中編
「病院っていったら、美冬さんの実家のほうだよな……」
景山美冬は景山総合病院の院長の娘で、本人はこの街で開業している。看板には美冬内科と書いてあるが、総合診療のできる医者らしい。
(俺が行ったところで何かできるわけもないか……)
そう思っていると、田村が千秋を呼んだ。
「奥さまが景山総合病院までお越しくださいとのことです」
「なんで?」
「理由はおっしゃいませんでしたが、何かお考えがあるようです」
「わかった。ちょっと支度してくる」
千秋は部屋に戻って鞄を手にして、少し考えた。
(顔、見られるの嫌がってたな……)
気が付くと千秋の頭は顔を隠せるものを探していた。目についたのはサングラス。薄い青色のコーティンがされたものを手に取ってみる。
(もう少しレンズの幅がある方がいいか……)
そう思いながら病院へ向かった。
「で?俺は何をしたらいいんだ?」
と母に尋ねると、ちょっとしたかけなんだけどねとつぶやいて歩き出す。後をついていくと明らかに一般病棟とは違う閉塞感が漂う場所に出た。
精神科のプレートと鍵のかかった重い扉。看護師が母と話して鍵をあけてもらう。フロアーがあって、患者らしき人々がおしゃべりしたり、新聞を読んでいたりした。一見普通に見えるけれど、雰囲気がどこか重たい。彼女の病室はナースステーションの奥の方で、そこの病室はどこも扉がしまっていて小さな窓の外側にカーテンがついていた。半分だけ中をのぞけるようにカーテンは開けてある。
けれど、彼女の部屋はドアが開けっ放しになっていた。こぎれいだけど狭い部屋。むき出しの水洗トイレと手洗い。そして憔悴しきった男女が丸く膨らむベッドのそばに寄り添うように座っていた。
月島さんと母が声をかけると、男のほうがふりかえり、立ち上がってよってきた。千秋を見るなり頭をさげる。
「娘を助けていただいて本当にありがとうございます」
力のないかすれた声。
「あの…蒼ちゃんは…」
「顔もみせてくれません。点滴も薬も受け付けなくて…食事も…」
「そばにいってもいいですか?」
父親は、はいと力なくうなずいて、千秋をベッドのわきにいざなった。
千秋は丸いふくらみにそっとふれる。びくりとおびえた反応が返ってくる。
「蒼ちゃん、俺の声聞こえる?」
布団から少しだけはみ出した頭が、こくりと動く。
「お薬いやか?」
また、こくりと動く。
「おなかすいてないか?」
反応がない。
「ごはんたべたい?」
少し戸惑うようにこくりと動く。
千秋は鞄の中からサングラスを出した。病院に来る前に、ショップで買った安物。幅広のレンズにうすい青色のコーティングがほどこされた白いフレームの女物。
「顔見られるの嫌なんだよな?」
こくり。
「ちょっとだけ、顔みせてくれないか?目だけだして、見てほしいものがあるんだ」
すぐに反応はない。千秋はじっと待つ。
彼女の小さな手が布団の襟をつかんで、少しだけ目をみせた。
「これ、サングラス。わかる?」
こくり。
「これかけたら、顔の半分くらいは隠せるよ。どうする?」
あの晩と同じようにためらいがちに手を伸ばし、サングラスに触れて、迷って受け取る。布団から覗く目にそれをかける。
「鏡みる?」
こくり。
千秋は鞄から鏡を出して、そっと彼女に向けた。蒼はゆっくりとかぶっていた布団から顔をだす。
「お父さんとお母さんの顔、見られる?」
こくり。
「よし、じゃあ、起きようか?触っても大丈夫?」
こくり。
千秋はそっと右手で肩を抱いて、蒼の上半身を支えた。彼女の母親はおずおずと手をのばして彼女のほほに触れた。その眼には涙があふれてとめどなく流れていく。小さな手がそれを拭う。そして、口をひらいてすぐにとじてうつむく。
「心配かけてごめんなさいって言いたい?」と尋ねると、また、こくりとうなずいた。
「いいたいことがたくさんあったのね…ごめんなさい。わかってあげられなくて…」
彼女の母親は泣きながら微笑んだ。
(これなら大丈夫かな……)
千秋はそっと支えていた手を離し、彼女の父に席を譲ろうとした。
その瞬間、彼の手を小さな手が摑まえる。いかないでと聞こえた気がした。
「どこにもいかないから、お父さんにも顔をみせてあげなよ」
蒼はこくりとうなずいて、手を離した。
千秋は入口に立っている母と二人で親子の様子を見ていた。母は千秋の顔をじーっと見つめる。
「な、なんだよ」
「千秋って意外な才能があるなぁって思って」
くすりといたずらっこのように母は笑う。
「才能ってなんだよ」
「ま、大人になればわかるわよ」
(わけわからん)
あの鉄拳を食らって以来、自分の母親なのにそうじゃないような気がした。兄たちや父のことも今までのように抱いていたイメージはどこかずれていた。たぶん、それは千秋の見ていたものが表面的なもの、あるいは役割的なものでしかなく、個々としての彼らではなかったということなのかもしれないと、なんとなく思うようになっていた。
(蒼は……)
母親と父親に挟まれているのに、なぜか俺を見ていた。何か言いたげなまなざし。何かをこらえているような……。助けを求められているような……。けれど、千秋は気のせいだろうと思い、今は親子水入らずのほうがいいだろうと
「俺、ちょっと飲み物買ってくるけど、母さんなんか飲む?」
「じゃあ、紅茶がいいわ。さすがにこの年で徹夜は厳しい」
了解といって千秋は自販機に向かった。
千秋が紅茶とサイダーを買って戻ってくると、部屋の様子がおかしかった。看護師が蒼に何かの処置をしている。傍らで両親がおびえていた。母は戻ってきた俺に過呼吸発作よと言った。千秋は買ってきた飲み物を母に押し付けて、蒼のそばに駆け寄った。看護師が紙袋を蒼の口にあてて、ゆっくり呼吸をするように促している。ひくひくと体を痙攣させながら、小さな手が千秋の方に伸びてきて、彼はその手を握りしめた。
千秋を見ていたのは、呼吸が苦しくなっていることを伝えたかったんだとようやく気が付いた。しばらくして呼吸も落ち着いてきたころ、担当医がやってきて点滴を打ちましょうと言った。栄養状態があまりよくないので、点滴である程度落ち着かせた方がいいという話だった。
「痛いか?」
蒼は首をふる。
「ごはん、しばらく食べられないけど大丈夫か?」
こくんとうなずき、少しうつらうつらしているから、眠いかと尋ねると懸命に目をあけようとする。
「目が覚めるまでここにいるから、今度はちゃんと……」
そういうと、蒼はサングラスをかけたままゆっくりと目を閉じて寝息をたてはじめた。
彼女の両親と千秋の母・紫と美冬、そして精神科の担当医・佐久間亮介は面会室で話をすることになった。
「今後の治療方針を立てたいのですが、僕もこういうケースは初めてなので、少し悩んでいます。彼女は暗いところが苦手なようですし、閉塞感のある場所にも強い恐怖を感じています」
「|佐久間先生。それってここでの治療は難しいんじゃないの?」
美冬がそういうと、佐久間はあっさりそれを認めた。
「ええ、そうですね。ここでは薬と規則的な生活、それに隔離という手法で徐々に状態を安定させていくというのが基本ですから。閉所や暗闇におびえて、薬を飲むことを怖がってしまう彼女にとっては、あまりいい環境ではありません」
「では、自宅につれてかえったほうがいいですよね」
父親がすぐにでも連れ帰りたいとそういうと、佐久間はそれも少し難しいのですと言った。
「二十四時間、誰かが彼女を見ていないと何が起きるかわからないと思います。何がきっかけで、フラッシュバックで発作を起こしてしまうかわかりません。特に意識がしっかりしているときは、人に触れられることも顔を見られることにもおびえています」
「それなら、私が仕事を辞めて、あの子の看病をします」
母親は涙目になりながら、そう訴える。
「お母さん、あなたの気持ちはよくわかります。けれど、一人では無理です。それはかえって彼女の負担にもなりかねません」
「じゃあ……どうしたら……」
母親は戸惑い、苦痛に表情を曇らせた。
紫はにこりと微笑み、うちでおあずかりするのはどうでしょうと提案した。
「ああ、そっか。それがいいかもね。紫さんのところなら、二十四時間、お手伝いさんや執事さんもいるし。敷地もひろいから、外の雑音も聞こえないし」
紫は蒼の両親に、にこりを微笑みかけた。
「なんなら、お二人もうちにいらっしゃったら、どうかしら?たぶん、今日の夕方あたり警察の記者発表があるでしょうから、マスコミが騒がしくなるでしょうし。ご近所には病院の近くの親戚のところに身を寄せるとでも言っておけば、大丈夫だと思いますけど、どうでしょう」
「いや、しかし、これ以上ご迷惑をかけるわけには……」
父親は恐縮したようにそういう。紫はただにこやかな表情を崩さずに言った。
「うーん、そういわれてしまうと無理強いはできませんけど。少し考えていただけませんか?せめて、蒼さんが口をきけるようになるまでとか」
「美冬先生。高遠さんのお宅ってどういう環境なんですか?」
佐久間は念のためというように尋ねる。
「ああ、このひと高遠財閥の嫁だから。森の中の洋館に住んでるのよ。ちなみに、東雲グループのトップ・東雲洋一郎さんの一人娘だし、個人的なネットワークも広いから、警察からマスコミまでいろいろ手をまわせるの」
「昔ほどじゃないわよ。今はアドバイザー程度だし」
紫はやわらかく笑う。
「月島さん、とりあえず、今晩、一晩うちに泊まられてはいかがですか?佐久間先生も夜勤でなければ、ご一緒していただいて。どうすることが蒼ちゃんのためになるかみんなで考えません?」
「すみません、少し混乱しています。もう少しここで蒼の様子をみて、考えてもいいでしょうか」
ええと紫は極上の笑みを浮かべた。
月島夫妻が病室にもどっていくと、佐久間は深いため息をついた。
「どうしたの?佐久間先生」
「私も混乱しているのです。自分の経験不足というのもあるのですが……。高遠さんはこういったケースに動揺もされていないのはなぜでしょう?」
紫は簡単なことですと笑う。
「経験があるからですよ」
「それは誘拐されたことがあるということですか?」
「ええ、一度だけ。あとはほとんど未遂に終わりました。それに民間SPとして仕事していた時期もあるので……DV、ストーカー、性犯罪、虐待。そういうことにかかわることが多々あったというだけです」
「紫さんはおとなしそうな顔してるけど、かなりの武闘派なのよ」
「美冬ったら、それは過去のことですよ」
どうかしらねと美冬は笑った。