家の出入り口の扉を開け放つと、そこは一面銀世界になっていた。乾いた小さな雪しか降らないはずのアンルーヴの町に、大粒の牡丹雪が絶え間なく降り注ぎ、地にどんどん積もっていっている。その天気のため遮られた視界は悪く、街灯の明かりさえ頼りない。大股で一歩踏み出すと雪がぎゅっと鳴り、膝下辺りまで雪で埋まってしまう。それでもエルネスティーの消息と安否を確認するまでは四の五の言っていられない。それで、また一歩踏み出した。
「ん?」
そうして出入口から少し歩いた所に、茶色いものが見えた。雪が積もっているそれを拾い上げ紙袋だと認識し、中を見ると小瓶に入れられた透明な液体と麻の葉の束。こんな物買うのはエルネスティーしかいない。そして、それが出入口直前のここに落ちているという事は。
エルネスティーが出かける前に行くと言っていた場所は、たしかクランのお店だ。夜中の零時と酷い時間だが、行かないわけにはいかない。わたしは商店街でさえ脛の辺りまで埋まってしまう状況に苛立った。時間が過ぎていく。
そして、いつもの倍以上の時間をかけてクランのお店にたどり着いた。店の裏口を探してドアを叩く。
「クラン、クラン! 起きて! エルネスティーがいなくなっちゃったんだよ! クラン!」
彼女が起きてくるまでドアを叩きながら呼びかけ続けた。すると、数分して扉の鍵がかちゃりと開く。中から出てきたのはランプも持たず眠そうにあくびをする寝巻き姿のクランだ。
「なにようこんな時間に……。今何時だと思ってんのよばか……」
「大変なんだ。エルネスティーがいなくなっちゃったんだよ」
「え?」
暗がりにクランの表情が困惑の色を浮かべるのがわかった。
「いなくなった、ってどういう。……とりあえず、寒いから中入って」
「う、うん」
その一言で目が冴えたクランは、わたしを家の中に招き入れてくれた。体に積もった雪を払ってから入ってすぐの階段を上がり、リビングらしい場所で椅子に座るよう促される。かまどと暖炉に火を点けて、彼女はお湯を沸かし始めた。
クランは神妙な面持ちでわたしの対面に腰かける。
「詳しく聞かせて。いつから消えたのかとか、エル姉の様子とか」
「わたしがエルネスティーを最後に見たのは、エルネスティーがここに出かける直前だった。エルネスティーの様子は、いつもよりちょっと元気なさそうで。さっき家を出てくる時これを拾ったんだ」
そこまで言って紙袋を取り出してクランに見せ、わたしは言葉を切った。クランが急に唸り始めたからだった。
「クラン?」
「エル姉、もしかして、死ぬ……つもりなんじゃ」
「クラン、変なこと言わないで。お願い」
「あたしだって考えたくない。でも、あたしの所に来た時もすごく悩んでいるみたいだった。自分のことどう思うかとか、いきなり聞いてきて。その時は励ましてあげたけど、帰る時もなんだかしょんぼりしてたような……」
「ここには来たってこと?」
「うん」
ということは、エルネスティーは帰ってくる時に何かに巻き込まれたか、もしくは自暴自棄になってどこかへ向かったか、そのどちらかになる。
もし後者だとしたら向かう場所はわかってはいる。しかしあそこは現実的なのだろうか。エリクの後を追って死ぬつもりなら谷底に身を投げるのが妥当だろう。でも、今になって唐突にそれをしようと思い立つのも考えにくい。繊細に見えてエルネスティーは結構意思の強い人だ。
わたしは大きく深呼吸した。やはり、あのエルネスティーがその考えに至るという可能性は考えられなかった。
「もしかして、エルネスティーは誰かに連れ去られちゃったんじゃないかな。その、エルネスティーのことを良く思わない人に……例えば、雇われの殺し屋に、殺された、とか」
「そんな、連れ去られはするかもしれないけど、殺されるなんて──」
打って変わって冷静に反論するクランだが、途中で何かに気づいたように口を慌てて閉ざした。何か知っているのだろうか。そうわたしが訊ねる前に、クランが言う。
「ごめん、なんでもないわ。えと、たしかに連れ去られはするかもしれない。だって町の人の中にはエル姉を邪険に思っている人も多いし、できれば町から追い出したいと思っている人もいる。昼からあの雪だからどこかで立ち往生してるかもしれないし……」
クランの様子にわたしは眉をひそめつつ、続けて言った。
「じゃあエルネスティーは町の中にいるかもしれないってことかな」
「うん、それも可能性としてあるかも」
わたしは椅子から立ち上がった。あの大雪の中で谷底に向かうのはこちらも危険が大きいし、可能性として考えられるのは連れ去りなのだ。そうとなれば、歩けなくなるほど雪が積もってしまう前にエルネスティーを見つけ出さなくてはならない。
「もう行くの」クランが訊ねる。
「時間が惜しいから」わたしは言った。
「あたしも手伝う」
「いいの?」
「当たり前。あたしだってエル姉放っておけないもん」
胸を張って答えるクランがこんなにも頼もしく見えたことはない。彼女の申し出を快諾した。
「よし。じゃあ手分けして探そう。ミゼットおばさんやドックスおじさんには内緒だよ」
「うん」
クランが着替えたあと、わたしたちは裏口でふた手に別れた。わたしは比較的入り組んだ町の北側一帯を、クランは探す場所の少ない南側一帯を探すことにした。
わたしは再び商店街へ出て、その道を北に向かったのだった。




