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前篇

 高遠千秋(たかとうちあき)は、一冊の本を手にしていた。それは高校生の文学部が卒業制作として五十部程度、作成したメモリアルブックだった。母宛に送られてきたそれを、彼女から渡され読んだとき、胸がずきりと痛むと同時に、物語を書いた少女への愛しさを確信してしまった。


(物語があの子を救ったのなら、いつか会えるだろうか)


千秋の心は高校時代の記憶を愛しげになぞり始めた。



 金があれば、人が集まる。たとえそれが、自分の稼いだ金でなくても。思春期、そういうものがすべて疎ましかった。誰も俺を見ない。高遠という名前の向こう側に存在する、金と権力。他人が見ているのはそういうものなんだと、千秋は勝手に思い込んでいた。だから、ぐれた。学校をさぼることから始まって、髪を染め、ピアスをあけ、売られた喧嘩はすべて買った。

 その結果、警察につかまって、どうとでもなればいいとさえ思っていたが、父が迎えにきて何のお咎めもなく返されたことに、はらわたが煮えくりかえりそうになった。

「千秋、喧嘩するのはかまわんが、手加減しろ」

「うるせぇよ。向こうが売ってきたんだっつうの」

「たとえ売られた喧嘩でもな。相手を死なせたらどうするつもりだ?相手の親御さんに売られたから買ったまで、死んだやつが弱かっただけだとでも言うつもりか?」

 千秋は助手席で苦虫を噛むような表情を窓に浮かべた。

「喧嘩くらいで人が死ぬかよ……」

「死ぬんだよ。喧嘩だろうがいじめだろうが、幸せだろうが、不幸だろうが。生きている以上は死ぬんだよ。死んだ命は二度と戻らない」

 父は、自ら運転しながら静かな声でに責めるわけでも、諭すわけでもなく話す。

「何がいいてぇ、くそおやじ」

 千秋は自分へのいら立ちを父にぶつける。

「人を死なせてしまったら、自分の人生も終わるってことだ。法的な償いができても命はかえってこないんだよ。それだけは、きちんと肝に銘じとけ」

 それっきり、二人の間に会話はなく、無言で家に帰った。


 千秋の頭の中で、父の言葉だけが繰り返される。死んだ者の命は二度と戻らない。その言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡っていて、煮えたはらわたはいつのまにか、ひどく冷たく重くなっていた。そして、いつもなら執事の田村がでむかえてくれるはずの玄関先に、仁王立ちした母がいた。あまりの豹変ぶりに、驚く暇もなく…。千秋は腹にものすごい衝撃を受けて、九の時に前のめりで膝をついた。

「どうしたの?あたしは、今、お前に喧嘩売ったのよ。買わないの?」

 一瞬、息が止まって咳き込む。痛いなんてもんじゃなかった。

(ゆかり)さん、落ち着いて…」

久雪(ひさゆき)さんは黙ってて。力の使い方を間違うとどうなるか、叩き込んでおかないとよそ様の迷惑よ」

 母は容赦なく、俺の襟元をつかんで引きずりあげる。

「ほら、どうした?買えよ」

 千秋は完全に委縮していた。恐怖のあまりふるえたのは、それが初めてだった気がする。

「ご……ごめ……」

「何?買わないの?」

「か……買いません!」

 母はあっそうと言って、手を離して去った。父は何も言わずに母のあとを追っていく。千秋は一気に力が抜けて……目を覚ましたら、自分のベッドにいた。起き上がろうとして、腹に激痛が走った。おそるおそるシャツをめくるとくっきりとこぶしの跡がついていて、血の気が引いた。昨晩のあれが夢じゃない証拠。千秋がどんな暴言を吐いても、涼しい顔で笑っていた母と昨日の母が重ならない。


 千秋は母親にしかられた記憶がない。というか、母が誰かを叱る姿さえ見たことがない。


「千秋、生きてるか?」

 長男の夏樹(なつき)と二男の春陽(はるひ)がそっと部屋に入ってきた。

「死んでるんじゃない?」

からかうように春陽が言う。

「おそろしいこというなよ。つうか、俺もさすがにあれには度胆抜かれたぞ」

「そりゃ、僕だって。マジ、千秋死んだと思ったもんね」


「死んでねぇよ……」

 千秋がそう答えると兄たちはそうかそうかと苦笑する。その微かな動きさえ腹に響いた。

「吐き気はないか?」

「……ない」

「じゃ、医者はいらないな。ほら、腹だせ」

 夏樹は布団をめくってベットにこしかける。千秋はしぶしぶ腹をだすと二人ともドン引きした。

「うわ、すっげぇ」

「お見事…って感じだね」

 そういいながら、湿布を張ってくれた二人の兄は、苦笑いを浮かべていた。


「あのさ、兄貴たち、なんでいるんだ?」

 夏樹も春陽もすでに一人で自活している。なぜ、その二人が、今ここにいるのか、単純に千秋は疑問におもった。ああそれねと春陽が苦笑する。夏樹のほうは眉間に皺をよせ、千秋の問いに答えた。

「父さんに呼ばれたんだよ。千秋がひっぱられて、母さんが切れてるからなだめておいてくれってさ」

「まあ、僕たちがなだめるなんて無茶だよねぇ」

「ああ、そうだな。俺たちだってあの人には頭上がらないしな。飛び出していくのを辛うじて止められただけで、ありがたく思えよ。千秋。マジに俺ら胆が冷えたぞ」

 千秋が不思議そうな顔をしていると、二人は苦笑する。

「俺のときはげんこつだったな」

「僕のときはびんただったね」

 二人は不意にそんなことを言いだした。

「え?何それ?」

「俺たちにも思春期があったってこと」


 千秋からみた兄たちは自分の目標に向かって真っすぐ進んでいるようにしか見えなかった。だから思春期といわれてもピンとこなかった。兄たちはお互いの顔をみあわせ、軽いため息をつく。春陽はちょうどいいきっかけじゃないと夏樹にいうとそうだなと答えて、自分たちの思春期のできごとを話して聞かせた。


「俺は中学の時に興味本位で何人かの同級生に手を出したのがばれて、女の体で軽々しく遊んでんじゃねぇてげんこつくらったんだよ」

「僕は男遊びしすぎて、病気もらっちゃったときに、自分を大事にできないやつが誰を大事にできるんだって言われて、おもいっきりびんた」

「へ?嘘…」

 千秋にはすぐに信じることができなかった。いつも優秀なできのいい兄貴たちだと思っていたからだ。追いつきたいと思いながら、そうなれない自分に腹立たしさを覚えていたのも事実だっただし、とても(かな)わないとさえ、思っていた。

 千秋から見た夏樹はきっちりした性格で真面目だったし、春陽はいつもおだやかでやさしかった。女遊びとか男遊びとか……イメージなどみじんもない二人だった。


「ってちょっとまて。ハルにぃ今、男遊びっていったか?」

「うん、言ったよ。僕、ゲイだから」

「ナツにぃ…知ってたん?」

「知ってたよ。春陽が最初につきあったのって俺の担任だしな」

「あれは、まあ、偶然だったんだよね。自分がホモだって気が付いたときにさ、それを否定したい自分もいて、そういう人の集まる場所にいって誘われるままにやっちゃったって感じ。夏樹は母さんにしかられるまで、避妊ってものを知らなかったし」

「知ってたけど、向こうがいいっていうからさあ。まあ、今はちゃんと手順ふんで避妊してるぞ。あと、お付き合い中は浮気はしてないしな」

「それでも本命が、まだ落とせてないんだよね」

「嫌なこと言うなお前。自分が本命つかまえたからっていい気になるなよ」


(なに?なんなの?……)


「千秋、軽蔑した?」

 春陽はおだやかに笑いながら、そういう。千秋は驚きはしたが、嫌悪感は感じなかった。

「べ、別に……そういうんじゃなくて……」

 自分だけ何にも知らなくて、なんだかひどくいじけてしまった。

「ま、お前はまっすぐグレたから、そのうち何かしでかすとは思ってたけどな」

 夏樹はがしがしと千秋の頭をなでた。


 そのあと、夕食のとき母と二人で飯をくったが、あっちは何事もなかったようにいつもどおりで、なんであんなパンチがだせるのかわからないくらい普通だった。その日から千秋は、喧嘩は買うが一発で相手をのしてボコボコにするようなことはなくなり、学校にもきちんと通うようになった。

なりは、まあ、やさぐれたままだったが、二年の夏休みにはバイトを始めた。


そんな夏休みも終盤にさしかかったとき、千秋は彼女にであった。


「タカちゃん、今日はもうあがっていいよ」

「あ、はーい。おつかれっした~」

着替えて裏口から出ると月が真ん丸で妙にでかい気がした。


(もうすぐ夏休みも終わりか……)


 千秋は夏休みに花屋でバイトを経験することで、少し自分が成長したような気になっていた。去年はろくに家にも帰らず、繁華街をフラフラしていた自分が母の拳を腹にくらってから、こうして自分で稼ぐことを考えたことが不思議だった。

 千秋が月からふっと目を離して、視線を落とすとゴミ置き場のわきに白い足が見えた。泥だらけの小さな足。


(人形?勝手にすてて……)


 千秋は仕方ないなと思いつつ人形に近づくと、それが小学生くらいの裸の子供だとわかるまで数秒かかった。千秋に気が付いてはじかれたように、おびえた顔がこっちを見たと思ったら、逃げ出そうとして転ぶ。

 千秋はあわてて、羽織っていたシャツを脱いで、その子をくるむ。

「落ち着け。ゆっくり呼吸しろ。大丈夫だから」

 自分でも不思議なほど、声は落ち着いていた。頭の中では、警察だの救急だの、なんでこんな小さい子が素っ裸でこんなところにとか、いろいろぐるぐるしていたけれど。

「袖、通して。ボタン止めるぞ」

 千秋は、おびえさせないようにゆっくりと声をかける。少女は震えながらも、千秋の羽織らせたシャツに腕を通した。


(虐待か?)


 千秋が立てるかと手を差し出すと、ふるえる手を迷いながらも伸ばして、躊躇して、決意したようにつかんだ。ゆっくり立たせて、顔を見ようとしたら、首が折れるんじゃないかと思うほどうつむく。

「顔、みられたくない?」

 少女は小さくうなずく。千秋は背中をむけてかがんだ。

「おぶされ。これなら顔みえないから」

 そう言われて、少女はおずおずと背中に張り付いた。子供から伝わってくる体温が冷たい。暑い夜なのに、がたがたとふるえているのが背中越しに伝わってくる。いったい、どんな恐ろしい目にあったのか千秋には想像もつかなかったが、とにかく保護が必要なことはわかった。千秋は片手で背中の少女を支えて、もう片方で家に電話した。

「ああ、田村さん。急いで車まわしてくれる。店の裏の公園ね。それと美冬さん呼んでおいて。女の子ひろったから、至急みてほしいって伝えて……」

 千秋は人目のつかない裏通りを抜けて、彼女を背負ったまま、公園で車をまった。名前を聞こうと思ったが、ひどくおびえているので、今から自分のうちに行くことだけを伝えた。


 家に帰ると母が玄関で待っていた。

「美冬さんは?」

「すぐに来てくれるって言ってたわ」

 母はそういいながら、車の中でじっとしている子供をそっと促すように大丈夫よといって、車から降ろすと、抱きかかえてお風呂に入ろうねといって連れて行った。その後、すぐに女医の景山美冬(かげやま ふゆみ)が来て事情を話したら、バスルームに駆け込んでいった。

 千秋は執事の田村に入れてもらったコーヒーをなめながら、あの子のことを考えていた。車に乗せたときも、顔はうつむけたままで小さく震えていた。なんとなく、その小さな手に千秋は手を重ねた。震えが少しでも止まればと思った。重ねた手にびくりとしたから、手を離そうかと思ったけど、千秋はなぜだかぎゅっと握りしめてしまって、そのまま無言で家に帰りついた。


(これからあの子はどうなるんだろう)


 そんなことをぼんやりと考えていると、リビングに母が戻ってきた。

「田村さん、車だしてちょうだい。今から美冬とあの子、病院につれていくから。千秋はさっさと寝なさいね」

「ちょっと母さん。あの子、どっか怪我してたのか?」

母は悲しそうに言った。

「心と体に大けがしてるわ。あんなひどいまねができるのは、人間のクズよ」

「それって…虐待?」

「そっちの線は薄いわね。子供っていうのはどんな虐待をされても、家を逃げ出すことはないから…簡単に言ってしまえば、性犯罪ってことだけど…」

母は深いため息をついて、リビングを後にした。


(性犯罪って……)


 あんな小さな子に、いったいどんな真似をしたのか。千秋には見当もつかなかった。その晩は、よく眠れなかった。どこかであの子が泣いている気がした。声の出ない声で。震えるからだを必死に抱えて。その背中に手を伸ばしては、目を覚ました。


 翌朝、遅い朝食を食べはじめたところに、二人の刑事がうちにやってきた。事情聴取ということらしいので、食事を中断して千秋は応接室に入った。

「よぉ、元気そうだな」

 軽い口調であいさつしてきた男は、千秋が一度世話になった夏沢所の刑事、久我義孝(くが よしたか)だ。くたびれたサラリーマンのようにどこにでもいそうな感じのおっさんだったが、眼光は鋭い。もう一人の方は女性だった。すっと立ち上がって千秋にむかって警察手帳を見せると、抑揚のない声で

「夏沢所生活安全課の宮部清香(みやべ きよか)です。月島蒼(つきしま あおい)さんについてお伺いしたいので参りました」

と言った。

「ツキシマアオイ?」

おめぇさんが拾った子供だよと久我が言う。

 千秋はとりあえず、テーブルにつく。宮部は淡々と質問を始めた。あの子をどこで見つけたのか、警察や病院に連絡しなかったのはなぜかとか……。

「きぃわるくすんなよ。こいつ、今かなり頭にきてるからな」

「うちの母親もかなり腹にすえかねてましたよ。で、要するにあの子は事件にまきこまれたってことですよね」

「ああ、夏休みに家族旅行に行く途中で、誘拐されたんだよ。このひと月、行方不明でな。駅前で誘拐されたようだったから、すぐに見つかると踏んでたんだが……」

だれも目撃者がいねぇんだと久我はため息をついた。

「駅前って…そんな人目の付くところで、なんで……」

集団心理ですと宮部は言った。


 千秋が怪訝(けげん)な顔をすると彼女は、説明した。

「人が多い場所は、誰もが無関心の心理状態なんです。目の前で、人が刺されてもすぐに気が付いて、助ける人は少ない。自分が行動しなければならないという考えが起こりにくい状態になる。だから、彼女が誘拐される瞬間をたとえ目撃していたとしても、記憶にとどめていることはないんです」

関わりたくないという心理もはたらいているのでしょうと宮部は付け加えた。

「それで、あなたはなぜすぐに警察や病院に連絡をいれなかったんですか?」

ひどく冷たい声で宮部は言った。

「それは……そうすべきってのはわかってましたよ。ただ、おびえ方が尋常じゃなかったんだ。落ち着かせることが最優先だって……そう思ったから家に連れてきたんですけどね」

「ま、それはある意味正解だったよ。治療や検査がすんで、本人の意識がはっきりしたとたんひどくおびえてな。両親が来たのに、まったく落ち着かない。紫さんがいなかったら、ベッドに縛り付けないといけないような状態だったらしい」

「母が?何かしたんですか?」

「うーん、どういうわけか、彼女が持ってた青いシャツでくるんでやったら、少し落ち着いたって話でね。両親が来たということも、そのとき自覚したようなんだが……親が抱きしめても、体を堅くして顔を見せない状態だからな。事情聴取なんて絶対無理ってことで、俺らはお前さんのところに来たってわけだ」

「犯人につながる手がかりが欲しいのです。捕まえたからといって彼女の心が癒されるわけではないんですが、私たちにはそれしかできないので……」

宮部の口調に悔しさがにじんでいる。

「手がかりって言われても……」

「どんな小さなことでも構いません」


 千秋はあの夜のことを必死で思い出す。そしてふっと水とつぶやいていた。

「そうだ。髪が濡れてた。あの日、雨は降ってなくて……」

それからと久我が静かな口調でそれでと千秋に先を話すように促す。

「足は泥だらけで……あの辺で泥が付くとしたら、店の裏の公園くらいかな……」

宮部はさっと地図をテーブルに広げる。バイト先の店を中心にした地図だった。

「公園とはこれですか」

そうだと千秋はうなずく。

「久我さん」

「そうだな、とりあえずいってみるか。今日はこれでおいとまするよ」

そういって二人は帰って行った。


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