Ⅰ-11 一つ目お化けの怪異
「前に言っていなかったかしら」
「ん?」
エリーヌの点滴を済ませたあとまったり午後を過ごしていると、買ってきてあげた隔週新聞を読んでいたエルネスティーが不意に不思議なことを聞いてきた。わたしはナイフの扱い方についての本から顔を上げて首をかしげる。
「なんだっけ」
「実験室からガートルを持って来るよう頼んだ時、小さなサイクロプスが出たとか言っていたわ」
小さなサイクロプス、という言葉に全身の毛が粟立った。薄暗い実験室で見た「でっかくてまん丸い妙にリアルな一つ目」を思い出してしまったのだ。
「あ、ああ。あれね」
思い出したくないものを思い出してしまい、声が震える。
「本当にサイクロプスなら貴重なサンプルになるから捕まえたいのだけど」
「え、捕まえる?」
「ええ。不服かしら」
しれっと同意を求めようとする言い方にぐうの音も出ない。しかし、もしかしたら既にこの場所にはいないかもしれない。
それでわたしは彼女の早まった決断を押し止まらせようとしたのだが、小さなサイクロプスというその言葉だけで彼女の研究魂に火が点いてしまっているらしい。
「そうだね……。一緒に探してあげる……」
力無く小さなサイクロプスの捕獲に協力してあげると申し出ると平坦な声で「ありがとう」と言われた。なんて心のこもっていないありがとうなんだ、と心の中でよよと泣く。
かくしてわたしたちは暇な午後の時間を意図せず小さなサイクロプス捕獲作戦に費やすことになった。
わたしたちは虫網や大きな鍋などを手に実験室に侵入した。目玉の大きさが親指と人指し指で輪っかを作ったときの大きさと同じくらいだった記憶から、体長はおよそ二十センチほどだろうという推測が立っていた。
ランプを点けていない実験室は真っ暗のため、ネジを調節して薄ぼんやり程度の明るさにする。エルネスティーの判断から、その小さなサイクロプスとやらは夜行性であるとする可能性まで考慮されている。下手に部屋を明るくすると余計な刺激になる。
「あの物置辺りで見かけたのね」
「うん」
わたしたちは物置に近づく。息を殺して対象にこちらの気配を悟られないようにした。
「……いない、ね」
「そうね」
やっぱりもう出ていっちゃったんだよ、探すのやめようよお、と弱音を吐いたわたしにエルネスティーの鋭い視線が突き刺さる。
わたしの言葉を無視して物置を調べていると、エルネスティーが驚きの声を上げた。「これは」
ごそごそと奥に腕をやり、目的のものを手に取ったのか、彼女はずいっと腕を抜いてみせた。その手には、バッタの乾涸びた死骸。
「それがどうしたの?」
びくびくしながら訊ねると、その死骸を見つめてエルネスティーが言う。
「バッタはこの地方にはいない生き物よ。ここにあるということは、私が保管しているものか、クランのお店に売られているものくらいしか思い浮かばない」
「うん。つまり」
「小さなサイクロプスは本当に、新種の生き物かもしれない」
「そうじゃないでしょ!」と、咄嗟に叫びたくなった。
小さなサイクロプスと言えば、一つ目というだけでおおよそ普通の動物ではないのだから、追いかけないほうがいいに決まっているのだ。それをなんだ。新種の生き物だなんだのと。
闇に浮かぶ一つ目にまばたきされたという恐ろしい体験をしたわたしは、いかに彼女のためであろうと付き合いきれない。
「バッタが好物なのかしら。つまりバッタを撒いておけばそのうち現れて……。でも私の研究用のサンプルは減らしたくないし……。たしかクランのお店にイナゴが……」
エルネスティーはバッタの死骸を見つめながら、なにやら真剣な面持ちでぶつぶつ呟いている。
わたしは叫んだ。
「エルネスティー!」
ようやく我に返ったのか、振り向いた彼女が言うのだ。
「マルール。クランのお店へ行ってイナゴを五百グラム買ってきてちょうだい」
「はい」
懐から出てきたお金を受け取り──災い転じて福となすとでも言うのだろうか──おつかいをすることで図らずもこの場から立ち去れる。この場から離れられるのならもはやなんだっていいのだ。わたしは二度と一つ目の化け物を見たくないだけなんだ。
お金を受け取ってエルネスティーに別れを告げたわたしは、先ほどとは打って変わった様子で意気揚々と外に出た。
空は快晴だった。いつもは地面に薄く積もっている雪も、太陽の光の熱ですっかり融けている。気分よく大股で歩を進めるわたし。クランのお店にはものの十分ほどで到着した。お店のドアを開ける。
「クラン、いる?」
呼びかけながら入店するが、返事はなくしいんと静まり返っていた。鍵が開いているのだからお店自体は開いているはずだ。となると、どこかでちょっとした野暮用ができてそちらにいるのだろう。
わたしは店内でしばし待つことにした。店を空けたままそんなに長い間留守にはしないはずだ。
そして数分した時、カウンターの奥の扉が力なさげにかたりと動いた。出てきたのは力が抜けがっくりと肩を落とした様子のクランだ。その手には大きなガラスの瓶。
わたしの存在に気づいた彼女が言った。「ああ、あんた……」
「どうしたのクラン。すごく落ち込んでるみたいだけど」
はあ、と溜め息を吐き、ガラス瓶をカウンターに置いた。
「商品がすっからかんになっていたの。せっかく大量に買い付けたっていうのに。やんなっちゃうわもう。犯人探さなきゃ」
へえ大変だね。と言い、ついでに「ところでエルネスティーからイナゴを五百グラム買ってくるように言われたんだけど、置いてない?」と訊ねた。
「え」と目を丸くし「盗まれたのがイナゴなんだけど」とすっからかんになったガラスの瓶を指す。
「それ……え、イナゴ?」
「うん。イナゴ」
まさか、とわたしは一気に身の危機を感じた。
そのとき、背後で、「キッ」と小さく唸る声が聴こえた。
わなわな震えながら、確認しないわけにはいかない、とゆっくり体を回転させると。
「ギッ」
そこにはやっぱり大きな一つ目を携えた毛むくじゃらの小さくて黒い影が──。
「クランんんんんんんんんんん!」
「いきなり大きな声出さないで! ていうかなんなのよ!」
あらんかぎりの声で叫んでへっぴり腰でクランの元まで後ずさり、彼女の腰あたりにしがみつく。一つ目の毛むくじゃらで小さくて黒い影はどうやら窓の外にいたものらしく、既にいなくなっていた。
「一体何がいたってのよ」
「いや、小さなサイクロプスが……。一つ目で小さくて、毛むくじゃらで」
「何その変な生き物」
「生き物じゃないよ! 化け物だよ! 一つ目だよ?」
「一つ目ねえ」
ううんと唸るクランだが、ピンときたらしい。
「とりあえず離れて」
「あ、うん」
すごすご腰から離れて立ち上がり「何か知ってるの」と問う。
いわく下手物店主をやっているからか、買い付けのために珍しい動物を日頃から見ている身として言いたいのは、わたしが小さなサイクロプスと称するその生き物は、サルの一種なのではないかということだった。
「一つ目のサル?」
「違う。たぶん目を怪我したり病気だったりして、片目の瞼が開かなくなってるんじゃないかってこと」
「じゃあ、サルって虫を食べるの?」
「中型以上になるとさすがに栄養面で虫は大したものにならないからあまり食べないけど、小型なら主食にする種も多いから不思議じゃないかもね」
そ、そうなのかあ、と相づちを打ち、とりあえず小さなサイクロプス説が覆されそうで安心した。化け物相手にこれ以上かかわりたくないと思っていたが、これなら大丈夫そうだ。
しかし、そうとなればエルネスティーに報告せねばなるまい。イナゴが食べられてしまったこととクランの推理も聞かせてあげるべきだ。それでなくともエルネスティーと同じようにクランも件のサルとやらを取っ捕まえる気で満々のようだ。イナゴを食い尽くされたのがそんなに悔しいのだろうか。
とりあえず、クランに提案してわたしたちは家に帰ることにした。快晴の空にいつの間にか陰りが見え始めているのをしり目に、エルネスティーのいる地下へと足を運ぶ。
「エルネスティー」
「早かったわね。……クラン、どうしたのかしら。それにイナゴは」
「それについて話したいことがあってね」
わたしたちはエルネスティーに事情を説明した。すると、エルネスティーはますますもって興味深そうに唸る。
「小型のサルで昆虫が主食だとすると、海を越えた南東か、少なくとも南方の熱帯由来のものと考えたほうがいいわね」
問題はそんなサルが、いつでも冬らしい気温のアンルーヴの町に存在する意味だと言う。南方からの貨物にまぎれてやって来たのか、密輸されていたものが檻から脱走したのか、はたまた誰かのペットだったものが逃げ出したのか。どれにしても寒い地方にはいない生き物だ。彼女は新種の生き物であってほしいというが、この際そんなことどうでもいい。サルという可能性の高い推測が出たのだから、わたしはサルであってほしいと願っている。
「二人とも捕まえる気満々だね」
「もちろん。興味深いもの」
「ただ食いした罪は重いよ」
同時に振り向いたその表情は熱意に燃えていた。あの二人がその気になってしまったら、どうせわたしの拒否権など奪われたも同然なのだ。
「じゃあどうする。きっと相手は賢いし、それ以前にすばしっこいと思うよ。がむしゃらに探しても疲れるだけかも」
そう言うと、二人はわたしを蚊帳の外に相談を始めた。わたしはどうやら二人の作戦のための実動隊でしかないようだ。
やがて二人の間で意見がまとまったのか、こちらに振り向く。
「とりあえず、その生き物が相当にお腹を空かしているか、かなりの食いしん坊だということを見越して、八百屋を中心に張り込みましょう」
「八百屋って言ったってこの町にどれくらい八百屋があると思ってんの。張り込みきれないよ」
「大丈夫よ。相手が賢いこともわかっているんだから。ドックスおじさんのところに行って、店の外に新鮮な野菜を入れた籠を置いておけばいいの」
「わざとおびき寄せるのか」
しかし、わたしの中では、そんな単純な方法で捕まえられるのか、疑問の念が渦巻いていた。なんせガラスの瓶に入れられたイナゴを探し当て、あまつさえその蓋を取って綺麗に平らげてしまったのだ。そんな図々しい思考がはたらくなんて、相手はわたしたちの想像以上にずる賢いに決まっている。
そんなわたしの懸念など、冷静なわりに──冷静に捕獲ばかりに気を取られている彼女たちにはわからないだろう。二人の左右の目にはそれぞれ「捕」と「獲」という文字がうかがえるようだ。
そんなわたしたちが早速向かった先はドックスおじさんのお店。ドアを潜って呼び鈴が鳴った。
「ドックスおじさん、いるかしら」
エルネスティーが呼びかけた先には、暇そうに新聞を読むドックスおじさん。「ああ、大勢成してどうしたんだい」とこちらを振り向いて言うと、読んでいた新聞をたたんで置いた。
「実はドックスおじさんに協力してもらいたいことがあって」
「協力?」
エルネスティーとクランは交互に説明してゆく。ふむふむと豊かな二重顎をさすりながら聞き、大体把握できたようだ。
「なるほどな。つまり新鮮な野菜を用意して、分けてもらいたいと」
「ええ」
「しかしなあ、今は旬の野菜なんて少ないし。かぼちゃとかきのこくらいか」
「できるかぎりのものでいいんだよ」
わたしが言うも、ドックスおじさんは難しそうに唸る。
「仕方ない。おれの目利きで一番いいものを選んでやろう。手数料込み、高く付くぞ」
ドックスおじさんが準備に取りかかっている間、二人はどのようにサルを捕まえるかを話し合い始めた。ドックスおじさんもかなり念入りに野菜を目利きしているし、わたしはみんなが終わるまで外に出て待っていることにした。
外に出ていつの間にやらなっていた生憎の空模様。今日の雪は水分を多く含んでいるため、シャーベット状になっていて少し歩きにくい。店の軒先に立って濡れないようにしながら、暇つぶしに商店街を行き交う少数の人々を眺めた。
この町の人はどれほどエルネスティーが嫌いで、エリクのことが好きだったのだろう。きっと、好きも嫌いも一部の人だけで、実はエルネスティーが好きだったり、エリクが嫌いだった人もいるのではないか。そんなふうに思う。エリーヌとジャックの一件以来、きちんと話せばわかってくれる人もいるとはっきりしたのだ。
問題はきちんと話せる場やきっかけが無いことだ。エルネスティーに不信感を抱いている人が多いのは確かだし、話を聞いてくれない人もそれだけいるのだろう。病気を怖いと思うのは当然だ。
近くでがらがらと馬車を引く音が聴こえて、わたしは顔を上げてそちらを見た。装飾が派手な馬車で、窓には刺繍入りの高価そうな厚いカーテンが垂れていた。
いっそ町長に直談判してエルネスティーの誤解を解いてもらおうか、と突拍子もないアイデアが頭に浮かぶが、きっとそれはエルネスティーを困らせてしまうに違いない。エルネスティーに破れかぶれな性格と称されたわたしでも、さすがにそこまでのことは、しない。
「あ、こんなところに」
「クラン」
不意に背後の扉が開いて出てきたのはクラン。作戦準備が出来たので戻って来いとのエルネスティーのお達しだそうだ。すぐ中に戻って彼女からの指示を仰ぐ。ちらりと視線を向けた先には籠に入れられた大量の野菜があった。
「それで、わたしはどうしたらいいの」
「これ」
短めの応答で渡されたのは、手のひらサイズのL字型の塊だった。小さいわりにずっしりとなかなか重い。
「これ、なに」
「麻酔銃」
「麻酔銃?」
わたしは聞き返した。
「引き金を引くと、エル姉が作った超即効性の睡眠薬が塗られた針が発射されるんだよ。込められる針の本数は五本」
エルネスティーの代わりに得意げなクランが答えてくれる。なぜこんなものがここに、と思ったが、エルネスティーのものだからろくでもない理由なのだろう。さしずめ、今回のように実験動物を捕獲するためのものに違いない。
「どうしてわたしがこれを」
「銃の扱いなら慣れているんじゃないかと思った。この麻酔銃、見つけたはいいけど扱いに慣れなくて」
もっともな理由で安心した。
以前のわたしはライフルだけでなく拳銃も扱えたのだろうか。セーフティを外し、手動でブローバックさせ、これで引き金を引けばいつでも針を射出できる。上出来だ。念のためサルが登場するまでセーフティをかけておく。
銃の扱いは大丈夫そうね、とエルネスティーが言い、わたしはしっかりと頷いた。
「どれ、じゃあ野菜を店の外に置いて待ち伏せといこうじゃないか」
わたしたちは外に出て商店街の道の真ん中まで行くと、シャーベット状の雪の上に野菜籠を置いた。ちらほらと見受けられる町の人からは、冷たい視線と意図せず振り向かないようにする雰囲気。今日のところは許してあげよう。
そうしてそそくさと店の中からサルの来訪を待とうと踵を返したわたし、その手を、クランの小さな手ががしりと掴み、そのまま笑っていない目を伴いながらほほえんだ。
「寒いけど、外で待とうね」
そう言われ、わたしは二人と一緒に路地裏の陰に身を潜ませた。




