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天?地?幸?(人生の記憶)

作者: 北山瑛次

昭和45年10月秋、九州の田舎に生まれた男の子。隣に池がある、借家住まいで、休日は、いつも、父親が釣竿を出して釣りをしてた。

仕事も、安定し、新築の家を建てる機会に、祖母と一緒に住む事になった。

その訳は、祖父の不倫による祖父母の別居である。祖父母は、九州の火の国生まれで、祖父は、亭主関白と言うか、昔で言う九州男児である。炭鉱マンでもあり、女愚せが悪かった、祖母は、離婚はしたく無いらしく、祖父に見せしめなのか、新築の家に本家の仏壇を持って来た。

何と、新築の家の仏間が低い為に、仏壇を切って、仏間に置いた。

結局、籍がそのままで、別居していた。

ある日、祖母は、心臓病を患い、54歳で亡くなった。

私の父親は祖母が亡くなる前から、女性の事は、知っていて、反対していたが、亡くなってから、女性と籍を入れた。

女性には、娘が居て、戸籍上、私の父親の妹になった。

祖父は、新しい奥さんの娘を可愛がり、実の息子の、私の父親と孫の私たちは、可愛がってもらえなかった。

父親に、祖父の過去の話しを聞いてみると、祖父は、今で言う町議会員の息子で、女性遊びが酷く、私の父親が幼い頃は、家に女性が来て居て、身体の関係を見たと、言っていた。

お金を使い果たしていたらしい。

私は、幼い頃、小児喘息になり母親が、良い病院があると聞くと、県外の病院まで、連れて行ってくれた。

健康な身体を作る為に、剣道、水泳を習っていたが、長く続かなかった。剣道は、あまり覚えていないが、水泳は、スパルタで、深いプールに、コーチから投げられて、溺れそうになり、嫌になった記憶が残っている。

小学生になり、よく熱が出て学校を休みがちになり、夏休みに、

扁桃腺を取る手術をした。

その後は、あまり熱を出さなくなった。

ある日、関節炎が続き、検査をすると、リューマチと言われた記憶が片隅の記憶として、残っていて、体育の授業をよく休んでいた。

幼い頃から、機械とか触るのが好きで、壊れた時計、扇風機、ラジオ等をバラして組み立てるのが、おもちゃだった。

小学二年生の時、お楽しみ会で、私は、ギターを披露した。

確か、「禁じられた遊び」だったと思う。

ギターは、父親が、弾いていて覚えた。

父親は、幼い頃にバイオリンとか、ピアノを習っていたと言っていて、即興ででピアノ、ギターを弾いていた。

田舎だから、遊び場が少なく、子供同士で、釣りばかりしていた。

父親は、釣ってきた、魚を捌いて、酒のつまみにしていた。

ある日、牛蛙が釣れた。父親が、牛蛙も捌いて、焼いて食べて居たり、またある時は、レンガを3個組み合わせて、ワナを作り、雀を捕まえて食べて居たのを思い出す。

小学生の高学年になり、祖父が、我が家まで60kmのを自転車で遊びに来たので、私も、自転車で、祖父宅まで、自転車で行った。行く時は、祖父と二人だったが、帰りは、一人で、辛かった記憶が、残っている。

中学生になり、部活は、ソフトテニスに入部したが、昔は、一年生は、玉拾いばかりで、嫌気していた。

雨上がりのある日、友達と話が夢中で、コート整理されたコート内に、足を踏み入れ、足型が、残ってしまった、そこへ、タイミング悪く、顧問が、現れて、急に頬に往復ビンタがきた。

私も、唖然として、次の日から行かなくなり、退部した。

高校受験の為か、家庭教師が来るようになった、家庭教師は、今で言う普通二輪車で来て居て、バンドをしていた。

私も、勉強が、大事だが、影響されて、バンドを初め、高校生なったら、二輪車の免許を取得すると思っていた。

バンドをする様になり、合唱部や、吹奏楽部から、入部しないかとよく言われていたが、機械を触るのが好きでもあるからか、放送部に入った。

家庭訪問とかで、家に私が作っていた、訪問時のベルとかを担任が見て、「手が器用だね」って言われていた。

高校は、家から30km離れた、公立の工業高校の機械科に合格。毎日、6時に起きて、自転車、バス、電車で、通学した。

高校生になり、二輪車の免許を取得した。

バンドに明け暮れる毎日だった。

成績は、学年で、中の上ぐらいだったと思う。

遅刻しそうな時は、知れって、学ランの上に繋ぎ服を着て、学校の近くまで、二輪車で通学していた。

高校生活は、男子高校だからなのか、朝早く家を出る生徒が多い為に、学校に着くなり、早弁風景をよく見かけたり、授業中に、弁当食べたり、暑い日には、バケツの水を張り足を冷やしなが授業を受けていた。

午前中の授業が終わり、学校を抜け出して午後からの授業をサボったりもした。

昔は、他の高校同士で、喧嘩が日常茶飯事だった。

担任は、私が、二輪車を乗って居る事を知っていた。

何故なら、学校を休んで、病院に受診してい時に、繋ぎ服とヘルメットを持ってた、格好を、たまたま、見舞いの為に、病院に来て居た、担任にバッタリ会ってしまったからである。

後日、家に、担任がいきなり来て、不登校の生徒を連れて来て欲しいと頼みに来た。

その時の帰り際に、学校では、たまに、羽目を外すが、真面目な方だったからか、二輪車を乗って居るのは、見なかった事にすると言われた。

今考えると、凄い担任だったんだなと。

私は、悪い友達もいたが、中立の立場だった。

暴走族の同級生が、学校をサボっていた時は、担任から頼まれて、たまに、迎えに、行ってた。

高校三年になり、就職か、進学か、悩んでいた。

何故なら、私には、三歳上の姉が居るが、私立の外国語の短大生であり、学費にお金がかかり、両親が苦労しているので、最終的に就職する事にした。

公務員が良いと思い、消防と警察、自衛隊を受けた。民間では、日立製作所に、合格していたが、茨城県と言われたので、悩み、結局、機械を触るのが、好きだから、航空機の整備がしたくて、航空自衛隊に入隊した。

入隊時は、服装は、支給される為に私服は持って行けなかった。教育隊は、山口県の防府にあり、3ヶ月、地獄の日々が、続いた。

昔の教育隊は、休日でも、制服で外出だった。町を歩いていたら、税金泥棒と民間人から言われた事も多々ありました。

教育隊では、基礎教育(教練、武道、体力強化し体力試験、学力試験)30kgの荷物を持ち長距離を歩いた。教育隊が嫌になり、抜け出す隊員も居た(隊内では、抜け出す事を脱柵と言う)

教育隊卒業後は、成績で、職種を振り分けらた、その専門の術科学校に入校し、専門の勉強に励む事になる。

私は、第1希望の、航空機整備員の職種に決まり、

静岡の学校に入校した。

航空機整備員は、(レシプロ、ジェット機)に別けられる。

なんの因果か、術科学校卒業後に、就職活動中嫌がっていた。茨城県に、配属が決まりました。

茨城県の航空自衛隊は、首都圏に近い戦闘部隊である。

昔のソ連時代に亡命して来た時の記念碑が置いてあった。

その時の裏話を上司から聞いたら事もある。

身長も高かったので、たまに、儀仗隊のメンバーに選ばれ、式典等で行った事もありました。

災害の時は、派遣要員て出動した時もある。

民間人では、経験出来ない事を経験した。

たくさん書きたいが、防秘など.ある為に墓場まで、持って行く。

定年まで、国に貢献したい気持ちはあったが、自衛官になる為の試験がいろんなコースがある。私は、任期があるコースで、入隊した為に、苦労したが、最終的に肩を叩かれた諦めた。この制度がある為に、中堅で仕事ができても、昇任出来なくて、若い隊員が退職してしまう。仕事を覚えた若い隊員が退職する為に、曹の階級の隊員たちに負担がかかっているのが、現実である。

最近では、定年の年齢を上げる話があるが、年配の隊員が居てもきついと思う、定年を上げるぐらいなら、災害も増え体力がある若い隊員の退職を減らした方が良いと思う。

私が、24歳の頃、父親が、過労で亡くなった。

その当時の事を、母親に話しを聞いたところ、父親が、仕事中に足が動かなくなり、母親に電話をしたらしい。

会社に母親が着いても、大企業で、世間体を気にするのか、会社側は、救急車を呼ばなかったらしい。今では、考えられない。

母親が何度も頭を下げやっと、救急車を呼んで貰ったが、すでに遅し、意識不明になったと言う。数日して意識が、戻ったが、失明、言語障害、左側半身不随になった。本人は、意識があるため、言いたい事や、身体が、動かせないので、ストレスで、胃潰瘍になり、吐血していた。母親が、看病に疲れていた。母親から連絡来たので、急遽、年末近くて、早めに休みを取り、茨城県から駆け付けた。交代して看病した、その日は、親戚も集まり、母親を休ませる為に帰宅させ、親戚と私と看病していると、呼吸が、浅くなるのに気付き、看護師を呼んだ。先生を呼びますとの事だった。すぐに母親に電話して来てもらう矢先、私と親戚の前で、呼吸が止まっていった。今、考えると、親戚と息子に会うまで、頑張ってたと思う。

父親が、亡くなってから、転職をよく考えていた。

私は、27歳で結婚して子供を授かりましたが、妻は気性が荒く、間違っていても、謝った事がなく自分の意見を押し通す性格で、気性が荒く、毎日喧嘩していた。

ある日、買って間もない、25万のパソコンをいきなり投げた。

結婚後、聞いた話しによれば、妻が子供の頃に同級生を階級から突き落としたと言っていた。あり得ないと思った。

自衛隊を退職後は、ビル管理の仕事で、都内の麹町まで、自宅から会社まで2時間の通勤だった。3日に一度の夜勤があるが、

一人勤務で、設備の警報がなった時に、出動して対処する仕事内容だった。

近くに、旧日本テレビ局があり、たまに、芸能人を見かけたりした。

会社の方針で、月一回、靖国神社の清掃を早朝から、社員で行っていた。

仕事では、配電盤を作ったりもしていて、秋葉原の電気街に部品をよく買いに行ってた。

会社からは、後から、支払い分が貰えるが、いつも、自腹で購入が多く、部長の思いつきで、買わされていた、次の日には、違う事言ったりした為に振り回される毎日が続いた。

会社側も、外国で失敗し経営が厳しくなり、社員のボーナス、手当て等がカットされた。物価が高い都内である為に

苦しくなり、貯金を食い潰していた。

私は、限界を感じ、仕事を探した。

仕事も、決まり、ある朝、部長が、また、訳が解らない事で、いきなり怒鳴っていたので、私は、遂に、周りの社員の人たちの分の不満や、今までの場違いな事については、部長に話しをし、皆の代表で退職する事にした。最後の勤務で、夜勤では、周りの社員が経験した事がない、事故が起きて、徹夜になった、

内容は、麹町のコンビニ内で、ガス爆発があり、周辺の建物が一時的に停電になってしまった。

パソコンで、設備監視している為になる非常用発電機に切り替えて監視したのを思い出す。

新職場は、九州の地元にある。Uターンで、地元に戻ったが、また、波乱の幕開けになった。

妻は子供に、虐待していたうえに、私をフライパンで叩いたり、アイロン飛んできたり、私に暴力していた。私の方が強いから、我慢していたが、何回か、暴れる妻を抑えつけた。私たち夫婦は、公団住宅に住んでいて、子供会の副会長をしてた。日曜日に、子供会で、バーベキューを開催する 。

私は、仕事の為に、事前に、不参加と連絡していた。少し残業して仕事が終わり、もう片付けもだろうし、私の晩御飯を買って帰ると、まだ、バーベキューの片付けをしていた。家に帰り、自分の晩御飯を作っていたら。いきなり頭の上から冷たい液体が、流れてきた。

なんと、妻が、「お前~、遅く帰って来てから早く手伝え」と叫び、焼酎を頭から滝のように浴びた。訳が、解らなかった。

弁護士を頼み、離婚を進めるため、子供を置いて逃げる様に別居した。

それでまた、妻がエスカレートしたので、安い給料から17万仕送した。今考えたらおかしな事したと思う。

結局、弁護士も、妻に丸め込まされ、1年別居していたが、子供も居るので、一度戻ったが、別居して離婚の予定だったから、通勤で必要な為に車を買って居たが、戻ったら、要らんと、また、喧嘩が始まった。弁護士は、女性保護の世の中だからか、証拠がないとダメと、言ったから、1年半我慢して、子供と私に対する虐待の証拠を集めた。

ある日、弁護士と、児童相談所の人たちと、話し合い、仕事終わって、荷物を置いて子供と逃げる計画をたてた。事前に、妻には内緒で、学校の転校手続きを終わらせていた。妻の父親は子供の為に、私の方が良いと、家を出る時に手伝ってくれた。

決行当日、仕事終わって、子供を妻の父親が、学校に迎えに、行って連れて来た。子供の帰りが遅いと、妻が学校に行き、学校側との押し問答が始まる。学校側は、転校手続きが終わって要るために、関わりたくない。何度も妻が子供を学校に戻す様に頼んでいた、私も学校に呼ばれ、学校側に迷惑かけてすみませんと頭を下げ、帰宅し夜中まで、妻と話しをした。話しが纏まらなく、夜遅いので、その日は、妻の実家に、子供を預けるとした。

今度は、妻が実家の母親に、頼んで、子供たちを私に渡さない様に仕向けた。

仕方ないから、後日、買い物に、出るのを待ち伏せして待っていた。

タイミングよく、子供たちを連れて妻の母親が出て来た時に、子供を連れて戻した。

1年半かけ、調停の為に月一回裁判所に通った。

その間、当時、上の息子は5年生、下の息子は、保育園生。

転校後は、小学校側に、妻の写真と車の車種ナンバーを教えてた。毎日、先生たちは学校の門に立ち、子供たちを見守っていた。

しかし、また、波乱が?

フリーの授業参観日に、学校に妻が現れてた。

学校のホームページの行事予定よりフリー参観日をチェックし、

下駄箱に貼ってある名前をたよりに来たらし、参観当日は、フリーなので、先生たちも校門には居なく、誰でも自由に出入りできた。私は仕事の為に、見に行けないので、姉に参観を頼んでいた。授業が始まり、普段の授業風景の様子だったが、妻が現れて授業が一転した、上の息子は、教室の中央の机に座っていた。妻は、いきなり中央まで歩いて行き、息子に、「あら、久しぶり」と声をかけた、息子は、怖くて、泣き出し、腰が抜けたらしい。息子は、先生に、車まで、抱っこされ、姉と早退した。それを見た、妻は、「久しぶりに会って嬉し泣きして」と言ったらしい。授業も中断になり、数人の先生と妻、姉と押し問答。

私は、そんな事があってるのは、知らず仕事をしていた。校長から、電話があり、妻は校長室で、また、クレーマーみたいに、言いたい事を言ってたと言われ、仕事帰りに学校に来て欲しいとの内容であった。当事者でないので不思議に思った。

学校に着くと、校長が出迎えてくれ、応接室に通された。

学校は、子供たちの保護をする立場なのですが、何故か、世間体を、気にしているのか、校長「保護者からのクレームや、今回の件をどう思いますか?」と言われた。

最終的に、転校したばかりだが、転校を進められた。

私は、現場に居なかったし、事前に写真と車の車種ナンバーを学校側に教えていた事を話し、校長と口論になる。

翌日、教育委員会に通報した。後日、校長より謝罪の電話がある。私を呼び出して学校に出向いたのに、謝罪は、電話だけ?「ふざけるな!」と思う。

後日、裁判所の面接室で子供と妻を会わせる事になった。

妻が子供と会いたがっていると、裁判所から言われ、断っていたが、会わせなさいと、圧力みたいに、上から目線で言ってきた。

仕方なく、責任取れますか?どうなっても、知らないと私は裁判所の担当に言った。世の中が、女性保護の考えだから、裁判所も、私の言葉を信じなかった。

当日、裁判所に行くと部屋に通された。

部屋では、妻が来る前まで、私と遊んだ。妻と子供が会う事になり、私は、部屋を出て隣の部屋に通された、なんと、刑事ドラマで言う。二部屋に別れていた。

マジックミラーから弁護士と裁判所の担当者、私と妻と子供の様子を見ていた。30分ほど時間を設けていたが、妻が入室するなり、子供たちが、気が狂ったほど暴れ、すぐ中断になった。

裁判所の担当者に、私は、「だから、初めから言ってたでしょう、子供たちに影響あったら、どうしますか?」と言った。

こんな事があり、二日間ぐらい子供たちは、落ち着きが、なかった。こんな事しないと裁判所は、信じてくれないのかと悔やんだ。しかし、この件から裁判所は、私の方が正しいと考え方が変わり、無事に、1年半の調停で、離婚が、成立しました。


こんな事があってか、上が6年生、下が1年になっても、先生方に皆に二人の息子が覚えられて、イジメもなく無事卒業した。

上の息子は、公立中高一貫の進学。幼い頃から、サッカー、ドッチボール、空手をさせ、二人の息子を鍛えていたのでスポーツは万能だった。


たくさんの記憶の一部でる。


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