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月並綺譚

水無魚の飛沫、青藍の海

作者: 秋澤 えで

 黄昏時、帰路に就く私を呼び止める声がした。



 「娘、髪を一つに留めた娘、少し手を貸せ。」



 特徴まで挙げられてしまえばもはや無視をすることもできず、仕方がなく足を止めた。しかしあたりを見渡せど、橙に染め挙げられた田んぼと山、雨に湿った畦道しかない。



 「どこを見ている、こちらだ娘。」



 居丈高な声の主は見当たらない。しかし空耳にしてははっきりしすぎている。声は男。されど姿は見られない。

 いやだいやだと思いながら、田んぼへとつながる水路へ目を向けた。



 「ようやく気が付いたか小娘。」

 「……魚。」



 ほとんど水のない湿っているだけの水路に、魚がいた。うごめきながら魚は喋る。



 「手を貸してくれ、小娘。泳げなくなってしまって困っているのだ。」

 「……はあ、」



 黄昏時、狸貉お類が化かしにかかると話に聞いたことはあるが、よもや魚に助けを求められることがあろうとは。



 「私が優雅に泳いでいるとき前から車が来たのだ。あ奴めどこぞで酒でも喰らってきたか、私がいるにも関わらず進路を変えず、そのまま突っ込んできたのだ。そのせいで私はこのような狭く汚い陸に落とされてしまった。車に至っては私にぶつかった勢いでどこぞへと飛んで行ってしまった。次に見かけたら容赦せん。」



 ぶつぶつと一通り話をすると鯉ほどの大きさの魚は私を見上げて言った。



 「娘、近くの川まで私を運べ。」




**********




 日が沈み、空が藍色に変わっていく中、私は魚を抱え水路をたどりながら川へと向かっていた。

 曰く、由緒正しきモノだと魚は言う。

 しかしその由緒などその姿からは想像もつかない。

 華々しい色使いや模様もなく、すべて同じ青磁色で面白みがない。よくよく見ればナマズのようなひげが生えているが、魚にあるはずの胸鰭もついていない。

 干上がった陸に落ち、泳げずに困っていると言ったが、水があっとてひれがなければ泳ぐことはかなわないだろう。もしかしたらこれは魚の類ではなく、蛇の類なのかもしれない。



 「ええい、もっと早く歩かんか。これだから二足歩行のモノは……、」

 「はあ、二足歩行だから私はあなたを抱えられているんですよ。」



 薄気味悪く大きな魚を上着で包みながら夜道を歩く私の異様さときたら、うっかり知人に出くわそうものなら頭の心配をされてしまうだろう。


 夏の暑さ残る秋といえ、日が落ちればそれなりに冷える。

 それなのに上着を魚にやってしまって私は今いったい何をしているのだろう。ただ家に帰ろうとしていただけなのに。たとえこの魚を川にやったとして、魚をくるんだ生臭い上着を着て帰る気にはとてもなれない。

 しかしながら放置するわけにもいかなかった。話すという時点で私はその願いを無視するわけにはいかなかった。人ではないし、きっと魚でもない。簡潔に言って、少しわくわくしていたのだ。不思議な生き物を拾うなんてまるでおとぎの国のようではないか。もっとも導くのが懐中時計をもった兎でなく高慢な口調で命令する魚類であることには不満が残るが。



 「お急ぎですか?」

 「ああ、先日知人が嫁を貰ってな。輿入れを見に行くことはかなわなかったが、明日の朝奴の家で嫁の顔を見るはずだったんだ。それがこのように足止めされ……、」

 「大変ですねえ。」



 ずいぶんと人間臭い、と話を聞く。知人、というのもきっと何かよくわかないモノなのだろう。この魚のような生き物か、はたまた狐や狸の類か。もらった嫁というのもまったくどういうモノか。

 草むらの中から鈴虫がけたたましく鳴く。鳴き始めは秋を感じるが、慣れてしまえばただただうるさいだけのもので風情も何もあったものではない。


 たどっていた水路が川へと変わっていく。

 幅は広くなり、水嵩は増え、サァサァと心地よい音を立てた。



 「この辺りで?」

 「いいや、もっと深いところが良い。これではまるで泳げない。」



 さらに歩く。風に吹かれて草むらが音を立てた。

 石の橋が架かった川は水面が風に揺られ、どこからか拾ってきた光を反射させた。



 「この辺りで?」

 「いいや、もっと深いところが良い。これではまるで泳げない。」



 魚のような蛇のようなモノは言う。

 私は言われるがままに水源へとたどっていった。



 しばらく歩く、ふとここを歩いたことがあることに気が付いた。子供のころ、山に入って遊んだとき、たまたま一人でいるときに見つけたのだ。小さな山に似つかわしくない、大きな滝。池のような溜りを作り、それから人里へ流れる川を作り出す。一度だけ来たことがあって、それから二度と来られることはなかった。誰に話しても、子供の言うことと笑われ、信じられることはなく、だれもこの滝のことは知らなかった。



 「……この辺りで?」

 「ああ、十分だ。ここなら私も泳げよう。」



 空に浮かぶ細い三日月が水面に映っては飛沫にかき乱され、光の粒になって弾けていった。星や月が、水面に、滝に映っては白や黄色の粒になっては弾けて消えていく。

 夢見心地でいた私の腕から、するりと魚が落ちていく。

 ぼちゃん、と川へ落ちていったはずの魚はいない。深く深く潜ったそれは、大きく水面を揺らし、私の足を濡らした。



 「名前を聞いておこう、娘。」



 輝く水面を打ち壊し出てきたのは、同じ声をした青磁色の龍だった。先ほどの魚とは比べ物にならな大きさの龍は、けれど間違いなく先ほどの魚であった。



 「……木葉、あおい、です。」



 何も考えることができず、ただ口から言葉がこぼれる。



 「そうか。あおい、あおい、礼を言おう。貴様のおかげで朝方には間に合うだろう。」



 細身の龍は朗々と言う。なるほど、この姿ならば由緒あるというのも納得できた。



 「あなたの、名前は。」

 「塑泳そえい、という。滝を上り龍となったが、朧車の奴のせいで中途半端な魚の姿に戻ってしまっていたな。感謝する、二足歩行のあおい。」



 褒美をやろう、何か器を出せ。そうは言われたものの器になりそうなものがなく、慌てて鞄から空の水筒を出すと、貧相な、と鼻で笑われた。

 言われるがままに水筒にふたを開けると、塑泳は大きく尻尾で水面を打ち付けた。当然、水面は一気に打ち壊され川の水という水が宙に投げ出されていった。目の前は砕け散った飛沫とその一つ一つに空を閉じ込めような光に包まれた。

 我に返れば私は全身びしょぬれで、塑泳は機嫌よく呵呵と笑った。



 「褒美はその筒の中に入った星だ。帰って他の器に移し替えると良い。」



 一通り笑い終わると、塑泳は再び深く潜り水面を壊して三日月浮かぶ青藍の空へと泳いでいった。龍が空を行く姿は、飛ぶのではなく、泳いでいくものなのだと、私は呆然と空へ消える飛沫を見送った。



 夢や何かのようだったが、夢ではないと教えるように、私の服は冷たく重い。

 困っている魚、いや龍を助けてその礼として全身をびしょ濡れにされるとは、果たして塑泳に礼をする気はあったのだろうか。


 家に帰って私は水筒から手近な瓶に中身を入れ替えた。何かに使えると取っておいたいちごジャムの瓶が役に立つ日が来たのだ。


 瓶の中に納まったのは夜の空だった。間違いなく、水筒に入ったのは川の水であったはずなのに、瓶の中に溜まるのは青藍の水と白く輝く星だった。。瓶のふたを閉めて眺めれば今日の夜を流し込んだような一つの空が出来上がった。美しい夜の空は、私の手の中に収まった。

 深い深い青藍と白や黄色に光る星。きっと瓶の中に三日月がないのは空に月が一つしかないからだろう。




 朝起きても、机の上に彼からもらった夜はあった。

 けれどもう一度山へ行っても、水路を辿っていってもあの滝を見つけることはなかったし、塑泳と会うこともなかった。


 きっとそういうものなのだろう。

 不思議なことが起きて冒険が始まるのは十代の少年少女の特権だ。とうにその年を過ぎた私は、手の中に収まるあの日の夜に思いを馳せる。


 きっと私はそれでいい。

 泳げない魚を助けた黄昏、願わくばいつかもう一度あの不思議な生き物に出会えますように。

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