意識と無意識の境界線 〜 ĵaluzo
暗がりの中で嫌な感情が虫のように蠢いている。最初、浴槽に一滴の墨を落としたようなものだったが、それが徐々にうねりを見せはじめ、禍々しく主張しはじめた。
(何だろうこの感情、気持ち悪い・・・)
ひたすら吐き気にも似た気持ち悪さに耐えながら、自分の腹の中をグルグル巡っている不快感のもとを見つけようと暗がりの中で意識を集中させる。
(あ・・・これは・・・。知ってる。この感情の名前は『妬み』だ)
どうしてこの感情が一人歩きしているのか必死で考えようとするが、禍々しいうねりは大きくなる一方で下から突き上げるように膨らんできてそれどころではない。
(気分悪っ・・・このままだとモタナイかも・・・)
この不快感から逃れるように、“わたし”は暗闇の中を闇雲に足掻いたーーー。
“わたし”は雪山に居た。状況が飲み込めず自分の中に集中してみれば、どうやら誰かを待っているようだ。皆より先にケーブルカーに乗ってしまい山上の停留所にいるようだ。室内にいるようで寒さはそれ程感じない。
“わたし”は、待っている。
(誰を?)
“わたし”は、夫を待っている。夫は趣味仲間と一緒に後からやって来るはず。
そう思って出迎える為にケーブルカーの降車場で待機している。予想通り、夫と仲間はすぐにやってきた。仲間と一緒に笑っている夫の顔が見える。仕事から離れ、心から笑っている夫はとても楽しそうだ。それを見ている“わたし”も嬉しくなった。
(“この人”も嬉しそうだわ)
“わたし”とは違う感情をもう一つ感じる。
夫と目が合うと、夫の想いが流れ込んで来る、とでも言うべきか、くったくのない笑顔を“私”に向けた夫の気持ちが伝わってきて自然と“わたし”も笑顔になる。
「ごめん、待たせたね。さ、行こう」
夫はそう言って私の手を取った。私も夫に笑みを返す。その瞬間、突如として別の感情が流れ込んで来た。
(あ、嫌だ。これ、気持ち悪い・・・誰?)
すぐに周囲を見渡したかったが背後からの不快な感情に絡めとられる様な感覚に陥り、内心焦ってしまう。呼吸が荒くなり足を止めてしまった。
夫が笑顔で振り返ったのをきっかけに、ふっと心身共に楽になる。今のうちにと、さっと後ろを見ればそこには一人歩いて来る女性の姿があった。
(あの人も来てたのね)
私と夫が付き合い出した頃に夫から知人の一人として紹介された事がある。挨拶をしたが無視をされた事を思い出した。その後も何度か会っているが親しく話した事はない。夫の元の彼女かと思い夫にさりげなく聞いてみたが全くそんな事はないようで、ケラケラ笑いながら、趣味仲間もしくは知人の域を出ないと言っていた。
ただ、何度もメールのやり取りをしているのは知っている。夫は私が気にしていると思ったのか、自分からメールを見せてくれた。彼女のサークルでの役割はまとめ役だ。だから他のメンバーともメールのやり取りはするし、ただそれだけだと夫は言う。
時々、夫はふざけて「趣味は猫と奥さんです」と言っているようだ。それを本人から聞かされた時には、顔から火が出る程に恥ずかしかったが、夫の私を見る目はいつも優しい色を湛えているのであながち半ば本気で言っている気がする。
今も繋がっている手から、絶え間なく暖かな気持ちが送り込まれて来るのを感じている。
だがそれとは真逆の感情も今まさに、私に纏わり付いてきている。
(間違いない、あの女の人からだわ)
この繋いだ夫の手が無ければ恐怖で一歩も動けなくなっていたかもしれない。気持ちを落ち着けようと目を閉じ深く呼吸をする。二、三度呼吸を繰り返した所で、背後から一気にトゲトゲしいものに全身を射抜かれた。彼女の居る方向からそれは発せられている。同時にどす黒い色をした感情が流れ込んできた。
(ぐ・・・はっ。苦しい・・・)
殆ど息が出来なくなる。目蓋の裏には、じっとりとした目でこちらを見ている彼女の姿が映し出される。その恐ろしい表情に思わず声を出しそうになるが夫の手をグッと握りそれに耐えた。
(このままココに居たらいけない)
直感でそう感じるが体が動かない。ギュッと眉を寄せて耐えていれば夫の声が聞こえてきた。
「大丈夫か? 寒いのか?」
夫から柔らかな感情と少しの心配がすぅっと流れ込んできた。それは私の中に渦巻いている禍々しいものを流れ込む先から浄化していく。
(助かった・・・。この人が一緒に居てくれれば私は生きて行けるわ)
ゆっくりと目を開ければ目の前に心配そうな夫の顔がある。あまりの近さに少し驚いてしまったが、心から微笑む事が出来た。
「大丈夫。ごめんね、心配かけて」
夫は私の顔を見てほっとした顔になった。
「心配するのは夫の特権だ。気分が悪くなったら我慢せずに言うんだぞ。とりあえずこれで今は我慢して」
そう言うと繋いでいた手を離し、肩に手を回してきた。
「少しは寒くないよね?」
夫は優しい笑みを見せると、私の返答は待たずに先を行く仲間の所へと促された。触れられている所、全てから私への想いが流れ込んで来るのを感じる。そして先ほど流れ込んできた凍える様な、禍々しい様な感情が薄まる。一瞬ほっとするが、背後から針で刺すように流れ込んで来る感情は続いている。私はギュッと夫の服を握ると腕の中に隠れるように身を寄せた。
「そうそう、いつもそうしてくれると良いんだけどね」
頭の上から楽しげな声が降って来る。
(人の気も知らないで、もう)
恨みがましく口を尖らせ見上げれば、恍惚とした目で見られていた。
まるで極上のショコラを口にした様な感情が流れ込んで来る。“わたし”と“この人”の感情が二重になって共鳴しはじめた。
“わたし”はほっとする。
(この禍々しい感情の渦から、守ってくれる人のいる“この人”は大丈夫)
そう感じれば徐々に感覚が薄くなってくる。先ほどまでの背中の凍る様な感じも無くなった。そして再び暗闇に吸い込まれる感覚に、抵抗せずに身を委ねたーーー。
「どこに行くの?」
ふわふわとしたくせ毛を揺らしながら若い男性が私の後を付いて来る。
「山の雪を溶かさないといけないの」
私はそう言うと、ふいっと男性に背中を向けてスタスタと山頂へと登って行く。声を掛けてきた男性の事は直ぐに忘れた。ただ、目的を果たさなければならないという使命感だけが私を占めている。不思議と深く積もった雪に足を取られる事も無く山頂へと到達する。
(雪の中を歩くのは苦手だった気がするんだけど・・・)
果たしてそういう経験をした事がある様な気がするが、雪は私の行く先では何の障害にもなっていない。むしろ私が足を付いた先はゆるゆると雪が溶けて地面が顔を出す。
「大変そうだね。僕も手伝うよ」
驚いて声が聞こえた方へ首を向ければ、恐らく先ほど声を掛けてきた男性がいた。
「物好きね。遊びじゃないの。全部の雪を溶かさないといけないの」
「分かってるよ。だから手伝うって言ってるの。僕、スキーで滑り降りるから」
「そう。私は自身で滑り降りるわ」
手伝うと言う男性の事は全く気にせず私は自らの足で山肌を滑り降りる。最初は全然うまく溶かせない。だが滑り降りて行くうち、山裾に近づくと雪は重みを増し雪解け独特の水っぽさを足の裏から感じる。
「これでいいわ」
小さな達成感を感じる。そして足を止め再び登ろうと振り返れば男性が軽快に滑り降りて来るのが見えた。
「置いて行くなんて酷いね。一緒に行きたいのに」
「私は任務さえ果たせればそれでいいの。あなたは私の邪魔をするのでなければ好きにすればいいんだわ」
私は裾野から山頂へ向かって滑り登ろうと試みる。水っぽさを増した雪は滑りは悪いが登れなくはない。ゆるゆると滑り登りながら中腹まで来た。そこには白い髪に白い髭を蓄えた壮年の男性がいた。
「やぁ頑張っているね。だけど今は頂上まで行かなくても良いよ。この辺から下だけでいい」
ニコニコと髭の男性は笑いながら話しかけてきた。
「そうはおっしゃいますが全ての雪を溶かすのが私の役目ですわ」
「いいからいいから僕の言う事を聞いてここいらでちょっと休憩しなさい。そこの君も一緒においで」
いつの間にやってきたのかくせ毛の男性がぴたりと私の横にいた。私がちらりと見れば、口の端を上げてニヤリと返してきた。
「さ、休憩だ」
「雪の中でですか?」
「そうだよ。虫を捕まえよう」
「虫ですか?」
「そう、虫。これから人間が集まって来る。そこに虫もいる。君と僕はその虫をこの粘着テープで捕獲するんだ」
どこから出したのかクルリと巻かれたテープをちぎってよこした。
「捕獲しないとどうなるのです?」
「虫が悪戯するんだ。精神を吸ってその代わりに負の感情を植え付ける。今から一組の夫婦が通るからね、その旦那さんの方に虫がついている。取って上げよう」
何がどうなっているのか理解できずにいたが、目の前に現れた集団には見覚えがあった。そして寄り添っている一組の夫婦に目が吸い寄せられる。
(夫の顔、あんなだったかしら?)
眉間に皺を寄せて不機嫌そうだ。幸せそうに微笑んでいた夫と同一人物とは思えずつい凝視してしまった。よく見れば夫に何かくっついている。
(あれがさっき聞いた虫ね。悪い虫は退治しなければ!)
私はくせ毛の男性から渡されたテープを持ち、虫をめがけて手を振り下ろす。だが、虫はちょこまかと動き回りなかなか捕まらない。時の経つのを忘れて私は夢中で虫を追い掛けた。ようやく虫が疲れたのか動きが鈍くなる。夫の服の上で動けなくなっていた所を手で払い落とせばコロコロと転がって行く。私は慌てて粘着テープを押し付ける。ようやくテープに付着した虫と対面した。
その姿は夫の精神を沢山吸い丸まるとしている。
「こんなに吸って!」
私は憤って虫に怒りをぶつけた。
「はいはい。その虫の処分は僕の役目ね。捕獲ご苦労さん」
くせ毛の男性は虫を手に取ると容器に詰め込む。
「これでもう大丈夫。あの人もね」
指を指す先にいる夫は呆然と文字通り憑き物が落ちた様な表情をしていた。あんなに深く皺を作っていた眉根は元に戻り、今度は眉尻を下げている。そしてそんな夫の変化を心配そうに妻が見上げている。
「もしかして原因はあれかしら?」
私は離れた所から夫婦を睨みつけるように見ている女性に気づいた。
「ははは。あれはもう手の施し用がないねー。見てご覧、あの体からはみ出た大きな黒い固まりを。あれから卵が落ちて夫の方に付いたんだ。そして精神を吸われ負の感情を入れられた。今回は君のお陰で対処が早くて済んだから良かったよ」
夫婦を睨みつける女性の体に重なるようにして黒い影が見える。目を凝らせば随分大きな虫のようだ。先ほど捕獲した虫の親なのだろう。
私はブルリと震えた。
「・・・私はあの妻を知っているわ」
「へぇ。どうして?」
「どうしてと言われても。・・・ただ、私はあの妻になっていたわ。あの妻の目を通して夫を見た事があるの。夫は妻の事を深く想っているわ」
「そうなんだ・・・。なら早く退治できて良かったね」
「同時にあの女性から禍々しい感情で刺し貫かれた事も覚えている。あれは実に不愉快で、邪悪だったわ」
尚も、夫婦を睨みつけている女性を見て私はその時感じた感情を思い出し、再度ぶるりと震えた。
「うん、ああなる前に手を打てれば良かったんだけど、小さな思いが年を経るごとに少しずつ少しずつ膨らんでしまったんだな。そして急成長してしまった」
「元には戻せないの?」
「あれは育ち過ぎた。今回みたいに介入して強制退場させると精神が崩壊する。だが放っておいてもその内崩壊するだろう。本人が気づいて自ら解決しないことにはね」
「そうなの・・・」
先ほどまで不愉快の対象でしかなかった女性に、ほんの少し哀れみを感じ思ったより沈んだ声が出てしまった。
私とくせ毛の男性は再び仲睦まじく寄り添う夫婦に目を向ける。
「互いを思いやる心があれば、あの夫婦は大丈夫だ」
私を元気づけようとしてか、くせ毛の男性は明るい声でそう言うと、ぽんと私の肩を軽く叩いた。そしてそのまま肩を後ろへ押される。
(倒れる!)
そう思って受け身を取ろうととっさに体を捻ろうとしたが、まるで目に見えないものにホールドされたように指一本動かせなかった。
「ったく、目を離すと直ぐにこれだ。夢を渡るのは君の体質かもしれないけれど、移入しすぎ。自我を失いかねない事態になるんだから少しはコントロールする術を覚えてもらわないと先が思いやられるぞ。あ、僕じゃなくて青蓮様がね」
くせ毛の男性は肩をすくめると苦笑した。
私は全て見え、全て聞こえているがどこか遠いところで感じている。
「ほら、もう。言った側からこれだ。瑠璃姫、あなたの引き寄せられる夢は灰汁が強すぎる。そして対象者に対する影響も大きい。もちろんあなた自身への影響もね」
この若い男性が小言を言うとは、内心クスリと笑えば、
「余暉だよ。忘れたの? もう、この状態の瑠璃姫は危険すぎる。青蓮様に進言しなきゃ」
(余暉。雪はどうなったかしら?)
「はぁ・・。幻夢だよ、瑠璃姫。・・・って言っても無理か」
(雪が溶けねば新芽がでないでしょう?)
「そうですね。雪崩も起きずに無事に溶けましたよ。これでいいですか?」
呆れた様な余暉の声が聞こえる。
(そう、それならば・・・良いわ)
私は余暉の答えに安心すれば、すかさず、すぅっと何かに引き寄せられるのを感じる。体が重い。だが意識は少し明瞭になった気がする。
「ほら青蓮様もご心配のようです。もう、無闇に抜け出さないで下さいよ。どうしてもって時は誰かが側に居る時にして下さい」
(・・・煩いわねぇ余暉は)
「あなたが無防備すぎるのです!」
思わずと言った様子で余暉が声を荒げた。だが、ふわふわの癖っ毛が何を言っても、ひよこがピヨピヨと言っているようにしか聞こえないのが不思議だ。そう思い、思わずにんまりと口元を綻ばすと
「・・・ちぇっ。いつまでも子ども扱いしてさ」
余暉は口を尖らせて拗ねている。
(悪かったわ。そんなに怒らないの、良い子だから)
「それが子ども扱いしているっていうんです! くそ! 絶対見た目で損してるよな俺」
(俺?!)
「あーもう! どうせ似合いませんよ。笑わないで下さい!」
どうやらいじめ過ぎたようだ。このあたりでご機嫌を取っておかなければと感じる。
(余暉、余暉。今日はありがとう。余暉の言う通り今後は出来る限り気をつけるから)
「約束ですよ。姫のお祖母様からも注意されているんですからね」
(はいはい。そんなに皆して暇なのかしら)
「青蓮様のご心中やいかに・・・。無自覚、無防備を絵で描いたような人だ」
なおもぐちぐちと言い続けている余暉を横目に、私は徐々に意識が遠のいて行く。本当の眠りに入るのだ。これならば余暉も文句は無いはずよね・・・おやすみなさい・・・
「あーあー唐突に寝ちゃった。マイペースってこう言う人のことを言うんだろうな。今日は僕が側に控えておりますから、安心してお眠り下さい瑠璃姫」