Ⅰ-9 踊る少女の赤い靴
「あ、ねえ。エルネスティー」
ある日の昼下がり、エルネスティーが淹れてくれた熱い紅茶を口に寄せて吐息で冷ましながら、わたしはふと思い出したことがあって彼女に問いかけた。彼女は本に視線を釘付けにさせながら声だけで返事をする。
「なに」
「今月の最終週にこの町でアートフェスティバルが開催されるのは知ってる?」
「知識だけなら」
「参加したことは?」
「無いわ」
「じゃあ、クランとも」
「あの子の店はこの時期になると、創作料理や舞台小物の材料を買い求める人で忙しいから」
「下手物を? そうなんだじゃあさ、わたしと一緒に回ってみない?」
「え?」
エルネスティーにそう提案すると、ようやく視線をこちらに向けてくれた。
「わたしとなら人混みに入ってもきっと平気だよ。そうでしょエルネスティー。ね、行こうよ」
エルネスティーは悩んでいるようだった。驚きに丸くしていた目をほんの少し細め、首を傾けて俯きがちになる。
「私となんかあまり一緒にいるものじゃない。あなたも町の人から疎まれてしまうわ」
「気にしてないよ。今のわたしにはエルネスティーしか見えてないから」
とびきりの笑顔を作ってそう言ってあげると、彼女は一瞬固まった後、呆れたようにこめかみを押さえ大きく深い溜め息をひとつ。
「ほんと、しょうもない子ね……」
「ねーえー、行こーよー」
テーブルに顎をべったり付けながら駄々をこねる。すると、彼女は諦めたように言った。
「そうね。あなたの町の人からの評価なんて私には知ったこっちゃないもの。この際だしマルール。あなたのことはとことん使わせてもらうわ」
「エルネスティーのためなら馬にだってなれるよ。犬だって、虫け」
「それ以上は黙って」
冷たい視線でぴしゃりと言われ、わたしは黙る。エルネスティーはそのまま手にしていた本に視線を移し、それから何度呼びかけてもガン無視した。
そんな他愛のない日々を過ごしながら、第九十八回アートフェスティバルの開催日はやって来た。
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わたしとエルネスティーは開催日のお昼過ぎあたりに外に出た。町には至るところにアーティスティックなオブジェが置かれている。木彫り、石像、背丈以上のものから目を凝らさないとわからないくらいの大きさのものまで、たくさんの造形が道を華やかに彩っていた。
エルネスティーによると町中でこのようなオブジェが、レストランや公共施設の建物内には絵画や小物といった芸術品が展示されるようになっており、町中を散策するのにも良い機会になっているのだとか。
そんなフェスティバルの初日はやはりかな、普段見ないほどのたくさんの人で道が埋め尽くされている。エルネスティーの地下への入り口は町の外れに位置しているけど、そこから一歩出ても人の間を縫うように歩かなくてはならないくらい。
「この町ってこんなに人がいたんだ」
「町の統計では人口は八千人ほど」
「大きいの」
「少なくともこの辺りでは二番の規模」
へえ、てっきり寂れた孤立地帯なのかと思ってた、とわたしが言うと、あながち間違っていないというエルネスティーの返事。
「この地域は年中寒いし周囲の森は霧が深い日も多いから、慣れている貿易商でも注意しなければ、あなたのように足を踏み外して崖にまっ逆さま。実際、一、二年に数人は崖から落ちて死んでしまう人がいる。大半は見つかるのも遅くて助からない。あなたのように生きていたのは不幸中の幸いね」
「そうなんだ。運いいな」
「悪運でしょう。マルールは普段の態度がふざけているから、いつかしっぺ返しを食らうに違いないわ」
「エルネスティー……」
納得いかない感を覚えつつも、わたしたちはゆっくり歩きながらよくわからない芸術品を眺めていった。
「見てよエルネスティー、変な形の石像。あれ何?」
「あれはエリマキトカゲという生き物よ」
「そんな生き物いるんだ」
「ここにはいない。もっと暑い、ずっと南の方角にある地域で見られる生き物。たまにクランのお店にもエリマキ部分が売られていたりする」
「へえ」
とか。
「ちょっと待ってエルネスティー。でっかいボールみたいなのが空に浮かんでる。すごくない、あれ」
「あれは軟式飛行船。水素やヘリウムガスといった軽い気体を充満させて浮力を保つの。元々は人が乗るために作られたけれど、あれはふたまわりくらい小さいわ。この祭りのための広告船みたいなものね」
「へえ」
とか、記憶を失って同時に失ってしまった知識を補うように、見たこともない形をした芸術品に対してわたしが次々と質問をするかたちで会話が進展するものだから、ほんの少しエルネスティーに笑われた。
「おかしい?」
「子どもみたいで」
「仕方ないでしょ。その、だってわからないんだし」
「気にしないで」
楽しいから、とその後にかすかな声で続いた言葉を聞き逃しはしなかった。けれど、それを追及するようなことはしない。
すると彼女は不意に足を止めて通りの向こうを凝視した。
「どうしたの?」そう言って見据える方向を向いてみると、どうやら大広場で演劇会をしているようで、そこだけに黒山の人だかりが出来ていた。
「気になるなら近くに行ってみない?」
そう提案してみるが、なんだか彼女はあまり乗り気ではないように見える。
「あんなに人がいたら近寄れないわ」
「どうして」
「だって、この体が」
俯いてそう言う彼女に、しまった、と己のうっかりさを反省する。でも普段からエルネスティーと触れ合っているわたしでさえ未だに体にはなんの兆候も現れてはいないのだ。きっと人混みに紛れても平気だと思う。
だから、わたしは彼女の手を強く握り、勢いに任せて引っ張った。
「マルール。だめよ」
「だめじゃない。町の人にエルネスティーを避ける必要なんてないことを証明するいい機会だよ」
「だめだったら……」
否定し、踏ん張って抵抗するエルネスティー。わたしは立ち止まって言った。
「エルネスティーだってなんの落ち目もない人同士で避け合うなんて、本当はいけないってわかってるでしょ」
「マルール、でも、私」
わたしは今一度彼女の手を強く握って、今度はしっかりと一歩一歩を確かめるように歩き始める。その歩みに彼女も抵抗する気が失せたのか、素直についてきてくれた。
そして、わたしたちは人混みを掻き分け、なんとか演劇の見えやすい場所にまでたどり着くことができた。周囲の人たちはわたしたちと体ひとつ分くらいの距離を取るも、とても熱心な様子で演劇を見ていた。
「ほら、大丈夫だよ」
エルネスティーに話しかけるも彼女はつんとしながら演劇に目を向けるばかりで、わたしなど眼中にすら入れてくれなかった。さすがに無理やりすぎたかな。でも彼女も町の人たちも熱心に演劇を眺めるのでこの際気にしない。
そうしてわたしも舞台上に目を向けると、すぐに気づいたことがあった。
「あの赤い靴」
少女役の人が手に赤い靴を持って唸っている場面。わたしはその赤い靴に見覚えがあった。先日、ミゼットおばさんのお店に行った際、彼女が一所懸命にデザイン画とにらめっこしていたものと同じなのだ。
「ねえ、エルネスティー」
「なに」
「これってなんて演劇なの?」
ひそひそ声で聞いてみると彼女は少し頭を傾け、「赤い靴じゃないかしら」と言う。
「赤い靴?」
「ずっと昔にアンデルセンという人が書いた童話よ」
少し脚色が加わっているみたいだけど、と付け足すエルネスティー。
アンデルセンの赤い靴、と言われてもわたしにはどんな物語かさっぱりわからない。その赤い靴とやらが話の中心にある物語なのだろうか。わたしも演劇に注意して、物語の顛末を見届けることにした。
『なんて可愛らしい赤い靴なのかしら』
『やあ、可憐な少女だね。その靴がお気に入りかい?』
『あなたは……』
『僕の名前はジャック。ここの靴屋の息子さ。その赤い靴、きっと君に似合うよ』
『わたしの名前はカーレン。そんなに似合うかしら。実は気になっていて』
『ちょっと履いてみようよ』
なんとなくロマンスっぽい気がするのだが、こういうお話なのだろうか。そう思ってエルネスティーを見ても、相変わらずすごい集中力で舞台上を見ていた。
やがて物語が中盤に差し掛かると、舞台上の袖辺りがなんだか騒々しいことに気づいた。幸いにもエルネスティーも他の観客もそれには全く気づいていない。わたしはこっそりエルネスティーの傍から離れ、黒山の人だかりをぐるりと迂回するようにして舞台裏に回った。
そして、ひょっこり顔を出して様子を窺ってみた、そこには──。
「やだっ、もう、何これ!」
「くそ、誰か押さえつけてくれ!」
先ほどのカーレン役の少女が何やら踊りまわっていた。だが様子がおかしい。まるで無理やり足を動かされているように見える。
仕方なく加勢して、踊ろうとする彼女の足を押さえつけた。
「大丈夫? えっと、カーレンさん?」
「あ、はあ、なんとか……。カーレンは役名で、あたしの名前はエリーヌです」
などと軽いやりとりをしている合間にも、足は華麗なステップを踏もうと力を込めようとして跳ねる。まるで足だけが別の生き物になってしまったかのようだ。
「もおお! いきなりなんなのよお!」
こっちが聞きたいよ、という気持ちを胸に秘め、足が動かないように必死で押さえつける。そんな時、演劇スタッフのひとりらしい男性が意味深な言葉を吐いた。
「ま、まるで赤い靴そのものじゃないか。これはきっとアンデルセンの呪いだ……!」
赤い靴そのもの。
どういう意味だ。
「あの、ごめん。それどういう意味」
足を押さえつけながらそう問うと、簡潔に教えてくれた。
アンデルセンの『赤い靴』というお話は、カーレンという町一番の美少女が赤い靴を買い、大変気に入ったためその靴を履いてはいけない場にさえ何度も履いていってしまったために、赤い靴を履いた足が勝手にステップを踏んでしまうようになってしまい、仕方なく両足を切り落として、少女は償いのために奉仕活動をしたあと、天使の赦しを請うて天国に召される、という救いがあるのかないのかよくわからないお話だという。
つまり、赤い靴を履いた足が勝手にステップを踏もうとするという非科学的な事態が発生している以上、これを止めるためには──。
「いやよ、いや! 両足を切り落とすなんて! あたし何もしてないわ……!」
舞台上にまで聴こえるのではないかというくらい叫び、今にも泣き出しそうな涙目になってしまうのは無理もない。両足なんて誰だって切り落としたくないもんね。
「とりあえず、足が勝手にステップを踏んでしまう場面はこれで切り抜けよう」
「いやいや今すぐ演劇中止しようよ。なんかこのままじゃまずいよ」
「な──だいたいキミ誰だよ! 部外者が舞台裏に来るなんて!」
「もう部外者じゃないでしょ。足押さえつけてんだから」
すったもんだの応対で疲れてきた。相変わらずエリーヌの足はステップを踏もうと跳ねているのだ。
「誰か……助けて……」
ついに泣き出してしまったエリーヌ。
このままでは埒が明かない。そう思ったわたしは、とりあえず手近にある垂れ幕用のカーテンタッセルをひっ掴み、彼女の足をきつく縛りつけた。これで自由にステップを踏むことはできなくなった。
「さて、どうしようか」
「あの、あの、あたし」
「心配しないで。両足なんか切り落とさなくてもいい方法を探すから」
「違うの。せめてステップを踏む場面には出させて」
「え?」わたしは驚いてしまった。てっきり早くどうにかしてほしいものだとばかり思っていたのだ。
「どうして?」と問う。
「今日のために一生懸命練習してきたの。ジャックと一緒に」
なるほど、勘づいた。それならば出させないわけにはいかないだろう。ついでにそのジャックとやらにも事情を説明しないと。
「わかった。いい、スタッフさん」
「あ、ああ、それならまだ」
「じゃあ、ジャックさんが一旦舞台裏に来るまで足は縛りつけたままで」
エリーヌは頷き、わたしと舞台裏の演劇スタッフはジャックが来てすぐに彼女の事情を話した。彼はとても動揺した様子だったが、わたしが彼女の状況を何とかしてやると説得すると、決心がついたように大きく頷いた。ステップを踏む場面は、ジャックとともにエリーヌが舞台へ出て行き数分踊り続けたあとすぐに舞台袖に戻ってくる、という手はずで動くことになった。
その間わたしはエルネスティーの元へと急ぐ。人混みを掻き分けて進み、中腹辺りに変わらず舞台上を見つめる青いクローク姿を見つけた。
「エルネスティー」
「マルール。どこ行ってたの」
「ごめんね、ちょっと大変なことが起きてて。エルネスティーにすぐ来てほしいんだ」
早口の言葉と切羽詰まった様子に、ただならない何かを感じ取ったのか、彼女の顔つきがにわかに変わった。「何があったの。簡単に教えてちょうだい」
「今、舞台上でカーレン役の女の子が踊っているでしょ」
「ええ。素晴らしいステップだわ」
「あれ、実は足が勝手にステップを踏んでいるんだ。彼女の意思で動いてるんじゃないんだよ」
「どういう意味」
途端に訝るエルネスティー。しかしこの場で詳細を語っていられる時間は無い。わたしは彼女の手を取った。
「とりあえず来て!」
ほんの少しだけ抵抗の意を感じるも、すぐにわたしの手を握り返してくれた。人混みを避けて舞台裏に向かう。
舞台裏には舞台から降りたエリーヌが、再びカーテンタッセルで足を縛られ椅子に座っていた。
ようやく到着したわたしたちの姿に気づいたエリーヌやジャックほかスタッフの面々は、ぎょっとあからさまに顔を歪ませた。
「あ、青い魔女……」
驚きと恐怖の色を滲ませるそんな言葉を誰かが発する。エルネスティーを見ると、やはり跋が悪そうな顔をしているのが窺えた。
「お前、青い魔女と知り合いだったのか。どうりでで見ない顔だと思っていた」
「お前、あの子に触ってなかったか?」
「触ってない、見間違いだ! 呪いなんて……」
さっきまで協力していた人たちが、エルネスティーを連れて来ただけでこんなにも変わってしまうだなんて。
こんなの間違ってる。
黙って俯き何も言わないエルネスティーの小さな手を、ぎゅっと強く握りしめた。深く息を吸った。
「エリーヌさんの足が勝手に動くの、たぶん病気のせいだよ。エルネスティーの模様と同じで、何かの病気のせい。そういうのはこの町でエルネスティーが一番──みんなは知らないだろうけど──だからお願い。エルネスティーに彼女を診せてあげて」
呪いなんてあるもんか。その気持ちから勇気を出して言ったが、怒気まじりの声で一蹴されてしまう。
「ふざけるな! そいつは得体の知れない病気を抱えているんだ。触ったら俺たちだって同じ病気にかかるかもしれないんだぞ。お前だってもうかかってるかもな」
「わたしはエルネスティーと一緒に暮らしてる。大怪我して、エルネスティーに介抱されて、全身ボロ雑巾で死ぬ寸前だったのをここまで治してくれた」
「そうやって誑かすのが魔女の定石だって知らないとでも思ってるのか?」
「……わたしからべたべた抱きついたりしてるけど、でもなんの症状もない。模様だって浮き出ない。ねえお願いだから……エルネスティーが苦しんでたら助けてあげたい……同じくらいエリーヌさんも助けたいんだ」
「マルール……」
「ジャックさん。エルネスティーにエリーヌさんを診せてあげて。彼女を助けたいなら」
彼に向かってそう言うと、彼は苦渋の表情をしてみせた。やっぱりこんな状況でもエルネスティーを頼りたくないのか。
そんな時、不意に奥からか細い声が聴こえてきた。
「わかったわ……」
それは椅子に座ってすっかり顔が青ざめたエリーヌさんのものだった。
「彼女みたいに模様が浮き出るだけなら、あたしの足を診てほしい……」
「エリーヌ、何言ってるんだ……。それだけじゃないかもしれないんだぞ」
「両足を切りたくないの……」
エリーヌさんの悲痛な叫びにジャックは黙った。得も知れぬ未知の病気の虜となるか、それとも一生他人の手を借りて不自由に生きなければならない身になるか。ある意味で究極の選択にも等しいのだろう。わたしなら迷わずエルネスティーと同じ病気にかかるほうを選ぶが、なかなかそういうわけにもいかないのはエルネスティーをよく知らない彼らだからだ。
ジャックはエリーヌから顔を逸らしたあと「わかった。エリーヌの気持ちを尊重する」と固く決意したように言った。
「エルネスティー。いいって」
今まで黙っていたエルネスティーが、ここでようやく重い口を開いた。
「……症状から察するにまず間違いなく難病のハンチントン病。そうなると相応の高度医療機器が必要になる。でも、そんなものこんな辺境の町には無い」
エルネスティーの言葉にこの場にいる全員が口を閉ざした。エルネスティーがどうにもできないのなら、もはや誰にも彼女を救えない。
しかし、そこで「ただ」と合いの手を打つのもまた、エルネスティーその人だった。
「私の薬品貯蔵庫に……今まで製造しておいた薬のストックがある。もちろんその病に効く薬も。継続して投与すれば必ず治るように造った薬が」
その言葉を聞いたエリーヌたちの表情がぱっと明るくなる。やはり治るものならエルネスティーにとてすがりたいのだ。
脇目も振らず喜ぶ彼らを置いて、わたしはエルネスティーにこっそり訊ねてみた。「どうしたの、エルネスティー。なんだかあんまり嬉しくなさそうだけど」
エルネスティーは答えない。じっと地を見つめているだけだ。だから、わたしは思いきって聞いてみた。
「強い薬?」彼女の瞼がかすかに動いた。「やっぱり、そうなんだね」
すると、彼女は観念したように大きく溜め息を吐いた。そのままエリーヌたちに向かって歩いていく。そんな彼女が近づいてくるのに気づき、彼らはぎくりとした様子で固まった。
エルネスティーはエリーヌの前にしっかり立つと、静かに言った。
「あなたに投与する薬は劇薬よ。適正量を投与しても身体に様々な不調をもたらす代物。つらいことも苦しいこともある。治療を止めてしまいたくなるかもしれない。でも途中で止めてしまっても、最悪死んでしまうかもしれない。薬を投与したら後には退けない。それでもあなたはそれに耐え抜く自信がある? 最後まで頑張りきれる?」
エルネスティーの言葉には色が無かった。無色透明でひたすら淡々と事実だけを伝えるそれだ。見ていて怖いと思ったが、同時にその姿は頼もしいとも感じられた。
「あたし、は」
エリーヌは突然の彼女の忠告に一瞬だけ頭をもたげた。けれども弾かれたようにすぐに顔を上げ「言ったのよ。両足を切るよりあなたと同じ病気になるほうがマシだって。だからお願い。あたしは大丈夫」と強く言った。そしてジャックを一瞥する。
どうやら二人はエルネスティーの判断に全てを委ねるようだ。周囲の人たちは驚いたような心配そうな表情で二人の様子を黙って見ている。
エルネスティーは薄く息を吐くと「ついてきて」と言う。ジャックはエリーヌをお姫様抱っこで抱え、すたすたと歩くエルネスティーの後ろについていった。わたしもそれについていくため歩き出そうとするのだが、その前に演劇スタッフの人たちに言っておくべきことがあることに気づき、立ち止まって振り返った。
「今年は残念だけど来年には最優秀賞を取れるよ。いい劇だったし、めげずにがんばってね」
そう言うとスタッフたちは一気に肩を落とし、演劇中止の準備に向けて各々動き出した。
わたしは少し駆け足で、先を歩く三人の後を追った。
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「こんなところに住んでいたのか」
「まるで穴ぐらみたい」
エルネスティーの住居である武器貯蔵庫兼保養所である地下に着き、とりあえずエリーヌを安静にさせるためベッドのある部屋まで向かう。その途中ジャックとエリーヌがそんなことを言うものだから、ついからかいたくなった。
「あんまり失礼なこと言わないほうがいいよ。エルネスティーはそういうの容赦しないから。ね、エルネスティー」
「あなたじゃないんだからそんなことしないわ」
呆れるエルネスティーに、嬉しいこと言われちゃったな、と照れるとジャックとエリーヌからすごく冷たい視線を感じた。思わずそちらに振り向いてみるが視線を逸らされる。エルネスティーに至ってはもはやその背中から絶対零度の冷気を放っているかのような雰囲気さえまとっているではないか。
思いの外わたしに対する風当たりは強いらしい。
「ここよ。とりあえず足はそのまま縛っておいて」
薄暗い通路を歩いてそうこうしているうちに、わたしたちは適当なベッドがある部屋に着き、ジャックはエリーヌをそのベッドに下ろした。
「これからどうするんだ。おかしな真似をしたら容赦しない」
ジャックはエリーヌの前に立ちふさがり、そう言う。彼らにとって言うなればここは伏魔殿とも呼ぶべき場所なのだ。警戒してしまうのも無理はないが、エルネスティーがおかしな真似をするはずがないのは──わたし以外にはそうなのだろう。
「おかしな真似だらけよ。治療を受けたいなら少しは冷静になって」
「そうそう落ち着いて。エルネスティー、準備するものがあるなら手伝うよ」
そんな彼女を支援してあげようと思い提案すると、エルネスティーは「じゃあ、いつもの実験室からガートルを持ってきて」と言われた。
「ガートルね。わかった」
そうして返事をし、わたしはいつも手伝いをする実験室へと向かう。
暗い実験室へと足を踏み入れると、なんとなく気味が悪くて足が竦む。けれど、ガートルを持ってきてと頼まれた身で暗いのが怖くて取って来られないというのもばかばかしい。
「えっと、ガートル、ガートル……」
実験室の奥のほうの物置き場で、手探りで目的のものを探していると、不意に指先に冷たい感触の棒が当たる。掴んで引き寄せてみると、目的のガートルだ。しばらく使われていないためかところどころ錆び付いたざらざら感が手に伝わる。
たぶん一本でいいはずと思い、わたしが踵を返した時、ふと後ろに何かの気配を感じた。
なんだと思っておそるおそる振り返ると、暗闇の中にぎらぎらと輝く「でっかくてまんまるい妙にリアルな一つ目」が、浮かんで──ぱちくりと大きく一度まばたき。
「はっ」ぶわっ、と全身から嫌な冷たい汗が浮かんだ感覚がした。「いっ」
瞬間、わたしはガートルを抱えて一目散に全力疾走した。
「いやあああああああああああ!」
声帯をめいっぱい震わせながら実験室を出、細い通路を全身全霊で駆けるわたし。そんな時、前方にちょうどよくエルネスティーが歩いている姿が見えた。
「エルネスティーいいいい!」
「わっ。なに」
ガートルを放り投げてエルネスティーに飛びつく。「いきなり抱きつかないで。何があったの」
こんなわたしの状態でも冷静に話を聞き出す彼女に、喉がつっぱり鼻をすすりながらの声で言った。
「サイクロプス……っ」
「え?」
「ちっちゃいサイクロプスがいた……っ」
「はあ?」
エルネスティーの黒い模様の目頭部分の締まったほうがこれでもかと吊り上がり、最大限の苛立ちを表していた。それでもわたしはあまりの恐怖にそんなことどうでもよく、彼女の体にがっしりとしがみついて、流れてきた涙と鼻水をローブの端で拭う。
柄にもなく大号泣する姿に苛立ちも不相応かと感じたのか、何度か頭を撫でて言った。
「何があったのか知らないけど、とりあえず戻るわ。話は後でちゃんと聞くから。ほら立って」
「えうう……」ずびずびと鼻をすすりながら立ち上がると、放り投げたガートルを手に取る。その一瞬、通路の向こうにさっと隠れるように動いた小さな影が視界の端に映った。「エルネスティいい……」
また泣き出しそうになってしまうが、彼女は先に行ってしまっていた。一人になるのが嫌でわたしもすぐに三人の待つ部屋へと急いだ。
部屋に戻ると、また激しいステップを踏もうとする足を押さえつけているジャックと、半べそをかきながら横たわるエリーヌの姿、それに、鎮静剤を注射器に入れているエルネスティーの姿があった。
「マルール。ガートルにこの袋をぶら下げて、チューブを取り付けて」
「わかった」
渡された袋をガートルにぶら下げ、言われた通りにチューブを取り付ける。その間、鎮静剤を打ってエリーヌの気を落ち着かせるエルネスティー。エルネスティーが触っても二人はなんの抵抗感も示すことはなかった。
しばらくすると鎮静剤が効いてきたのかエリーヌはだんだんその力をゆるめ、ついにはぐっすりと深い眠りに入った。足の動きも止む。
ハンチントン病は寝ている間には症状が現れないため、エリーヌがその病であることはほぼ確実──エルネスティーがそう言ってくれたことで、小さめの溜め息で安堵した。
ジャックはエルネスティーに鎮静剤を投与されたことがそれでも気がかりらしく、しきりにエリーヌとエルネスティーを交互に見定めた。しかし、エリーヌが安らかな寝息を立てているのに気づくと、すっかり強ばっていた肩の力をゆるやかに抜いていった。そんなジャックがエルネスティーに向き直る。
「すまない。いろいろと」
言われた彼女の瞳は、それでも少しもぶれなかった。
「まだ鎮静剤を打っただけよ。治ったわけではないわ。むしろこれからが彼女にとってよりつらい道のりになると心得ておくべきね」
「ああ」
ジャックはエリーヌの傍らに腰かけた。頬を手の甲で撫で、とても愛おしそうに。撫でながら、わたしたちに言う。
「俺、今まで魔女は近づいても触ってもいけないもんだと思っていたけど、違うんだな。ここまでしてもらえると思わなかった。エリーヌの顔にも模様が浮き出ないし」
ぽつぽつと言うジャックにエルネスティーは少し強い言葉で返した。
「町の人が青い魔女と呼んで避けるのは仕方のない話だわ。でもこれだけは覚えておいて。私はこの病気の詳細や治し方全てを知っているわけじゃない。だから、あなたたちに病気が移るかどうかは正直なところわからない。もしかすると潜伏期間があるのかもしれない」
彼女は続ける。
「将来的に私のようになってしまう可能性は捨てきれない。触ると病気が移って、私のようになるかもしれない。もしかすると症状が悪化するのかもしれない。もう遅いか、今ならまだ間に合うか。私のようになる可能性が捨てきれないけれど、それでも私と一緒に彼女の病気を治療する気が、本当にあるのかしら」
ジャックは頬を撫でていた手をすっと離した。そうしてゆっくりと立ち上がり、エルネスティーの目の前に立った。
「よくわからないんだ。青い魔女のことなんて」
でも、と続ける。
「エリーヌがそれを選ぶなら、俺が決めないなんてあり得ない。俺はエリーヌと一生を共にすると誓ったんだ」
そう言うと、ジャックはエルネスティーの右手に自身の右手を伸ばし、彼女のその手をがっしりと握手するように強く握りしめた。自然と友情を誓い合うような固い握手をしている光景になる。
エルネスティーの表情は驚いていた。まさかジャックから握手を求めるなど誰が予想できただろうか。わたしもエルネスティーも、固まってしまっていた。
「なんだよその顔。男に二言はない」
そして、ジャックはするりと手を離すと自身のその手のひらをじっと見つめた。
「不思議なもんだな。冷たいかと思ったら意外と温かいし、鉄仮面かと思ったらそうでもない。病気はまだわからないが」
「失礼な。エルネスティーを化け物みたいに考えないでよ」
「いいのよマルール。それが普通の感覚だから。あなたみたいなのが珍しいわ」
「あ、褒めてる?」
「褒めてるように聞こえるのかしら。その耳」
「またまたあ、照れ隠ししちゃって」
普段のわたしたちのやり取りが不意に展開されたことに、ジャックが笑い出す。どうやら想像していた人物像とあまりにもかけ離れた様子を見せられて、そのギャップに自分の認識の壮大な過ちを認めたらしい。一頻り笑ったあと、わたしにも手を伸ばす。
「ありがとな。お前……マルールがいなきゃ、きっと今頃笑うことなんてできなかった」
「名前覚えてくれたんだ。どういたしまして、ジャック。ちなみにエルネスティーの名前はエルネスティーだよ」
「ああ」
わたしはにこにこしながら、伸ばされた手を握り返した。
「そろそろいい頃合いかしら」
エルネスティーが呟き、点滴針を取り出して寝ころんだエリーヌの側に来る。血管に針をぷすりと刺し、患部をガーゼで覆いテープで固定すると、点滴袋に繋がれたチューブを取り付けた。袋とチューブの境目にあるクレンメを回し、薬液がぽとんと落ち始めた。
すると、エルネスティーがジャックに向き直った。
「しばらくはここに通うことになる。週に数回点滴を打って、それを一年間ほど」
「大丈夫だ。みんなで頑張るさ。それより、少しエリーヌと二人きりにさせてくれないか。色々あって落ち着きたいんだ……」
ジャックはそう言い、再びベッドに腰かけた。その声は本当に疲れきっていて、わたしたちは一旦ジャックたちから身を引くことにした。
部屋の外に出て、ちらりとエルネスティーを見、話しかけた。
「ジャック、すごく疲れてるみたいだったね」
「当然ね。難しい事態が一度に降りかかったんだもの」
エルネスティーの声にも、ほんの少しだけ疲れの色が窺えた。
「わたしたちも休もうか。点滴が終わるまで暇なんでしょ。ジャックにお菓子と飲み物持っていったら、一緒に休もう」
「ええ」
一旦キッチンに戻って紅茶を淹れ、それとクッキーを手にジャックの元へ向かう。うつらうつらしていたジャックにとりあえず渡して戻ると、わたしたちは少しの会話を重ねた。
「嬉しい?」
「何が」
「理解してくれた町の人が増えて」
「どうかしら」
「もう素直じゃないなあ。ねえ、明日ちゃんと町の中を見て回ろうね」
「……そうね」
ゆったりとしたエルネスティーの返事でわたしは満足して、彼女が淹れた紅茶を飲んだ。
それがいつもよりちょっぴり甘い気がして、わたしは自然と笑みがこぼれたのだった。




