閑話・放蕩息子の秘密
真偽の王には息子がいる。
兄弟もいない、女王の一人息子は大切に育てられた。
忙しい両親に会える機会も少なく、信頼の置ける乳母や使用人によって成長したと言っても過言ではない。
また、文武の方面では優秀な人材が教え込んだ。かつて十の尊い地位にいた人々は、その任を解かれてなお宮廷に残り、国の宝の師となった。
何不自由ない環境で、最高の教育を受けたその息子は。
些か自由奔放すぎる少年になっていた。
「本当に城って、馬鹿みたいに広いよな」
誰もいないというのに、少年は素直な感想を漏らす。誰かに聞いてもらいたいわけではなく、ただそう思ったから口に出ていたというだけだ。
「剣術、史学、帝王学、護身術…どれももうたくさんだ。僕には向かないし、王になんてなるものか」
ぶすりと膨れた顔は、恐らく侍女たちが見たら顔を顰める。そんな光景が簡単に浮かび上がり、更に機嫌が悪くなる。
「王の子供だからって、王様になるなんて思うなよバーーーカ!!」
真偽の王の血を唯一引いている、マルカムラ王国第一王子のロンは、今日も今日とて城の探検という名の脱走中だった。
「さて、盗み聞ぎした話だとこの辺りにあるはずなんだけど…」
現在ロンがいる場所は既に人々が使わなくなって久しい、王宮の離れだった。加えて入り口から随分遠くにある回廊は寂れており、埃が積もってさえいた。
ロンがここにいるのは、勿論とある目的があるからだ。
噂好きな侍女が言うには、ここには真偽の王が即位した際に処分したものが眠っていると言う。金品にならないものばかりだから、泥棒が入ることもないだろう。ただ捨てるには惜しかったものが運び込まれていると聞いた瞬間、ロンの探検先が確定した。
(母上が、捨てられなかったもの…異世界のものかな)
ロンは物心がついた頃に、既に母の話を聞いていた。異世界の人間であること、奇跡を起こした救世主であること、民に望まれて女王となったこと…。
皆は誇らしげにそれを語り、幼い頃はロンも母を尊敬していた。けれど母の背を見ている内に、ロンはどこか冷めていった。
母が、幸せそうには見えなかったのだ。
どうして幸せそうじゃないのだろうと考えた時に、ロンは母の立場を想像してみた。確かにこの世界で崇められているけれど、崇拝とは時に寂しいものだと、ロンは幼いながらに知っていた。ロンが真偽の王の息子だという理由だけで味わっているこの孤独感、恐らく本人となればそれ以上だろう。
きっと母はとても孤独なのだと思い、そして気付く。真偽の王の、元いた世界の話は全く伝えられていない。
真偽の王の世界の名前も、どんなものがあるのかも、どんな暮らしをしていたのか…家族の話も、ロンは何一つ知らなかった。
(あれは衝撃だったなぁ)
皆、真偽の王のことを誇りに思い、その伝説を語り継いでいる。きっと、真偽の王は全て知っていると誤解している。
異世界人で、奇跡を起こし救世主となり、望まれた女王。
気高く、強く、慈悲深く、責任感のある、誇り高い人だと。
ロンは強い吐き気を覚えた。それはただ、誰かが望んだ理想の人間に過ぎない。そのありもしない理想を、母は押しつけられている。
(きっと、色々なことがあっただろうし、色んな感情を持っているだろうし…母上にだって駄目な一面がたくさんあるはずなのに)
それを、人は伝えない。見ようとしない。
そして母は、その誤った認識を改めようとはしていない。何も言わず、過労で倒れる限界まで動き続けている。ただ、この国の為に。
その母を影に日向に支えている父も、何も言わない。母が何を思っているのか、父が知っているのかどうかはわからない。
(気づいている人でさえ、見てみぬふりをする)
憤りを覚えて以来、ロンは民の声を冷ややかに聞くようになった。
賛美しか述べないその言葉を、一切信じられなくなった。母に無理を強いる民に嫌悪さえ覚えるようになった。
(『民を蔑ろにする王は王に非ず、民あっての王であることを忘れるな』…じゃあ王は民だけに存在するのか?)
マルカムラの民は、多くのことを王に望んでいる。
家族と友人に囲まれ、明日の心配をすることなく、皆等しく平穏な暮らしと幸せを享受できるように、と。
言葉に言うのは簡単だ。だがそれを為すのに、維持するのがどれほど大変なのか、彼らは考えない。できないはずが無いとさえ思っている。
(だって、奇跡さえ起こした救世主だから)
真偽の王なら叶えられると、人々はさも当然のように口にする。
真偽の王なのに何故できないと、人々は自然に疑問を口にする。
この国にとって、民を統べる王は、神でなければならない。
(そんなこと、できるものか)
異世界の人間は、マルカムラの人間に非ず。
奇跡を目の当たりにして、妄信的にそう信じ込んでしまっているのだろう。もしそれを打ち破ってしまったら…マルカムラは恐慌状態に陥るかもしれない。
両親や気づいている人間が誤りを指摘しないのはその為だと、ロンは確信していた。ロンから見てもこの国の人間はどこか脆い。絶対的な存在が無ければ、すぐに道に迷い途方に暮れてしまう。
絶対的な光、まるで日中を照らす陽のように明るく、そして永久的でなければならない。
「おっと…話だとこの扉、かな」
考えに伏せられていたロンの瞳が、目当てのものを見つけてきらりと目が光る。
その扉も回廊のように埃が積もっていて、長らく使われていないことが伺えた。数年、もっと言えば己が生まれる前からずっと沈黙を保っていたような扉に、ロンの心臓は知らずに鼓動を早める。
「では、失礼」
離れの鍵束は、ぬかりなく手元にある。
理由は詳しく言わないが、管理者さえわかればロンにとってはお茶の子さいさいだ。…ばれない内に返せば、問題ない。
「これでもない…次はこれで、おっ♪」
良い音がした、手応え抜群だ。
キィと音を立て、開かれた先は薄暗い。窓はあるものの、小さすぎて十分な光は入らないようだ。それを書く視認したロンは、当然のように背負っていたザックから蝋燭と燭台、マッチを取り出して灯りを生み出す。
「ロンの探検グッズその一、なんてね」
蝋燭の灯りで照らしたその部屋は、意外にもほとんど真新しいものが無かった。もっと色んなもの、例えば異世界の道具などがあるかと思っていたロンにとっては拍子抜けだった。
広い部屋に、精巧な作りではあるものの古くなった机や棚、化粧棚などがぽつりぽつりとあるだけだった。
「大分期待外れだな…。仕方ない、こういう時もある」
ロンは自他ともに認める楽観主義者であり、一々落ち込んでいる暇なく次に取り掛かる自分を誇りにさえ思っている。
だから外れだったから時間を無駄にしたとは思わないし、探検をやめようとも思わない。明日には明日の風が吹く、明日の探検は面白いかもしれない…。
既に頭を切り替え、とりあえず部屋の奥まで見ておこうと燭台を高く掲げたのは、だから全くの偶然だった。
「…絵?」
何十枚もの絵画が、雑然と置かれていた。王城にもよくある、歴代の王や宮廷士を描いたものだろう。いくつもあるそれらの中で、ひときわ目を引く絵があった。
それは多分、若い頃の母が中心に座っていたからだった。ロンが見た母の絵の中で、最も若い絵姿だった。
(ああ、元十貴人のみんなか)
かつて十の尊い地位にいた人々は、十貴人と呼ばれていた。けれど母が女王となって数年後、その地位は無くなったと聞いている。地位は無くなったが、その高い能力を王国が手放すわけも無く、それぞれが国の為に尽くしている。ロンの教育を担ったのも、未来の国の為だ。
(イッキはこの頃からやる気がなさそうだ。ドクオスの毛がまだある。ウッチュもまだ可愛いさが残っている。イェデは相変わらず男か女かわからないや。ダルトの神経質な顔つきはこの頃からか。セキエスは昔から男臭い笑顔が似合うな。ビィルは今とあんまり変わらない落ち着きだ。オンは今の方が豪快に笑う。ベッシュは、うん、安定の胡散臭さだ)
母に仕える十貴人とは顔見知りだ。
いや、正確には『王都にいた』十貴人は全員知っている。
(あれ?端で一人だけ横を向いているのは…)
それはロンが生まれる前、真偽の王が祝福を開放する直前のことだったらしい。
十貴人の一人が、忽然と姿を消した。
民は新たな十貴人が選ばれるのかと思いきや、女王となったその人は空席のままにした。他の十貴人は何も言わなかった。ただ一つ空いた席を民は不思議がる。
そしてその後、十貴人と言う地位は女王の手によって無くなった。
(十人目の…十貴人)
ロンの知らない人間が、そこに描かれていた。
何故この十貴人が姿を消したのか、誰も知らない。少なくとも、ロンの周りの人間は知らないようだった。母と、当時の十貴人を除いて。
彼らも硬く口を噤んだまま、欠けた一人のことは何も言わなかった。
(だからこの絵画は、ここに置いてあるのか)
去っていった十貴人の絵姿を、ロンは他に見たことが無い。きっと母たちが知られたくないこの人が唯一写る絵姿を、古い絵画や家具と共にひっそりとこの離れに運ばせたのだ。
古くなった絵画と同じように運び込まれた、現女王陛下の若かりし頃のこの絵を、運び込んだ誰かが不思議に思ったのだろう。そしてそれを、侍女はどこかで噂話として聞きつけた。
(どうして母上は、十貴人は、この人を隠そうとするんだろうか)
十貴人は大変名誉ある地位だと聞いている。王の徒として、最も王に近い存在だったと言う。
王の次に尊いその役目を担ったその人が何を想って去り、王と同じ役目を負った者達が何を考えその痕跡を消したのか。
ロンには、見当がつかなかった。
(犯罪、不審死、逃亡、駆け落ち、名誉棄損…?うーん、判断材料が少ないな)
考えるが、現段階で推測するだけの情報が足りない。そうすっぱりと諦め、最後にもう一度その絵姿をきちんと見ておこうと思った。
気乗りしないのだろう、端の方に寄って、横を向いている。おかげで絵師もあまり細部まで描けず、特に顔は他と比べて随分簡略的になっていた。
けれど、ロンの瞳に強く焼き付いたものがある。
恐らく相当不機嫌であっただろう十貴人の、その燃えるような髪の色だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(隠したがるわけだ)
あれから幾年が経っただろうか。
ロンは静かな夜に、寝酒を片手に思い出す。
『王よ、お初お目にかかります。世界の外れから参りました』
「何故あの十貴人と同じ髪の色を、あなたの瞳の色を持っている青年がいるんですか…母上方?」
今はもう、誰もそれに答えられる者はいない。