02「行きはよいよい帰りは恐い」
「や、ですの」
「は?」
「や、ですのっ」
「えーと」
「だーかーらーっ。お察しの悪いかたですねぇ。私は、自分から頭を下げて戻るなんてのは絶対にごめんですといっているのですっ!」
「そんな」
「そんなじゃありませんのっ。清閑寺さんが謝罪に来るまで断じて私はここを一歩たりとて動いたりしませんのっ」
綾乃は「きいいっ」と甲高く叫びながら、その長い脚で地面をだんどん踏み鳴らし出す。
(意味が分からん女だ。いったいぜんたい、今の状況を正しく認識できてなのだろうか)
「あのな。そんなこといってる場合じゃないだろう? 俺たちはこのダンジョンでもっとも虚弱な生き物なんだ。男子は全滅したけど、少なくとも女子たちのなかにも、数名は攻撃スキルが使えるやつがいるし。
だいたい、群れからはぐれれば死ぬ可能性は高まることはあっても軽減することはないんだぞ。意地張ってないで、綾小路も清閑寺に潔く詫びれば、あいつだって鬼じゃない。許してくれ――」
「ふふん。見くびらないでちょうだいな。私は綾小路綾乃。華族の流れを受け継ぐ綾小路家の娘でしてよっ。近頃は少々羽振りがいいとはいえ、鉄の塊ごときの商売で成り上がった清閑寺ごとき格下に死んでも頭は下げられませんわっ。ま、かの者が泣いて詫びて戻ってきてくださいませと地面に頭を擦りつけて嘆願するのならば、戻ってあげてもよくってよ?」
(あー。なんつーか、こりゃダメだわ)
英二はポカンと口を開き、見下ろすような綾乃の輝く瞳を見つめながらアルプスの山々よりも険しくそそり立った気位の高さに、ある意味尊敬すら覚えそうになっていた。
「それにしても、えーと、なんとおっしゃいまして? あなたっ」
「影村英二だよ……おまえの記憶メモリ飛んでるんか」
「ふ、ふんっ。端役の名前など私の記憶には残らないようにできていますのっ。それでですね、英二さん。さっきから背後のほうでふうふうと耳障りな音がうるさいのでなんとかしていただけないかしら?」
「綾小路。おまえ、わかってて現実逃避してるだろう」
「……いったい、なんのことやらですわ」
「ちょっと、ちょこっとでいいから振り向いてみ。な?」
「……ん。これは、現実なのでしょうか。私、甚だ認めたくありませんわ」
「ところで、さっき男子たちが全滅したのって、地竜を釣って穴ぼこに誘導する作戦に失敗したからだったよな」
「失敗ではありませんわ。地竜はちゃんと穴のなかへと落ちたのを確認しましたし」
「その地竜さんがおまえさんの背中ですっげー怖い顔して睨んでるんだが」
「私、人間以外の方の表情は上手く読めませんの。日頃おつきあいがなくって」
「とりあえず作戦を考えた。プランA。背後の地竜と弔い合戦を行う。プランB。ケツをまくって逃げる。お勧めはプランBだが」
「そうね。今回はプランBがよろしくてよ」
「――んじゃあ逃げるぞっ!」
英二は綾乃の手を引くと地を蹴って走り出した。
地竜とは――英二たち生徒が名づけた、最初にダンジョンで遭遇したゴブリンに次ぐ、二種類目のモンスターである。
全長は四メートルほど。二足歩行を行う地球のデイノニクスに極めて酷似した怪竜は強靭な前脚の鉤爪を振るって獲物を殺傷する危険極まりない生き物だった。
正直、一匹や二匹程度なら超人的な〈スキル〉を有した生徒たちにとってそれほど危険ではなかったのだが、先ほど男子生徒たちは英二を除いて漏れなく地の底にいざなった大物は全長が十メートルを超えていた。
英二には通常個体種の倍以上ある地竜と戦う気概も意地もない。
実際、一匹を釣り出して主力である男子生徒すべてを失ってしまったのは、クラスというパーティーから見れば翼をもがれたに等しいのである。
人間はこれだけ代価を払ったからにはそれ以上の苦難は訪れるはずがないと、心のどこかでバランスをとる習性があるのだろう。
事実、英二たちは完全に気を抜いて、地竜の接近を容易に許していた。
「お待ちになって英二さんっ。あなたも殿方ならばスキルを使って防戦したらどうなんですかっ!」
「そんなん知らねっ。こんなバケモンの相手なんてしてられっか! ほっ、とっ」
英二は背後から繰り出される鉤爪の斬撃を巧みにかわしながら、岩壁に空いた穴を見つけると、綾乃の手を引いたまま素早く潜り込んだ。
「きゃっ」
「それ以上喋んな! しっ」
英二の判断は的確だった。穴は人間が四つん這いでようやく入れる程度の狭さであり、上背があって上手くかがめない地竜はそれ以上入って来れなくなった。
「やーん。泥だらけですわ……」
「ミンチにされるよりマシだろうが」
どうやら奥に行けば行くほどトンネルは狭まっており、地竜の侵入は不可能になってゆく。
綾乃は赤い舌を出してぺっぺっと泥を吐き、涙目で縦ロールについたホコリを払っている。
「当分あいつが飽きてどっかいくまで籠城だ」
「そんなっ。私、こんなジメジメしてて土臭くて暗くて狭い場所なんていたくありませんわっ」
「我慢しろよ。ここから不用意に出たら、ガブリだぜ。ジッと黙って援軍を待とう」
「……もし、助けが来なかったら?」
綾乃の声。先ほどから満ちあふれていた自信が陰っていた。
英二は思う。実際、それを考えなかったといえば嘘になるが、目の前の綾乃を突き放して距離を置いた、もう一方の女子カーストの雄、清閑寺清香はそういったみみっちい性格ではない。
彼女は一旦頭を冷やせば必ず自分たちを探しに来る――いいや来ずにはいられないと見た。
ただでさえ、ダンジョン攻略の主力である男子が全滅(※英二は除く)状態である上、ここでまた非道にも罪深い存在とはいえ綾乃を見殺しにするようであれば、集団の秩序は保てないからだ。
もしなにかあったときに見殺しにされるという疑念がこの状況で少しでも起これば、2Aというクラスはあらゆる意味で崩壊してしまう。
「来るさ――いや、来なくてはならないんだ」
「凄い、自信ですわね」
「ただし、アクシデントがなかったら、というおまけつきだけどな」
英二たちは穴倉で膝小僧を抱えたまま、外にいる地竜が離れていくのを辛抱強く待った。
野生動物は、一旦獲物を見つければそれに対して執着する。
特に、英二たちのように積極的に反撃に出ない小物ならばなおさらだった。
(ずいぶんと、冷えるな……)
たださえ地上の日が一片も差さない地の底である。動き回っているときはそれほど覚えなかった寒気が、こうして地に腰を着けてジッとしていると耐えがたいほどに襲ってくる。
英二は手にしていたスマホを一瞬だけつけてあたりの様子を窺った。
バッテリーは残り少ないが、このような場所ではライト代わりにしかもはや役立ちはしない。
使わずに節約しても、早晩電池切れになるのは目に見えていた。
綾乃などは学校指定のセーラーであるが、転移があったときのバス内では暖房が効いた車内で上着など着ているわけもなく、今確認したときは見るからに寒そうだった。
それに比べて英二はバスから脱出する際にコートを引っ掴んでいく程度の余裕があったことが幸いした。
こういった状況では、少しでも身体に纏えるものがあるかないかで生死にかかわってくる。
(ったく。これだからお嬢さまはよ)
「ほら、これ着ろよ」
「え?」
綾乃は押しつけられたものが英二のダッフルだとわかると、呆けたような声を出した。
完全な闇のなかで表情は窺えないが、英二はむしろそれでよかったと思った。自分でもらしくない、カッコつけな行動を取ってしまったことに悔いているのだ。
(頼むからなんかいってくれよおおっ。無言はぼっちにきつ過ぎるんじゃあああっ!)
「こっ」
「こっ?」
(なんだ? ニワトリさんの物真似かな?)
「こういうことに関しては殿方たるもの素早く気を回すべきでしょう。遅すぎですわっ」
「ちょっ……! ま、まあ、悪かったよ。ご、ごめん」
なんでナイスな気遣いをしてこうまで罵倒されなくてはならないのだろうか。英二は憤懣やるかたなく綾乃を睨みつけようとするが、暗闇のなかでも彼女が発散するセレブオーラに威圧されてすごすごと言葉が尻すぼみになる。
(なんだよ、なんだよ。ちぇっ。同情するんじゃなかったぜ。けっ)
「でも、ありがとうですの」
「え。なんか今いったか?」
綾乃はときどき、英二に聞こえない程度の小声でつぶやく癖があるらしい。
「なんともいっていませんのっ! あまりこちらに寄らないで欲しいですわっ。これでも嫁入り前の身体ですのっ。妙な気を起こしたらタダじゃすまさないので、そのあたりよーく心得ておくといいですの」
「んなに怒鳴るなよ……心配しなくてもなにもしねーよ」
「あなたは私が手を出す魅力すらないとおっしゃいますの? それはそれで屈辱ですわっ」
「じゃー、どうしろってんだよ! おまえは無茶苦茶だあっ」
「きゃあっ。触らないでくださいましっ。この変態っ。卑劣漢っ」
(こいつはいつの時代の人間なんだよ。大正ロマネクスの香気すらあるぞ)
この真っ暗闇のなかで綾乃は実に的確な攻撃を仕掛けてくる。
英二はたまらずほうほうのていで穴倉から抜け出ようとすると呼び止められた。
「お待ちなさいっ。不用意に外に出たらあの怪物がいるのなじゃくて?」
こいつ。人のことを思いきり蹴っ飛ばしておいて、今度は心配するような素振りを。
残酷なのかやさしいのかハッキリして欲しいと英二は思うのだが、そんなことをまだあまり馴染のないお嬢さまに面と向かっていえるほど強くもなく言葉を濁してしまう。
「ちょっと様子を見るだけだよ。それに、いつまでもここでジッとしてらんないだろ」
「お待ちなさい。私も参りますわ」
この洞窟は天井の至る場所でほのかに光る不思議な苔が自生しており、穴から出ればある程度視界は確保できる。
そろりそろりと気配を消して出口に進むと、先ほどそこいらへんを闊歩していた地竜の姿は跡形もなく失せていた。
そうなれば人間現金なもので、元々クラスメイトであるという以外に共通点のないふたりである。なんとなく白けた雰囲気が間に立ち込めてちょっと気まずくなった。
「とりあえず戻ろう。グループから離れるのは危険だ」
「そう、ですわね」
綾乃は下唇を噛むとちょっと悲しそうな顔で案外素直に同意を示した。
どうやらとうとうクラスの仲間が助けに来なかったことに対してショックを受けているらしい。
それに比べて英二の心は凪いだ海のように平静だった。
もしかしたら、自分たちのほうではなく逃げた女子たちのほうになんらかのアクシデントがあって助けにこれなかったのではないか、という危惧が黒々と胸のなかに立ち昇って来る。
幸いにも冒険用の諸道具を満載したザックは先ほどと同じ位置にポツンと取り残されていた。
急いで松明を取り出すと、火打石で着火しより強い光源を手に入れる。
闇はそれだけで人を不安にさせるものだ。
英二は片膝を突いてキスリング型のザックを背負い直した。重量が五十キロを超えているので、こうしないと容易に持ち上がらないのだ。
また、現代科学の粋を凝らした今風のものではないので、ウエストベルトや重量を分散する機能も肩に対する配慮もまるでないザックはモロに腰に来たが、英二はすでに若さと持ち前の対応力でこれに適応していた。
「ねえ、そのお荷物、凄く重そうね……平気なのですか?」
「もう、慣れたよ。それにこのなかには重要なものがたくさん入っているし。嫌でも持ってかないと生命にかかわる」
「そう、ですの」
「なんだよ。綾小路心配してくれたのか?」
「は? だだだ、誰があなたのような庶民のシェルパ風情を気にかけたりするものですか! だいたい私はフォークより重たいものは持たずに今日まで生きてきたのですわよっ。これからだって、そう、これからだって……」
綾乃はそういいながら自然に語気を落とした。これからはそういった甘ったれた考えが押し通せるような状況ではないことに自分で気づいたのだろう。
英二は特に慰めることなく黙々と歩き出す。
「ちょっ! お待ちになってっ。婦女子を置いていくなんて紳士ではありませんわっ」
「知るかっての」
ふたりはつかず離れず微妙な距離を保って元来た道を戻った。二、三時間もすれば根拠地であるキャンプに到着するだろう。
「なん、だよ。これは……」
そう思っていた英二たちを裏切るような現実が、しばらくたって突きつけられた。
隧道の狭い穴をふさぐようにして、天井から崩落した巨大な岩盤がルートを完全に遮断していたのだった。