脱出
この世の魑魅魍魎どもの住まう、魔窟。
人はそこをダンジョンと呼び、その場所を遠ざけた。
だがしかし、その魔窟には外には無い
ありとあらゆるものを凌駕する、ナニかが眠っているという。
人々はその何かを求めて、危険な場所に足を運び入れるのだ。
「ヒィィィッ!」
その男は全身からありとあらゆる液体を垂れ流しながらも、必死になって足をなんとか前に進めていた。
鼻水と涙とヨダレとで顔をグシャグシャにしながらも、歯を食いしばりながら走っていた。
(早く…でも…何処に…?)
背後の恐怖を全速力で振り切ろうと走って見せても、
ようやく離れも近づきもしないこの状況。
このまま足を休めればたちまちヤツの餌食だろう。
急いで何処かに隠れない限りは生き残れないであろうことを悟る。
走る男はそこそこ名前の知れたベテラン冒険者であったが、
無様に逃げ回るその姿には今や見る影もなく。
まるで幽霊が出たと怯える子供のように必死に恐怖から目を背ける弱き者へと姿を変えていた。
走る
走る
走る
死の恐怖から失禁し、体のあちこちの傷から血が流れ出る。
無様だろうと笑われようとも、、恥も外聞も捨て去り、
全身の力を振り絞り、なりふり構わず駆け抜け生き延びてやる!
だんだんと見えてくる、立ち並ぶ木々で覆われた入り組んだ場所
生き残るための僅かな希望が目に映る。
すでに満身創痍、自由に動かぬ体だが、足を止めることは死を意味する。
鉛のように重たく感じる体にムチを打って、なんとか走り続ける。
そうして身を隠すことができる林の中に足を踏み入れることが出来た。
それでも足は止まらない。
不規則に走る方向を変え、遮蔽物で身をくらませながら右に左に。
ヤツが俺を見失ってしまうまでなんとしてでも走り抜いてみせる!
そして背後の巨大な足音は遠ざかる。
先ほどまで自身を追い回していた死神の足音は遠く、見当違いの方向へと進んでいく。
(見失ったか!?)
緊張の糸は切れる。
もはや体を制動するための体力すらないのか、地面を力なく踏み抜いた。
足は滑り、無様に地面に倒れこむ。
「ッハァ、ハァ、ハァ・・・」
息が苦しすぎて、吐いたらいいのか吸ったらいいのかもわからないまま出鱈目な呼吸を繰り返す。
(生き残った?)
待ち望んだ静寂。
仲間たちを次々と食い散らかし、死へと追いやったその影にいつか復讐を誓い、ひとまず生き残れた喜びに歓喜の涙をあげる…
…のはどうやら早いらしい。
一時の静寂を切り裂いた、遠くで聞こえる断末魔。
その大きな声は自分たちを死の淵に追いやった巨大な影の者と似ている・・・
またしてもあの声がこちらに近づいてくる。
でも先ほどとは違う、とても、とても苦しそうな声が。
「グギャアァァァァァ―――――!」
事切れる刹那の声
つい先ほど復讐を誓った仇敵、『ベヒーモス』の無様な姿
まとわりつくヘルハウンドの群
それは余りにも呆気なく。
分かりやすいぐらい、分かりきっていたこと。
ここは、地獄なのだという事。
もはや戦う気力はおろか、立ち上がり気力すら、体力すら残されていない。
それどころかうつ伏せのまま、冷たい大地を拝み、砂の味を感じながら死んでいくのだ。
最早、男は死を悟っていた。
次にあの群れ達が、その鋭い牙をこちらに向けるときが最後なのだと。
自らの死を悟った男はゆっくりと瞼を落とし
せめて苦しまないようにと、願う。
「はぁい、そこのお兄さん?
何かお困りではないですか?」
張り詰めた緊迫感の遥か遠くから投げかけられた、思いもよらぬ声。
(…こんなところに人が?)
うつ伏せのまま首だけをその声のする方向へ向けると、まだ若い、少年の姿が目に入る。
「大変だねぇ。
仲間は死に無様な敗走の末、
ようやく九死に一生を得たと思いきやこの仕打ち。
もう死んじゃいますか?普通なら死んじゃいますよねぇ?」
少年はあの悍ましい死の使徒の脅威もどこ吹く風、まるで脅威を感じていないかのように、むしろあざ笑うかのように話しかける。
「だけどカミサマは貴方を見捨てはしなかった。
おめでとう!
貴方は偶然にも俺の元にたどり着く事ができた。
これで貴方は今度こそ生き残るチャンスを得られる・・・かも知れないわけだ。」
この少年は何を言っているのだろうか?
助かる?
何が、どうやって?
すると、先ほどまでベヒーモスに食らいついていたヘルハウンドの一匹が、少年に躍りかかる。
が、
「よーし、よしよし、ブサカワいい?ワンコちゃんですねぇ。
あ、ゴメン、やっぱ臭いから無理!」
それは左腕に食いついた。
何事も無いかのようにその頭を撫で、
そしてムッと顔をそらして
一瞬、左腕が閃いた。
それだけでそれは居なくなった。
彼の足元ではぐしゃぐしゃになった肉片が散らばっていた。
最悪の光景を思い浮かべる間も無く。
むしろなんでもないようなその光景の異常さは脳裏に焼くつく事もなく、
ただ漠然と視界を過ぎ去って、
現状の認識が追いつかぬ間に彼は言う。
「さて、それでは商談を始めましょうか・・・とその前に」
ヘルハウンドをヒラリと交わし、ひき肉に変えて言う。
「少し、『黙ろうか』」
ヘルハウンドの群れ達は怯えたかのように、後退り、呻る。
その場から動く事すらせず、ただ呻る。
「ワタクシ、ダンジョン脱出サービスLIFT を経営しております、サイバと申します。
まぁ、自己紹介はこの辺で本題に。
ぶっちゃけ、生きてダンジョンから脱出したいですか?」
ああ、できる事なら脱出したい。
もう藁にもすがる思いで、冷静な判断すらままならないまま、ただただ頷く。
「うーん、元気のいい返事ですね〜。
首痛くないですか?
まあいいや。
こちらとしてもビジネスですので、勿論料金は頂戴致しますので悪しからず。
あと、当サービスは前払いが原則となります。
ああ、ポチ
そんなに近づいて、ダメなんだぞ。」
「前払い?
もう何だっていいからそこのヘルハウンドをなんとかしてくれ!」
目と穴の先で鼻息荒くこちらを見つめる狼型のモンスター。
荒々しい鋭い牙が目前に迫っている恐怖の中、
なんでもいいから助かりたい俺はどんな要求でも頷くしかなかった。
「かしこまり〜。
それではとりあえず有り金全部出せ♪」
ああああ舐めてくるな。
甘噛みするな。
もう、どうにでもなれ・・・
懐の財布を適当に投げ渡し、その生き物を、刺激しないようにぐったりと倒れる。
「おお、お兄さん結構もってるねぇー。
コレだったら追加徴収しなくて良いよ。ションベン臭そうだし。」
少年は俺の持つ全財産を数え、そう告げた。
早く、お家帰りたい・・・
極限状態の緊迫感でおかしくなってしまったのか、
全てどうでもよくなってしまった頭の中は、
昨日までの平穏な日々が只々頭の中をよぎっていた。
・・・このまま死ぬのかな?
「それでは一名様、ご案内〜!」
せめて最後に、お袋の料理、食べたかった。
「はぁい、ご到着。
第32層からダンジョン入り口の街、
『リンドの街』の広場ご到着でぇ〜す。」
カルロス、フローラ、もうすぐ俺もそっちに行くわ・・・
「お客さん?着きましたよ?」
ははっ、ちょっと待ってくれよ、俺だけ置いて行くなって。
「・・・まあいいか
それでは、またのご利用をお待ちしておりまーす」
えっ、こっちに来るのは早いって?
だって俺ももうすぐ死んじまうんだぜ?
・・・本当に死んじまうのかな?
そういや、さっきの子供、助けられるって言ってたよな?
そんな馬鹿な話。
「おい、そこのあんちゃん
道端で寝っ転がってねえでさっさどっか別の場所で寝てくれねえか?
通行の邪魔で仕方ねえ。」
え?
すぐさま顔を、いや体を起こして周りを見渡す。
ここは、街の広場?
なんで??
確か、ベヒーモスに追い詰められて、ヘルハウンドが現れてそれから・・・
「なああんた。
相当寝心地が良いのかは知らねえが
その格好はなんとかならねえかね?
寝ションベンまでなら分かるが血まみれになるとは、あんたどんな寝相してればそうなるんだ?」
「うわぁ?!」
そう、確かについ先ほどまでダンジョンにいた時の格好なんだ。
俺は、生きてこの街に帰ってこれたというのか?
それとも死んじまって、ここは天国だとでもいうのか?
街の広場が実は天国だったのか?
わけがわからないぜ。
ひとまず、言われるままその場を後にする。
今日は色々な事が起こりすぎた。
仲間が死に、自分も追い詰められ、少年に助けられた。
…少年に助けられた?
「!!」
思い出した。
あの少年は?
ばっ、と振り返って背後の広場の景色を見渡すと、
最後にみた時となんら変わらない光景が広がっており、
俺は本当にこの街に帰って来られたのだとようやく認識する。
ああ、みんな。
俺は無事に帰ってこれた。
すまねぇ、俺だけ生き延びちまった。
仲間が死んだ事実
生き残れた喜び
喜びと悲しみの涙を浮かべながら、一先ず宿の方へ足を運ぶ。
落ち着いたら、仲間達の供養をしてやろう。
それから実家に帰ってお袋に手料理を作ってもらおう。
仲間の死を無駄にしないためにも。
生き残った俺が仲間の死を、覚悟を語り継いで行こう。
明日への希望、決意を胸に
こうして生き残れた事に感謝を。
道を繋いでくれた一人の少年に感謝を。
心を新たに、新しい冒険が幕を開ける。
「いらっしゃいませー。
何名様ですか?」
「一人です」
そう、俺は一人だけなんだから。
たった一人生き残った現実を再認識し、
一先ずの今日のこれからの予定を立てる。
まずは風呂に入って、着替えをなんとかして、それから腹ごしらえだ。
腹が減っては戦ができぬ。
とりあえずボロボロになった防具と血と汗でベトベトの体を清めるべく、宿に一泊・・・
「あ、」
「お客様?」
お金、ないんだった・・・