Ⅰ-12 一つ目小ザルに茶化され戯れ
あれから数十分が経った。
「どうしよう。なかなか来ないね」
「ていうか、すごく寒いんだけど」
わたしたちはまだまだ寒空に身を震わせながらサルの来訪を待っていた。
シャーベット状の雪は止むことなく降り注ぎ、頭や肩に降り積もっている。籠の中身の野菜は雪に隠れる有り様だった。
ここで、エルネスティーの顔つきが変わった。
「二人とも」
エルネスティーが指さした先には。
「わ、来た」
「やっぱりサルだったのね」
小さな毛むくじゃらの黒い影が、雪の積もった野菜たちに興味津々な様子で近づいていっている。その姿はようやく白日の下に曝され、その詳細の一切をわたしに教えてくれた。
体は確かに小さいが、エルネスティーの当初の推測である二十センチではなかった。それよりもさらに小さく、およそ十五センチほどだろう。クランの言う通り目は片方に切り傷の跡が付いており、癒着して開かなくなってしまっているようだった。
そして、肝心の大きな目だがこれが本当に大きい。やはり親指と人指し指で輪っかを作ったくらいの大きさがある。
「うわあ。何あの大きさ」
それで、思わず口に出す。
「あれはメガネザルの一種ね」
「うん。あたしもそう思う」
口々に知っているようなことを言い出すので、わたしはこっそりと訊ねてみた。
「メガネザルって」
「南方の生物。サルの一種。夜行性で、主に昆虫を食べて生きる。樹から樹へ跳び移りながら樹上生活をする種だから脚が発達している。逃げられたら厄介ね」
「ちなみにメガネザル全般は目玉を動かせないから、代わりに首が百八十度回転できたりもするよ」
ますます気持ち悪い生き物だ。とは言わないでおいた。わたしはこの寒空の下から脱け出したく、さっそく麻酔銃のセーフティを外し、そのメガネザルとやらに銃口を向ける。二人に視線を向け同意を取りつけると、野菜の周囲をぐるぐる注意深く歩き回っているメガネザルに狙いを定めた。
もちろん歩き回っているため狙いは非常につけづらい。だからこそ、サルが身の安全を確認し、野菜にありつき気をゆるめた時が勝負だ。
やがてサルは立ち止まり、周囲をきょろきょろと見渡した。
ここだ。そう思い、わたしはいっそうの注意を研ぎ澄ませた。麻酔銃を握る手に力が入る。
そして、サルは野菜に顔を近づけ、手を差し伸べた──。
その直前、わたしは直感で作戦の失敗を確信した。反射的に引き金を引くも。
「ギッ!」
一瞬で気づかれ、射出された針はサルがいた場所の雪に乾いた音を立てて埋まる。サルはエルネスティーの言う脚力でぴょんぴょんすばしっこい動きで遠くへ行ってしまった。
「マルール!」
「追いかける!」
エルネスティーが叫んだのを契機に路地裏から飛び出すと、シャーベット状になった地を勢いよく蹴り出した。後ろで二人が叫んでいるが、すぐ遠くへ流れてしまい聴こえない。サルは商店街の長い道をネズミのようなすばしっこさで駆けていく。
わたしはまっすぐに駆けていくサルに走りながら狙いを定めた。
「キキッ」
「あっ」
勢いよく射出された針はしかし、まるで背中にも目が付いているかのようにほんの少し体を逸らしたサルに見事に避けられてしまった。なんて小生意気なサルだ。しかし、相当な曲者だと思う。わたしがやつに銃口を向けていることを少しも振り返らず気配で感じ取るとは、並大抵の動物ができる所業ではないだろう。
だったら、とわたしは再びシャーベット状の地を強く蹴り、サルとの距離を一気に縮める。サルはその首を百八十度回転させてこちらを振り向きながら走り、ほんのちょっとだけ瞼を開いた。
あれほど小柄な動物が人間の──大怪我からも立ち直ったわたしの──持久力に勝てるわけがない。持久戦なら決して負けない自信がある。
「こぉら! 待てぇ!」
それでもサルの憎たらしさから声を上げてしまうのはご愛嬌だ。わたしは走りながら麻酔銃に針を込める。残りはあと三本。
しばらく商店街を駆け抜け、その終わりの部分まで差し掛かった。そこでサルが急に方向転換し、狭い路地裏へと滑り込む。見失わないようにそこへ駆け込むもサルの姿が見えない。見失ったかと焦りつつ辺りを見渡すと、急に頭に何かが落ちてきた。
「冷たっ」
反射的に体を逸らすも避けられず、シャーベット状の雪が落とされたのだとわかった。落とされたほうを見上げると、そこには雨どいから続く壁面の排水用パイプに捕まったメガネザルの嘲るような顔があった。
見上げつつ、あまりの怒りに沈黙。
わたしは無言で麻酔銃を取り出し、無言でサルに向け、無言で撃つ。しかし、そんなわかりきったものはひょいと簡単に避けられ、針は壁面に当たってぽとりと落ちた。眉間に皺を寄せたサルが「ケキッ」とそんなふうに鳴き、笑われているのだとよくよくわかった。
間違いなくわたしは甘く見られているのだろう。今だって、さっさと鬼ごっこを再開しようぜというふうにそわそわ忙しなくパイプを行ったり来たりしている。
待てよ。
もしかしたらサルは鬼ごっこがしたいだけなのかもしれない。これが本気の逃走ならばわざわざ雪を落とすために待ち伏せたりはしないし、そもそも建物の屋根から屋根へ跳び移って逃げるだろう。だけど、やつはわたしと同じ地面を駆けて逃げている。
ははあ。
「どっちが先に力尽きるかな」
わたしはサルに向かってにやりと笑う。対してサルも口を歪ませ「クキキッ」と笑った。
数秒ののち、一陣の風が吹き抜ける。
「っ!」
それで弾かれたようにサルがパイプを伝って駆けてゆく。わたしも瞬間的に地を蹴り負けじとそれについていった。
わたしたちは狭い路地裏で熾烈な追走と逃走を繰り広げる。サルがパイプから降りれば、わたしは捕まえるために加速し、サルががらくたの上をぴょんと飛び越えれば、わたしはそれを踏みつけて超える。ぬかるんだ場所ではサルもわたしも速度が遅くなり、雪の上では思いきり雪を後方に蹴飛ばしながら全力疾走した。
やがてお互い息が上がってきた。かれこれ三十分の逃走劇で、わたしは一度もサルに触れることができていない。いい加減なんとかしなきゃ。
麻酔銃をぎゅっと握りつつ、そういえばこの場所はクランのお店がある辺りだと気づいた。もし嗅覚が鋭敏な動物がそれを不意に嗅いだらどうなるか。動きを鈍らせることくらいはできるはずだ。
わたしはその作戦に賭けた。もはやサルを捕まえるにはそれしかない。
クランのお店への最初の十字路は二十メートル先だ。その十字路でわたしはサルの右斜め前方に針を発射し、サルの進行方向を左の脇道へと誘導する。
わたしは走りながらその場所に狙いを定め、サルがその十字路の少し手前に至る場所の、その地点で針を発射した。
「キッ!」
メガネザルはものすごい反射速度で体を左に方向転換させ、思い通りの脇道へ入ってくれた。次はサルを右に誘導する。麻酔銃の残り針は一本だ。間違いは許されない。クランのお店へのもうひとつの十字路。右に誘導するべきそれを見据えた。今度は四十メートル先にあり、タイミングを図るには十分な距離が保たれている。走りながら麻酔銃を構え、わたしはサルの左前方に狙いを定めた。
三十。
二十。
十。
──「っ」
わたしは引き金を引いた。針はまっすぐに狙いどおりの地点で音を立て、それを回避したメガネザルの進行方向を右の脇道へと逸らすことに成功する。
「よしっ!」思わず声を上げそのままわたしも急いで十字路を右に曲がり、メガネザルの様子を確認する。
「いた!」
案の定クランのお店から漂う強烈に甘ったるい臭いによって、メガネザルは立ったまま死んだように硬直していた。わたしはメガネザルが逃げないように首根っこをがっしと鷲掴みした。臭いにやられたのかすっかり力が抜け、手の中でぷらんぷらんとぶら下がっている。
長い全力疾走で乱れた息をしばらくかけて整え、一息吐いてからエルネスティーたちのもとへ戻るために歩き始めた。
「エルネスティー、クラン。捕まえたよ」
メガネザルを戦利品にお店の中へと入った。そこには新たな方策を練るためにうんうん唸っている三人の姿があり、わたしの姿に気づくとメガネザルのように目をまん丸くさせて驚いた。
「三十分以上も追いかけ続けていたってのか。すげえ体力だな」
「病み上がりのくせに」
「大捕物ね」
みなが口々に言うが、とりあえずわたしは彼らに言った。
「檻か縄か、どっちにしても身動きとれないようにできるものが欲しいんだけど」
ドックスおじさんが店の奥から細い縄を持ってきてくれた。カウンターに置いて手際よくぐるぐると縄で縛ると、メガネザルをどうするかについての考えをみんなから募る。
「それでどうするの。このメガネザル」
「どうするか、ね」
エルネスティーは首を傾げた。クランもドックスおじさんも同様らしく「捕まえた後は考えてなかったんだね……」と少し悲しくなってしまう。三十分もの間、ひとりで全力疾走してメガネザルを追いかけ続けたのに、肝心の処罰について何も考えていなかっただなんて。
すっかり意気消沈していると、不意にドックスおじさんが口を開く。
「そうだ。そいつ、姐さん方のペットにしたらどうだい。サルは賢いからきちんとなつかせられれば実験の協力だってさせられるだろう」
「それはいい考えね」
エルネスティーが間髪入れず同意する。しかし、わたしは納得がいかない。
「ちょっと待って。普通こんなイタズラザルを野放しになんかできないでしょ。しかもわたしたちの生活空間に。自由に歩けるようにしたら絶対またなんかやらかすに決まってる。わたしは反対」
首尾よくそう伝えきるとエルネスティーから厳しい視線が向けられた。そして、ぼそっと呟かれる。
「家主の意見」
ぐぐ、と歯噛みした。そこを突かれては何も言い返せない。少なくともわたしは彼女の家に居候の身だ。
「わかったよ……。その代わりちゃんとしつけてね。イタズラできないように、ちゃんと言うこと聞くように」
「当然ね」
そこでメガネザルが復帰したのか、半開きだった瞼をゆっくりと開けた。二、三度ほどまばたきしながらわたしたちを見、「キュイ……」と不安げに鳴く。
そんなメガネザルをエルネスティーが優しく抱き抱え、その毛並みを撫でながら優しく言った。「大丈夫、安心して。実験には多少役立たせてもらうけど、食べるつもりで捕まえたわけではないから」
「実験に使うんかい」
ドックスおじさんがわたしの気持ちを代弁するかのようにすかさず突っ込みを入れるが、エルネスティーはそんなことお構い無しだ。
彼女の腕に抱かれるメガネザルは実に気持ち良さそうに彼女の手の動きに頭をすり付けている。そんな様子を見てなんだか頭と胸がもやもやしてきた。走ったせいで体も熱くなっていたところだしちょうどいいかもしれない。少しの間外へ出て、頭を冷やすために寒空に体を晒すことにした。
はああ、と溜まりに溜まった疲れを全部吐き出すように大きな息を吐いた。今日は本当に疲れた。
わたしだってエルネスティーに抱っこされたいし、頭だって撫でられたい。そんなことを考えてしまうと冷やそうと思った頭にさらに血が昇る。仕方なく、もはや誰もいなくなった商店街をとぼとぼと歩き出した。
相変わらずシャーベット状の雪が頭に降りかかり、ちょうどよく頭の熱を奪ってくれるような感覚になる。先ほど通った馬車の跡を辿りながら歩くと、ところどころでわたしたちが決死の逃走劇を繰り広げた跡が見られた。そのことに少しだけ頬がゆるんだ。
そのままレールに引かれた機関車のように馬車の跡を歩いていると、それは唐突に現れた巨大な門の前で止まっていた。
「ここは」
建物の大きさと装飾の度合いからして、アンルーヴ町長のお家だろうか。
そこで不意にエルネスティーが思い出された。町長に直談判して彼女の誤解を解いてもらうアイデアが思い出されたのだ。しかし、どこの馬の骨とも知れないわたしのような人間が町長に直談判したところで、突っぱねられるのがオチだろう。それに、町長がエルネスティーについてきちんと取り合ってくれる人物なのかもわからない。
邸宅を一瞥して踵を返した。あまり長居しても意味無いしな、と気づかされたのだった。
わたしは少し足早に三人の元に戻って行った。
「ただいま」
「どこ行ってたの」
「さーんぽ」
ドックスおじさんの店に入るなりわたしはエルネスティーに問われ、適当に返事をしておく。ふと見るとエルネスティーの肩にちょこんと行儀よく座っているのはあのメガネザルだった。わたしを見て心なしかにやにや意地悪く笑っているようにも見えた。
「もうなついたみたいだね」
「すごいんだよマルール! エル姉が試しに『お手』とか『三回まわってワン』って言うと、そのとおりに動くの!」
まるで犬みたいなんだよ、とメガネザルのあまりの賢さに興奮しているクラン。いやいや、犬ほどはかわいくないでしょ。
「なあ、このおサルさんにも名前を付けてやらねえか」
「あ、いいかも!」
クランが喜びながら言うと、エルネスティーはメガネザルを引っくり返して手際よく確認し「どうやら男の子のようね」と言う。
「男の子ねえ」
「男の子かあ」
ドックスおじさんとクランが腕を組んで首を傾げた。エルネスティーはメガネザルを指で弄んでいる。
わたしはなんとなく頭に浮かんだ言葉を呟いた。「シュトート……」
エルネスティーがそれに反応した。「シュトート?」
「トートって知ってる?」
「神話上の生き物ね」
「あれはたしかヒヒだったような気がするんだけど、賢いのは間違いないらしいし」
「マルールにしてはいいネーミングセンスだね」
クランがつま先立ちしながら指でメガネザルを弄んだ。クランも随分仲良くなったようだ。
「エルネスティー、どうかな」
「悪くないわ。シュトートね」
シュトート、と問いかけるようにメガネザル──シュトートに手を寄せて頭を撫でた。シュトートは本当に気持ち良さそうで、わたしはやはり嫉妬心に苛まれてしまうのだが、エルネスティーが良いならそれでいいか、と嘆息した。
わたしは壮絶な逃走劇を繰り広げた戦友のようなシュトートに、ひとつ報いようと思った。「シュトート、ほらほら。わたしもいるよ」と言って戦友の証たる握手を求めて手を差し出すも「ケッ」という鳴き声とともにそっぽを向かれてしまった。
「もしかして嫌われてる?」
「シュトート。仲良くしなさい」
「キキイ……」
エルネスティーに叱責されしょんぼり項垂れるシュトート。どうやらわたしに対してはエルネスティーやクランとは違った別の感情があるようだ。
そこでエルネスティーから「そろそろ帰りましょう」と言われた。わたしはそれに反対する理由が全く無く「そうだね」と頷いた。
「エル姉。今度からあたしの店に来るときはシュトートも連れてきてね」
「ええ」
「おれの店に来る時は連れて来ないでくれよ。野菜がいつの間にか食べられそうだ」
「そうね」
わたしたちは、戦利品のようなそうではないような、罠として外に置いた野菜を買い取って帰路についた。帰りの道でシュトートは終始二人にいちゃいちゃされ、わたしの嫉妬心も収まるところはなかったのだった。




