アンの限界
肩甲骨まで伸びた黒の髪は癖も無く真っ直ぐ降ろされている。聡明さと理性を閉じ込めた翠の瞳は遠くを見通し、そして近くを慈しむ。
それが王国マルカムラの統べる、アンという女性だ。
―――かつて
この世界が絶望に染まりかけた時、一人の少女が異世界から現れてその闇を切り裂いた。
少女は異世界の人であり、このマルカムラの救世主であり…真偽の王と呼ばれるものとなった。
これはその真偽の王が崩御し、その孫娘であるアンが王位についてから数年後の話である。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「じょ、女王陛下。もうお休みを取られた方が…」
「無理よ、これは一刻も早く通さなければならない」
「ですがもう陛下は一週間近くまともに眠られておりません」
「私が休めば民の苦しみがその分長引く。死んでしまう人だっているかもしれない」
「陛下、我らをもっと当てにしてください」
「しているわ。しているけれど、この立場は誰にも譲れないでしょう」
「御尤もではありますが…」
不毛な争いが、執務室から響いている。片方はあくまで冷静に対処しているが、男の方は哀願に近い。だが内実としては、陛下は狂気じみていることを、その場にいる誰もが知っていた。
昨今起きた大災害及びそれに連なる食糧飢饉により、多くの民が苦しんでいる。その様子は逐一王都に伝えられ、救援物資及び懸命な救援活動を続けているものの、一向に回復の兆しは見えない。これほどまでに大きな災害が起こったのは、恐らく久しぶりだ。真偽の王の時でさえ、これよりも規模は小さかった。
だからこそ、わからなくはない。この陛下が懸命に、それこそ目の下に酷い隈を作ってでも机にしがみつき、一つ一つ書類を捌いて、国を挙げて彼らを助けようとしているその気持ちは、心意気は、誰もが同じだ。
けれど少々度が過ぎている。そもそも陛下が倒れては、通るものも通らない、できることもできなくなる。その前に休んでほしいのに、この陛下は休むことをしない。いや、恐らく『できない』のだろうと男は思っている。
「陛下、どうぞ、どうぞこの老人の願いを聞き入れてください」
「あなたはまだ老人と呼ぶには早いわ。お願い今はそんなことに付き合ってる暇はないの。仕事に戻りなさい、少しでも多くの命を救えるように」
見上げた瞳は、本来美しい翠の色を鮮やかに見せていたはずなのに。今は血走り、濁ってさえ見える。全体的に覇気が無く、頬がこけてみるのは、その濃い隈のせいだろうか。年若いこの陛下をここまで追い詰めてしまったこと、そしてそのフォローさえ満足にできていないこと、休息をとってくれないことに強い焦りを覚えていた。
その焦りを抱えたまま周囲を見渡すと、誰もがこちらの様子を見守っていた。皆考えることは同じだ。陛下に休んでもらいたい。この中で誰よりも長く、そして多くの案件を処理しているのは陛下であり、その上で有力者と議論をも重ねている。視察に行くことは危険があるためできないが、それ以外のことは何だってしている。文字通り身を削って民を助けようとしている。
それが頼もしくもあり、痛々しくも見える。前女王陛下と己を比べているようにも見えなくはない。真偽の王とさえ呼ばれ、世界そのものを救った女王陛下を継ぐ者としての責任を、この小さな、柔い身体で必死に果たそうとしている。
(潰れて、しまう)
これでは駄目だ。まだ復興に時間がかかる。支援は長期化するだろう。
その前に陛下が倒れてしまえば、多くのことが止まってしまう。その間に飢餓で死ぬ者も出るだろう。今は本当にすれすれのところだが、陛下が人並みの休息をとったくらいで均衡を崩す重鎮ではない。
しかし陛下がそれに気づき、自ら止めない限りは動き続けるだろう。陛下の御心を決められるのは、この世界でただ独り、陛下だけなのだから。
(いや、もう一人)
頭に浮かんだ瞬間、執務室の扉からノック音が聞こえる。入室の許可を求める声が聞こえ、近くの人間が許可を与えた。そのまま開けた扉の先にいたのは、男が思い描いた人だった。
「ここにいると聞きました、アン」
「……レン、今忙しいの。あとにしてくれるかしら」
「ええ、忙しいでしょうね。でもその忙しさは、まだまだずっと続くでしょう」
「何が言いたいの」
「長期戦に耐えうるだけの体力を、今養う時です」
「戯言なら全部終わった後に聞くわ。だから今は…っ?!」
机を挟んで対峙していたはずの青年は、簡単にその机を乗り越えて陛下の傍に立ち、にこりと笑ってその身体を持ち上げる。
「な、何をしているのよレン?!」
「え、お姫様抱っこのつもりですが」
「そうじゃなくて、どうしてそんなことしているのよ!」
「今にも死にそうな姫を救い出す騎士…一度やってみたかったんですよね」
「いい加減にして…!!」
「ということで皆さん、アンを連れ出しますが良いですかね?」
腕の中でじたばた暴れる陛下を、のほほんと朗らかに笑って全く苦にしない青年に、誰もが力強く頷く。
「すまんが陛下を頼んだぞ、レン」
「せめてその隈が無くなってくれるまで休んでほしいものですけれど…」
「こっちで何とかする。だからその…何とかしてお休み戴いてくれ」
「俺達ができるのはここで陛下の負担を減らすことだけだ。それに集中する」
「若いからって無茶しすぎですのよ、陛下」
「み、みんな…」
「人材に恵まれてますね、アン。では行きましょうか」
「どこに行く気なのよ…!!!」
もがく陛下を大事に抱えたまま、レンは揺るぎなく歩みを進める。その背をしっかりと見届けた執務室組は、ぱたんと扉が閉じられたと同時に、目の前の敵と戦い始める。
国を想い、民を想い、そして必死に守ろうとする陛下を、支えるために。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
着いたのは私室ではなく、視界の開けた庭先だった。
花が敷き詰められているわけではないが、代わりに野草が小さな花をつけている、どこかほっと息を付ける場所だ。ここが陛下のお気に入りだと知っている青年の気遣いなのだと知り、そのことに腹を立てる。
「強引ね」
「そうしないとアンは動きませんよね」
「動く必要が無いわ」
「働き続けるつもりですか」
「休みを取れと言うの?その間に何かあったらどうするの、沢山の人がぎりぎりの中で生きている、苦しんでいる、助けを求めているわ!私達に、この国にその手を差し伸べている、それも沢山よ!?それなのに、私が休息をとるなんてできない」
「アン。落ち着いて」
「落ち着けるわけがないわ!!私が休んだせいで誰かが死んだら、誰かが生きる希望を失ったら…!そんな中で眠ることなんてできない、…眠れるわけ、ないじゃない」
勢いはそがれ、とうとう語尾が掠れた。震える声を必死に隠そうとする健気な姿が痛ましい。
顔は見せまいと下を向いた陛下の目の前に、青年は静かに跪いて尋ねる。だが青年は顔を上げない。
「怖いですか」
「………」
「いいんですよ、どんな感情を曝け出しても。俺は世界の端の住人です。アンが守るべき民では、ありません」
「その言い方は、ずるい」
「ずるくたって構いません。どうかアンの気持ちを聞かせてください。本当の、心を」
顔を上げ、ふわりと笑う。その温かい微笑みが、陛下の心に染み込んでいく。等身大の己を受け止めてくれる。
だから陛下は、青年の前では『女王陛下』から『ただの人間』に戻れる。
「怖い、の」
「はい」
「逃げ出したいくらい、怖い。天変地異が起きて、信じられないことばかりが情報に入ってきて、足が震えるの。沢山の人が私に意見を求めてきた。それは国の王としての言葉で、彼らが望んでいるのは絶対的な希望であり光なの。私は、彼らにとってそういう存在であらねばならない。特に、今この時も苦しんでいる人達にとって。私の態度に、対応に、言葉に、決断に、彼らの生活が、命がかかっている。一瞬で大事なものを奪われ、途方に暮れて生きる気力さえ失いかけている彼らの、灯でなきゃいけない」
聞こえてくるのは幻聴…彼らの悲嘆、怒声、そして、命を絶つ音。
耳を塞いだって脳に直接響く。救わなければならないと、身体が心が魂が、声を上げて責め立てる。休んでいる暇などないのだと。彼らの救い手にならなければならないのだと。
「先を照らす王でなければならない。…お祖母さまのように」
この世界の、救世主のような絶対的な存在を、民は求めている。
だからこそ彼女は選ばれた。真偽の王の血縁の中、唯一女王になりうるのは彼女だけだった。彼女の父が王座につかなかったのは、民が無意識に女の王を求めたからだ。
それを真偽の王も、彼女も、そんな民の思惑を知っていた。知った上で二人は決めたのだ。後継者を決めると、王位を継ぐと。
その想いからぎゅっと力を籠める拳に、青年はそっと手を添える。温かくも無く、冷たくもない。ある意味温度を最も感じない、そんな掌で彼女に触れる。
「アン、確かにアンはマルカムラの女王陛下であり、この国に対して大きな責任があります」
「…うん」
「ですがアン独りが負うものではない。アンの周りに沢山、良い人達がいます。知っていますね」
「知っているわ」
「アンはその責務から逃げることはできないと思います。それでも、彼らと共に立ち向かうことはできる、違いますか?」
「それは、でも…!」
「先代が遺していったのは、アンを支える者達でしょう?女王と言う存在を妄信することなく、けれど的確に支持できる能力と志の高い人間を選び抜いたと聞いています」
「……わかってる」
「アンは先代にとても大事に想われていた、その証を無下にする理由がありますか?」
穏やかに諭すその言葉は、焦りに凝り固まったアンの心に入ってくる。
この青年はいつだってそうだった。少年のような好奇心に満ちた瞳を持っている癖に、反面こうして人を穏やかに導くことにも長けていた。子供と大人が入り交じった、不思議な雰囲気を持っている青年に何度助けられたか。
ようやく全身の力を抜いたアンに、安心したように青年は手を離す。それをどこかで寂しいと、アンは思った。
「随分心配かけてるわよね…皆に後で謝罪した方がいいのかしら」
「謝罪より、これからのことを協力してくれって言った方が喜ぶんじゃないですか」
「あなたが言うなら確かね」
「あれ、随分高く評価してくれるんですね?」
「あら、知らなかったの?」
疑うような眼差しを、心外そうな顔で受け止める。
じっと見つめるその翠と黒の瞳は、どちらともなく細められる。そうして、二人はくすくすと笑いだし、次第に子供の様に大笑いし始める。
黒と赤の髪が風に撫でられると同時にそれはぴたりと止まり、青年はすっと立ち上がり手を差し伸べる。
「戻りましょう。…今アンに必要なのは休息であり、アンがしなければならないのは彼らを信じることです。アンは独りではありません。その立場は唯一つアンだけのものですが、アンを心から想う人が、支える人が、守る人がいます。それを忘れないでください」
「……ええ、見失いかけていたわ。私は独りじゃない。気づかせてくれてありがとう。感謝している、レン」
「礼には及びませんよ、アン」
「……でも、一つだけ付け足してもいいかしら?」
「何ですか?」
きょとんとした顔は、少年のようだと彼女は少し笑う。年上の青年がこうして大人っぽくみえたり、子供っぽく見えたりするのが実は飽きなくて楽しい。
「私の立場は唯一つのものかもしれない。けれど、私の横に並び立つ人はいるわ」
「…それは」
「あなたよ、レン」
「………アン、ずっと言おうと思っていたんです。ですが言えなかったことがあります。俺は、」
「わかってる」
言わなくていいと、アンは差し出された手を取らずに前に進む。
「わかってるわ。あなたが正しく私を理解してくれたようにはいかないでしょうけど。私も、あなたのことを少しはわかったつもり」
「……」
「レン、いつかここを去るのね」
「……はい」
「あとどれくらいここにいるの」
「わかりません。ですがそう長い間ではないかと」
「理由を聞いても、答えてくれないわね」
「そうですね」
「少しは申し訳なさそうにしてよ。……私は手伝えないのね」
「多分、そうだと思います」
「そう」
ふわりと揺れた黒の髪を、青年は寂しそうに見つめる。それを知らない彼女は、落胆を見せぬように、空を見上げる。
「去る時は、ちゃんと声をかけてね」
「努力します」
「黙っていなくなったなら、どんな手を使ってでも見つけ出して連れ戻すから」
「それは恐ろしいですね」
「きちんと、別れの挨拶をしたのなら……見送るから」
「アン」
「レンが傍にいると安心する、独りじゃないんだって感じられるの。レンがいなかった頃に戻るなんて考えられない。でも、レンはきっと、ここにいるべき人じゃ、ないんだって…わかってるから」
「俺は、ここにいられて嬉しかったです。沢山の友人ができました、沢山のことを知りました。アンに、出会えました」
「レンがそう思ってくれるなら、良かった。嬉しいわ」
くるりとレンに見せたのは、笑顔だった。笑顔だったけれど、眦は赤くなっていた。レンはそれを指摘することなく、ただ静かな微笑みで返すだけだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
穏やかな眠りにつけたのは、いつ以来だろう。
それくらいぐっすり眠っていた。夢さえみる余裕もなかった。身体が固まるほど、本当に深い眠りの中にいたようだ。
一日程度ではまだ目の下の隈は消えないけれど、頭の中はかなりすっきりした。寝不足だと考え方がどんどん悲観的になっていく。だから仕事をしなければと追い詰められ、休むことができずに、深みに嵌っていく。それを救い出してくれたのは、燃えるような赤を持つ青年だったのは言うまでもない。
「女王陛下、失礼します。御目覚めでしょうか」
「ええ、着替えの支度をお願いできるかしら」
「畏まりました。それと、伝言を授かっております」
「伝言?誰からかしら」
「執務室の方々、全員からです。『本日の公務は午後からとします』と」
「……全く、過保護じゃないかしら?私、もう大丈夫よ」
「いいえ、私から言わせれば今もまだ体調がよろしくないようです。陛下の動きは通常時に半分程度でしょう」
「付き合いの長いあなたから言われると納得してしまうわね」
「お褒め戴き光栄です」
その言葉を交わしている間に、侍女はさっさと支度を手伝う。彼女とは子供の頃からの付き合いで、アンも心を許している気さくな相手でもあるから、まとまらない考えをポツリポツリと喋ってしまうのも、いつものとおりだった。
「ねぇ、シハ」
「はい」
「心の底から大切に想っている人を助けたいって思うのに、助けることさえ許してくれない時…どうする?」
「…相手が助けを必要としていない、と?」
「そうね、多分そんな感じかしら」
「状況にも依りますが、私ならそっと見守るでしょう。そして本当に必要な時に、すぐに助けられるように準備を整えておきます」
「傍で見守れない場合は?近い将来、遠くに行ってしまう時は?」
「…難しいですね」
「そう、よね」
「でしたら、今傍にいる段階で相手を知ろうとします。何故相手が助けを必要としないのか、それを理解しようと努めると思います」
「それで相手は変わるのかしら」
「相手が変わるのを期待するのではなく、私自身が変わるために知るのです」
「自分、自身を?」
「はい。私が助けたいという想いを、見極めるのです。相手のことを知れば、相手が本当に望まぬことならば身をひくことも、相手が本当に必要とするものに触れられるからです。それらが私を変えます。私の考えを、変えてくれると思っています」
「シハは大人ね。羨ましい」
「アン様よりも少しだけ歳をとってますからね。…知りたいと思いますか、レン殿を」
「……そうね。知りたいわ」
「協力します」
「ありがとう、心強い」
公私を徹底的に分け、誰からも認められている女王陛下の第一侍女のシハは、けれど個人的な話をする時は昔のように名を呼んでくれる。アンを子供扱いすることなく、けれど王族の人間として必要以上にへりくだることも無く、アンにとって丁度良い位置にいてくれる人だ。この人も、幼い頃にその資質をアンの祖母に認められ、アンの侍女になった。
「本当に、お祖母さまは凄い人ね…」
「私から言わせればアン様も十分凄い方ですよ」
「ふふ、まだまだよ?」
「私はそうは思いませんが…アン様が仰るなら」
「シハという人をね、私の傍に置いてくれたのは、お祖母さまだったから」
「…その件については感謝しきれません」
「そうね。私もいくら感謝しても、したりないくらいだわ」
シハは侍女と言う立場から女王陛下を支え、シハ個人の立場からアンという人間を認めてくれている。熱を帯びた敬愛とは別種の、例えるならば姉が妹に接するような、そんな一面を見せてくれる。長子として生まれ、両親や祖父母は公務に忙しく、多くの幼い弟を抱えていたアンにとって、自分をきちんと見ていてくれる存在でもある。
「それにしても、午前中はお休みになってしまったのね。何をしようかしら」
「最近は働きづめでしたからね、こちらが肝を冷やすほど」
「次は気を付けるわ。みんなの声にもっと耳を傾ける」
「よろしくお願いいたします」
「よろしくされました。さて、と…本当に何をしようかしらね…」
紅茶をいれてくれている侍女の傍ら、考え込もうとした矢先にドアが音を立てる。ノック音は五回。通常より大分多い音に、二人は目配せして笑う。
「開いているわ、入ってきて」
「カップを持ってまいります」
がちゃりと開けられた先には、青銀の髪を持つ少年だった。恐る恐ると言った風にドアを開け、こわごわと後ろ手に閉める。
そこまで怯えなくてもいいのに、とアンはちょっと笑う。そしてそれ以上に、彼が自ら進んでここに来てくれることに大きな感動を覚える。数年前では決して見られなかった光景だ。確実に変わりつつあるのは、自分とこの少年の関係もそうなのかもしれない。
「エン、元気だったかしら?」
「え、ええ、ええっと、おかげさまで。…アン、姉様は、どう…ですか?」
「昨日まで疲れていたけれど、よく眠ったから大分楽になったわ」
「それは良かった。その、今日は、午前中公務が休みだと、伺いまして」
「あら?誰に聞いたのかしら」
「その………レン殿に」
「レン…?」
「先程の答えです、女王陛下。陛下の動きは通常時に半分程度でしょう、と」
「そうね、午前休は、レンの計らいだったのね」
「執務室の方々はそれを快諾されました」
「あ、の。…アン姉様」
「何かしら、エン?」
ガチガチに固まっているすぐ下の弟をそっとソファーに誘導して、お互いすぐ隣に座る。そのことさえ気づかないくらい、弟はじっとアンを見つめていたけれど、アンは何も言わずに弟が口を開くのを辛抱強く待つ。
「その、突然で、きっとびっくりされるとは思うの、ですが」
「うん」
「それにその!お、お疲れになっていたのに、折角ゆっくりできるところにお邪魔してしまったんですが」
「ううん」
「…話を、しませんか」
「話?…エンは私と、どんなことを話したいの?」
「な、何だっていいんです!家族の話でも、ああ最近はケンとセンが悪知恵をつけてきて、シンがよくそれに巻き込まれているとか、テンは男なのに笑うとアン姉様のようだとか…!って俺は一体何を話しているんだ…!!あ、あの、つ、つまらないですけど、そんな話をもっとアン姉様としたい、って…思って……。………………迷惑、ですか?」
「そんなことないわ」
母譲りの髪をそっと撫でる。かつて、まだ弟が幼い頃にしたように。ゆっくりと、慈しむ。自分の色も誇りに思うが、母の色だって好きだ。自分の髪とは対称とも言える明るい色を瞳に写す。すると同じ翠の瞳が、こちらを恥ずかしそうに見つめていた。けれど、居心地が悪いわけではないと心のどこかでほっとする。
「嫌かしら?」
「い、いいえ…随分前にしてもらったので、その、懐かしいのと」
「もう自分は子供じゃないって、思ってる?」
「……はい」
「そうね、あの頃よりもずっと逞しくなったわ。声ももっと低くなるでしょうし、背はもうすぐ追い越されてしまうわね、きっと。エンはお母様にそっくりだから、とても格好いい男の人になるでしょうね」
「そうでしょうか」
「ええ。エンは絶対に素敵な男性になるわ。私が保証する」
「アン姉様が保障してくださるなら、安心です」
「随分高く評価してくれるのね」
「俺の自慢の姉様ですから」
そこまで言うと、弟は一度言葉を止めて、深呼吸を一つ入れる。何か決意をしたのだろうと、アンは弟が醸し出す緊張から感じ取っていた。それを自ら言い出すまで、アンはじっと待つつもりだった。
「アン姉様、まずは謝罪を。…あの時は大変ご迷惑をおかけしました。本当に、申し訳ございません」
「…何のことかしら」
「アン姉様に反対する一派が、俺を姉様の対抗馬として担ぎ上げた時のことです」
それは数年前のこと。まだアンが女王になって日の浅い頃、勢力が三分割された。
アンを支持する者、アンに反対する者、状況を静観する者達…。
元々ほとんどの者が真偽の王、つまりアン達の祖母を慕っていたが、真偽の王の崩御後に足並みが乱れ始め、アンの即位によって一気に分かたれた。
そうしてアンに反対する者達が担ぎ上げたのが、王位継承権を早々に破棄した真偽の王の一人息子ではなく、当時はまだ継承の余地があったアンのすぐ下の弟だった。
「あれは仕方ないわ。いくらお祖母さまの遺言だからと言って、全員が従うとは思っていないもの。…それに、私の周りはお祖母さまのが更に厳選した人材によって固められていたから。私達と思惑の異なる人たちが権力を得ようと、あなたを利用したのは当然の動きであり、抑えきれなかったのは私の度量の問題でもあるの。あなたが謝る必要なんてないのよ」
「それでも、もっと上手い逃げ方があったはずなんです。それなのに俺は何もできず、ただ状況に流されるだけだった。それが悔しいんです。姉様がどれほどの想いを持って女王を務め上げられているか知っているはずなのに、俺は、それを軽んずる連中に祭り上げられたんです。そして、それに抗いきれなかった…」
一時は、一瞬即発の事態まで追い込まれた。アン派か、エン派か。厄介だったのは、どちらも国を本気で想っていたという点だった。真偽の王がその治世で選び抜いた人々は皆、高い志と能力を持ち、国や民を本気で考えている人間ばかりだった。
勿論権力に目がくらんだ者達もいただろう。それでも、根底にある想いを知っているから、アン一派も、エン一派も互いに譲れなかった。描く未来が異なるというだけで争わねばならない事態に、王宮は随分揺れたものだった。
「あなたはあの時、今より幼かったの。だから仕方がないわ。大人の陰謀に気づいてほしい年齢じゃないことくらい、私も私の周りにいた人たちも、双方の説得に回った父様もレンもわかってる。きちんとその旨は伝えたはずよ。だから自分を責めないで、ね?」
「……許して、くれるんですか」
「許すも何も、最初から怒ってないわよ?」
「本当に?」
「本当の本当に。疑うなら父様やレンに聞いてみなさい。二人にだって言われれば納得できるでしょう?」
「…わかりました」
ひとまず決着がついたのだろう。一息ついた弟は注がれていた紅茶に口を付けて喉を潤す。余程緊張していたのか、三口ほどでカップが空になった。シハはそっと紅茶を付け足す。
「他に何か話したいことあるかしら?」
「俺の方からですか?」
「そうよ。無ければちょっと聞きたいんだけれど」
「何でしょうか」
「弟達は元気かしら」
「ああ、元気すぎて大変なくらいですよ。ケンは相変わらず頭で考えて行動しないし、けどセンはちょっと知恵をつけてきてケンとつるんでますよ。大抵どうしようもないことばっかり考えてるんでしょうねきっと。シンはまだ純粋なんですが、最近あの三人が絡んでいるのを見るとちょっと複雑です。シンが二人の影響を受けないか心配で…。テンはまだ母様に守られているので安心ですし、何より赤ん坊の頃の姉様にそっくりらしくて…家族みんなの癒しですよ」
「楽しそうねぇ」
耳を傾けているだけで、アンの頭にその風景が浮かぶ。やんちゃな二人とそれについて回る下の弟…きっとその三人をエンは困った奴だとため息をつきながらも、ちゃんとフォローしてくれるんだろうとアンはくすりと笑ってしまう。
このすぐ下の弟は、アンよりも下の子の面倒を見るのが上手い。それに気づいた頃はしょっちゅう嫉妬していたが、今となっては笑って受け止められる。
「楽しいけれど、五月蠅いですし、面倒ですけどね。…でもまぁ、悪くはないですよ。ああ、それから父様は一昨日ようやく家に帰ってくるようになりました」
「山場を越えたからかしらね。また忙しくなるだろうけど…」
「母様はテンの世話と同時に実家の方と頻繁に連絡を取っています。昨今の飢饉に大分向こうの祖父様と祖母様が援助しているみたいですね。それと真偽の王が亡くなられて以来、すっかり隠居していた祖父様の方も動き始めたみたいです。ご自身の伝手を使って周りに呼びかけていると聞いています」
「そう…だったの」
「ええ。みんな、孫娘が頑張っていると言うのに、自分達は何もしないでいられるかって。孫馬鹿ですからね、あの人達」
「ふふ、そうね。そうだったわね。…最近会えてないなぁ」
「それを言ったら俺達兄弟だって最近姉様に会えてません」
不満そうに頬を膨らませる癖は、幼い頃から変わらない。
思わず昔のように膨らんだ頬を両手で潰すと、ブシュッと、間抜けな音がした。その音に笑えば、恨めしそうな目で睨まれる。でも可愛い。全然恐ろしくもない、ただの可愛い弟がそこにいた。
こうしてゆっくりと弟と話すことで、祖母が生きていた頃に戻ったような気がする。兄弟間の確執を感じることなく、ただただ純粋に笑っていた頃のことを思い出していた。
「それもそうね。こんなに近くにいるのに、こんなに近くに家族が暮らしているのに、全く会えてないなんて変な感じがするわ」
「姉様が女王になられてから、家族全員が揃った日なんて数えるくらいですよ。テンなんて姉様とまだ五回も会ってないんですから。忘れられてても知りませんよ」
「それはちょっと困ったわ。会った途端、誰この人って言われたら、さすがにショックで立ち直れないわね」
「そう思うならたまには顔を出してくださいよ。……みんな、待ってますから」
「エンも?」
「あ、当たり前です!!!」
わざと聞けば、真っ直ぐな音が返ってくる。そのことが嬉しくて、本当に嬉しくて思わずぎゅっとエンを抱きしめる。抱きしめられたエンは始め目を白黒させていたが、時間が経てばそっと、ちょっぴり恥ずかしそうに、抱きしめ返してくれた。
「また、エンとこうして話せるなんて、夢みたい」
「俺もです。アン姉様とこうして笑える日がくるとは思ってませんでした」
「ええ。…ずっと、平行線のままなのかと思ってた」
「交わることもできるんだって、教えてくれたんです。分厚くて高いと思っていた壁は、その実ただの見掛け倒しかもしれないから、当たってみる価値はあると」
「…レンね」
「はい」
その名は、今は少しほろ苦い味を思い出させる。アンの心に容易に入ってくるのに、その心には触れさせてくれない。風のように、一つの場所に留まることはなく、どこかにまた行ってしまう。それをわかっていて、受け入れたと言うのに。留まれば濁った風にしかならないとわかっているというのに。
彼の滞在を、少しでも長くさせようと考えている自分が、いた。
「…アン姉様?」
「ん?」
「どうか、しましたか」
「何でもないわ」
「…そう、ですか」
「うん」
「……でも、もし何か困ったことがあって、助けが必要なら」
「うん?」
「俺を、呼んでくださいね。力になります」
「…ありがとう」
エンが生まれた時、アンは初めての弟の存在に目を輝かせた。周りは大人ばかりだったから、余計新鮮に見えた。早く抱き上げたいと言って周りを困らせた。そしてようやく許可が下りて抱き上げた時の感動を、まだ覚えている。
柔らかくて、頼りなくて、ちょっぴり重いけれど、でも自分より小さな存在だった。
それが今は、どうだろう。背丈もほとんど変わらず、そして何よりその身体は男の人のものになりつつある。鍛えているのだろう堅い筋肉と、ごつごつとした掌が教えている。
(変わっていくのね、エンも…みんな)
幼かった弟が、自分の背を追いこそうとしている。近い将来、他の弟達もそうだろう。そしていつか、同じ目線で物事を見るようになる。幼い頃の年齢差は、大人になってしまえば大した差にならない。
いつか幼『かった』弟達が、己のように王族としての役割を果たす日が来ると思うと感慨深い。それが年月と言うもので、年月は確実に人を変える。良くも、悪くも。止まることなど許されないのだろう。生きている限りは、ずっと。
(変わっていくことを恐れぬ勇気が、私にはあるのかしら)
両親の元に生まれ、第一王女となった。弟達が生まれ、姉になった。祖母が死に、女王になった。親友を得て、友人となった。
(今度は、その親友を失う変化を受け入れる時なのかもしれない)
アンは腕に、少しだけ力を込めた。
今はただ、親友が齎した変化を大事にしようと、幼かった弟を慈しむように抱きしめた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「…それで、本日はどういったご用件でしょうか、アン」
呆れ半分、脱力半分のままレンは力なく問う。
日が昇り始める直前という早朝、女王陛下の私室に呼ばれたのは二人、レンとエンだった。
傍には会話の邪魔をせぬようにとシハが控えている。だがその手に男物の服、それも民がきるようなものがあることには気づきたくない。
そのシハの横にいるのは女王陛下第一の近衛だった。諦めの眼差しを彼方に投げている。私服でいるところを見ると、彼もこれから女王がやろうとしていることに付き合わされるのだろう。
「あらやだレン、わざわざ聞くことかしら?」
「アン姉様、姉様の恰好を見れば誰だってわかります。わかりますが、許容はできませんよ」
「エン、この間言ってくれたじゃない。困ったことがあったら力になりますって」
「それは…!それは、確かに、言いました、けど」
「レンはいつもどおりでいいけれど。そうね、エンは地味な服を見立ててもらったからこれに着替えて。その恰好じゃ城下では目立つでしょう」
「う…は、はい…」
姉の押しに負けたのか、シハの手にあった服を受け取りすごすごと隣の部屋に移動する。その様子を横目で確認していたレンは、諦めたようなため息を一つついたが件の女王は全く怯まない。怯まないどころか、随分機嫌がよさそうだ。
説得は無理そうだと、シハの横にいる近衛兵に諦めの視線を送る。彼もわかっていたらしい、今日一日お願いしますと目を伏せてきた。随分苦労しているのだろうとレンは同情した。真偽の王健在の頃に選ばれた護衛は、こうなったらアンを止められないことくらいわかっているようだった。
ただ、それでも今尚アンの傍に居続けることを考えれば、アンという人柄に惚れこんでいるのは言うまでもない。
「やっぱり行先は城下ですか…」
「ええ。長い間、民の様子を直に見る機会が無かったのを思い出したわ。大災害による被害状況もようやく落ち着いてきたの。だから丁度良い機会だって、みんな送り出してくれたわ。勿論内密に、ね」
「はぁ」
「でも条件を三つ言い渡されたの。一つは時間、今日一日だけの視察にすること。次に場所、すぐに戻ってこられる城下のみにすること。最後は護衛、レンを連れていくこと。…彼らからも随分頼りにされているようね、レン?」
「喜ぶべきところか悩みますね。…エンはいいんですか」
「ふふ、この一件には騎士団長クラスも絡んでるわよ。知ってのとおり、あの子の剣術は騎士団の中でも一目置かれているわ。まだまだ成長途中だけど、そこいらのゴロツキには負けないって太鼓判を押してくれたのよ」
「騎士団長って…ユズですか」
「そのとおりよ。ついでに右の副団長も笑ってくれていたわ。話の分かる人で良かったわ」
「セキサンなら面白がって頷きそうですね。ではイェトは」
「う…左の副団長が許すわけないじゃない…話していないわ、でも今日一日くらいだったら大丈夫だって言ってくれたのよ」
あの豪快な壮年の女性と、楽しいことが大好きな男なら喜んで頷いただろう、目に浮かぶ。逆に生真面目で有名な方にはばれないことを切実に願う。中性的な面持ちを持つその人は、涼しい顔をして結構えげつない仕置きを平気でやる。レンはそれを知っているから顔を引きつらせている。
「内密に、行きましょう…」
「ええ、勿論そのつもりよ」
「……アルト、この件をイェトには」
「言いませんよ、レン殿。言えば止められなかった私も同罪ですので」
「………………苦労していますね」
「お互い様です」
レンが振り返った先には、哀愁さえ漂わせているアンの近衛騎士がいた。アンが最も頼りにする彼は、この国でも一位、二位を争う護衛であろう。その彼が一緒に城下に来てくれるならまだ心強い。一人でアンとエンの相手をするよりましだと、レンは自分を納得させる。
また同時に、彼は左の副団長の親族でもあるので、その恐ろしさをよくわかっている人間の一人でもあることがレンの心を慰める。
「……着替え終わりました」
「おかえりなさい、エン。うん、さすがシハね。良い見立てだわ」
「お褒めに預かり光栄です」
「じゃあ今から行きましょう」
「アン…その、今すぐですか」
「当たり前じゃない。期日は日が昇っている間。つまり日が沈むまでしか街を見られないのよ。今から行かなきゃ時間が勿体ないわ!」
「ああ、だからこんな朝早くに呼ばれたんですね」
「本当に日の出とともに行動するんですね、アン姉様」
「つべこべいわない、じゃあ行くわよ!!」
先陣を切って、秘密の通路へ向かうアンに、三人はため息をつく。
「姉様の近衛は大変だな、アルト」
「自分の方からは何も言えません、エン様…」
「イェトに見つからないといいですね」
「「切実に」」
「何をしているのですか男衆。陛下から離れては護衛の意味がないのではありませんか」
そう冷たく突き放されて、男共はすごすごとその後を追いかけた。