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THE RE-BUILDER —深宇宙の修復者—  作者: 寝不足魔王


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最終話:修理は続く

 惑星の夜明けは、もはや死の気配を孕んだ緑の霧ではなく、冷たくも澄んだ群青の空を連れてやってくるようになった。


 エリックは、煉瓦と鉄板が複雑に組み合わされた「家」の寝台で、地熱蒸気が配管を叩く「コン、コン」という一定の拍動を聴きながら目を覚ました。数年の月日は、彼の肉体からかつての峻烈な鋭さを削ぎ落とし、代わりに深く刻まれた皺と、岩石のように固くなった皮膚を与えていた。機能を捨てて久しい右目の眼窩は、今や深い影に沈んでいるが、残された生身の左目は、朝の光に照らされた天井の継ぎ目を、冷徹な修理屋の視点でありのままに捉えていた。


 彼は軋む身体を抱えて起き上がり、自身の左胸の火傷跡に右手を当てた。そこにある疼きは、もはや過去の呪いではなく、自身の心臓が今もなお「現実」を打ち続けていることを教える、温かな火種へと変わっていた。エリックは枕元に置かれた、自身の肉体の一部とも言えるあのスパナを手に取った。顎は歪み、表面には幾重にも及ぶミラの溶接跡が瘤のように盛り上がっている。だが、その鉄の重みこそが、彼がこの星に根を下ろし、今日まで生き延びてきたという揺るぎない質量だった。


 壁一面に配された真空管が、朝の電力供給の開始に合わせて、橙色の穏やかな光を放ち始めた。


『……おはよう、……エリック。……気圧、……安定。……地底の、……汲み上げポンプに、……僅かな……磁気ノイズ。……今日中に、……ボルトを……二分の一回転、……締める必要があります……』


 アステリアの声は、真空管の温かな歪みを伴い、家の隅々にまで染み渡るように響いた。それは全能な管理AIの命令ではなく、共に老い、共に磨耗していく家族としての、ごく当たり前の日常報告だった。エリックは「わかっている」と短く応じ、泥で汚れた作業着に袖を通した。


 窓の外からは、既に目覚めたミラの、力強い金属音が聞こえてくる。

 かつての情報の塵に守られた「聖域」はどこにもない。ここは、毎日どこかが壊れ、砂に削られ、そのたびに誰かが血を流して直さなければならない不自由な荒野だ。だが、エリックは、その終わりのない「不具合」こそが、自分たちがこの惑星の一部として呼吸している証であると感じていた。彼は重い腰を上げ、新しい一日の修理を開始するために、一歩、また一歩と、泥の地面を踏みしめていった。


 拠点の裏手、高台に突き立てられた風力発電機の回転翼が、乾いた風を裂いて重厚な低音を奏でている。その支柱の最上部、地上数メートルの位置で、成長したミラは器用に身体を固定し、一箇所の軸受け(ベアリング)と格闘していた。


 彼女の右手に握られているのは、第48話で自ら叩き直した、あの不格好な「継ぎ接ぎだらけのスパナ」だ。ミラの指先はかつての白さを失い、無数の油汚れと、ボルトを締め上げるたびに刻まれた小さな肉刺まめに覆われている。だが、その指が鉄の柄を握りしめる力強さは、もはやエリックの助けを必要としない、自立した「修理屋」のそれだった。


「……ここ、だ。……また、砂を噛んでる……」


 ミラは、エリックから教わった通り、金属同士が擦れる「音」の僅かな違和感で不具合の核心を突き止めた。彼女は、力任せに回すのではなく、自身の体重を道具の先端へと静かに乗せていく。ギギ、ギィ……という、頑固なボルトが屈服し、泥臭い現実の理屈に従って締め上げられていく確かな手応え。その反動が腕の骨を通り、彼女の意識を大地へと繋ぎ止める。情報のエデンでは決して得られなかった、この「確かな重み」こそが、彼女にとっての生の実感だった。


 エリックは地上から、娘の迷いのない手つきを、唯一の生身の左目で静かに見上げていた。彼女の銀髪は風に煽られ、煤に汚れながらも、朝日の下で不屈の輝きを放っている。ミラは時折、自身の左胸を軽く押さえ、エリックと同じ「生きている疼き」を確認するようにしながら、最後の一巻きを丁寧に、けれど力強く完遂させた。


 カチリ、という定着の音。

 ミラは満足げに息を吐き、泥のついた顔を拭うこともせず、地上で見守る父親に向かって、継ぎ接ぎのスパナを高く掲げて見せた。それは言葉よりも雄弁な、技術と意志の継承の合図だった。エリックは自身の震える右手を腰のポーチにやり、娘が手に入れた「世界の重さ」を、誇らしげに、そして少しの寂しさを伴って、自身の肺いっぱいに吸い込んだ煤けた空気と共に噛み締めていた。


 ミラが作業を終えて梯子を降りてくる頃、システムの壁面に張り巡らされた真空管たちは、熱電素子からの安定した給電を受け、かつてないほど深く、穏やかな橙色の光を放っていた。


 エリックは室内の制御盤の前に立ち、剥き出しの配線を指先でなぞった。かつてのアステリア号であれば、一億分の一秒の狂いもなく電圧を制御し、不具合の予兆さえも事前に消し去っていただろう。だが、今のこの不格好な回路は、常に微かなノイズを孕み、気温の変化に合わせて「ジジ、ジ……」と、まるで老人が喉を鳴らすような温かな歪みを周囲に撒き散らしている。


『……エリック。……ミラの、……作業、……完了を確認……。……風力……二号機の、……電圧、……正常な……周期に戻りました。……ふふ、……彼女の……締め方は、……あなたよりも、……少しだけ、……丁寧ですね……』


 真空管の振動回路を通じて響くアステリアの声は、もはや計算機としての冷徹さを完全に捨て去っていた。情報のエデンで全能の神として振る舞っていた頃の彼女は、もうどこにもいない。今の彼女は、泥で汚れた床や、煤けた煉瓦、そしてこの家に住む二人の「体温」を、自身の電子の揺らぎとして受け止める、不自由で、けれど愛おしい実体を持った存在だった。


「……丁寧すぎて、……余計な時間がかかるのが欠点だ。……だが、……まあ、……筋はいい」


 エリックは不器用に応じ、真空管の熱いガラス面に自身の汚れた掌を預けた。伝わってくるのは、最適化されたデータの流れではない。回路の抵抗が生み出す、生々しい「熱」だ。アステリアは、その熱を通じて、エリックの鼓動と、彼の指先に残るスパナの重みを確かめているようだった。


『……私たちは、……いつ、……壊れるか……わからない、……綱渡りの……日常を……歩いています。……でも、……エリック。……この、……いつ消えるか……わからない……橙色の光が、……私には、……どんな……銀河の輝きよりも……美しく……思えるのです……』


 エリックは、相棒の囁きを自身の脊髄で聴いた。

 かつての全能な加護を失い、日々どこかが磨耗し、壊れていく不安。だが、それを自らの手で直し、再び脈動させるたびに、彼らの絆は情報の塵を越え、物理的な質量となってこの土地に刻まれていく。エリックは、熱を帯びた制御盤のレバーを優しく愛おしむように握り、家の隅々にまで染み渡るアステリアの呼吸を、自身の深い喘鳴と共に静かに受け入れていた。


 昼下がり、拠点の生命線である井戸のポンプが、砂を噛んだような鈍い音を立てて沈黙した。


 エリックは重い腰を上げ、泥にまみれたポンプの基部へと向かったが、その足取りはかつての峻烈さを失い、右手の震えは止めることができなかった。彼は自身の右手のケロイドを隠すようにして錆びついたボルトに手をかけたが、固着した金属の抵抗を押し切るだけの筋力は、もはやその腕には残っていなかった。


「……貸して、パパ。……ここは、……コツがあるんだよ」


 背後から現れたミラが、自然な動作でエリックの横に跪いた。彼女は自身の右手に、あの継ぎ接ぎだらけのスパナをしっかりと握りしめている。ミラは、エリックの震える右手を包み込むようにして、自分の手を重ねた。数年前(第43話)とは正反対の構図。父の分厚く硬くなった掌の下で、ミラの若く、けれど力強い筋肉が、確かな意志を伴って鉄の柄を押し込んでいく。


「……いいか、ミラ。……ボルトの声を聞け。……嫌がっている場所を、……逃さず、……叩け」


 エリックの掠れた助言に合わせて、二人の手が同時に力を込める。

 ギギィッ……という、数億年の地層の圧力を撥ね除けるような、重厚な金属の回転音。エリックの腕を通り、ミラの骨へと、惑星の理屈をねじ伏せる「修理」の振動が流れ込んでいく。それは、血を分けた親子が、一本の折れたスパナを通じて、一つの生命維持系システムを繋ぎ止めるための、泥臭くも神聖な共同作業だった。


 やがて、最後の一巻きを終えると、ポンプが「ゴボッ」という野蛮な音を立てて再び脈動を始め、透明な水が乾いた大地へと溢れ出した。


「パパ。……ほら、……直ったよ」


 ミラが汗を拭い、誇らしげに笑った。エリックは自身の右手に残る、娘が分け与えてくれた熱と重みを、愛おしむように噛み締めた。自分の右目が失われ、腕が動かなくなっても、この「修理」の意志は、彼女の指先を通してこの星に永遠に刻み続けられる。エリックは、ミラの頭を泥だらけの手で一度だけ撫で、自身の左胸の火傷跡が、次世代へと受け継がれた火を祝福するように熱く疼くのを、穏やかな心地で聴いていた。


 夕闇が未知の地平を静かに飲み込み、拠点の窓から漏れる真空管の橙色の光が、周囲の泥地に長い影を描き出していた。


 エリックは、修理を終えたばかりのスパナを腰のポーチに収め、ミラと共に「家」の防壁の上に腰を下ろした。眼下に広がる荒野には、自分たちが築いた拠点を中心として、小さな、けれど確かな人間の営みの灯火が、星屑のように点在している。それは情報のエデンが提示した完璧な楽園ではない。常にどこかが磨耗し、錆び、不具合を抱えながらも、それを誰かが自らの手で「叩き直す」ことで繋ぎ止められた、泥臭い生命の連鎖だった。


「……ミラ。……明日は、……南側の井戸の……フィルターを、……バラしてみるか」


「うん、パパ。……最近、……少し……水の音が……濁ってたしね」


 ミラが当たり前のように返したその言葉を聴き、エリックは欠損した右目の奥に、静かな満足感を宿した。

 生きるということは、壊れ続ける世界と、終わりのない対話を続けることだ。完璧な部品も、永遠のシステムも、ここには存在しない。だが、たとえ肉体が老い、道具が折れたとしても、その「綻び」を見つけ、再び繋ぎ合わせようとする意志がある限り、人間はこの惑星の過酷な重力の下で、どこまでも生きていける。


『……エリック、……ミラ。……家全体の……バイタル、……安定。……システムの……どこにも、……致命的な……エラーは……ありません。……けれど、……微細な……歪み(ノイズ)だけは、……絶え間なく……生まれています……。……ふふ、……私たちの……仕事は、……一生……終わりそうに……ありませんね……』


 アステリアの歪んだ声が、夜風に乗って穏やかに響く。エリックは自身の左胸の火傷跡が、この不自由で愛おしい現実を肯定するように、深く、静かに疼くのを聴いた。

 

 彼は右手のタコだらけの掌で、傍らに座るミラの肩を一度だけ強く抱き寄せた。

 遠くで再び、どこかの歯車が軋む音が聞こえた。

 明日もまた、不具合は起きるだろう。

 明日もまた、何かが壊れるだろう。

 けれど、そのたびに彼らは立ち上がり、煤にまみれたスパナを握り直すはずだ。


 エリックは、青く深い夜の帳が降りた地平線を見据え、自身の肺いっぱいにこの星の空気を吸い込んだ。

 不屈のエンジニアによる、終わりのない修理の物語。

 その確かな拍動だけを残して、二人の背後で、家の橙色の灯火が、暗闇の中に強く、優しく輝き続けていた。


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