6話
僕はそのまま昇降口を抜けて、校舎の中に入った。
授業はもう始まっていたらしい。
廊下は静かで、窓の外の明るさだけが妙にのんきだった。こちらが遅刻していることなんて、最初からどうでもいいみたいな顔で、朝の光だけが普通に差し込んでいる。
遅刻はしているけど、もう急ぐ気にはなれなかった。
今さら急いだところで、遅れている事実が消えるわけでもない。むしろ慌てている姿まで追加されるだけだ。
もっとも、その普通の歩き方も、たぶんあまり前向きなものではなかった。
面倒なものを受け取りに行く人間の歩き方、というのがいちばん近い気がする。
二年A組の前まで来て、一度だけ息を吐いた。
扉を開ける。
先生が言葉を切って、教室の空気が一斉にこちらを向いた。
毎回思うけれど、何人かに順番に見られるより、全員に一度に見られるほうがずっと厄介だ。恥ずかしいというより、処理が面倒だった。
「……すみません」
必要な分だけ言って、自分の席へ向かう。
誰かが何か言ったわけではない。
でも、視線というものはそれだけで十分にうるさい。椅子を引く音まで少し大きく感じた。鞄を机の横に掛けて、ようやく前を向く。
それで、この件は終わりだと思っていた。
少なくとも、そのときの僕はそう思っていた。
しばらくして、また教室の扉が開いた。
反射みたいに、僕もそちらを見た。
たぶん、僕だけじゃなかったと思う。授業中に扉が開けば、誰だって少しは見る。
朝倉だった。
先生に短く何か言って、そのまま教室の中へ入ってくる。
見慣れた朝倉珠里だった。教室にいるときの朝倉。よく目立って、自然に周囲の視線を受け止めて、しかもそれを気にしていないように見える側の人間だった。
朝の校舎裏で見た姿とは、やっぱり少し違っていた。
違うというより、分けて見たくなる。
猫に話しかけていた朝倉と、教室に入ってくる朝倉は、たぶんどちらも同じ本人なのに、同じ棚にはまだしまえなかった。
朝倉はそのまま自分の席へ向かいかけて、途中でほんの一瞬だけこちらを見た。
口元が少し動いた。
笑った、というほどではない。
たぶん、見ようとしていなければ見落とすくらいの変化だった。ほんの少し、表情の端がゆるんだだけだった。
それでも僕には分かった。
僕はすぐに視線を外した。
何か返すような場面でもないし、返せるほど器用でもない。ただ、朝の校舎裏にあった空気が、そのまま教室の中まで入り込んできた感じがして、少しだけ落ち着かなかった。
休み時間になって、水野が後ろから机を軽く蹴った。
「生きてたな」
「ぎりぎり」
「本?」
「本」
それだけで、水野はだいたい察した顔をした。
僕の遅刻理由なんて、その程度の予想で十分なのだろう。
「正門、ほんといたろ。あの先生めんどくさいからな。」
「いたよ、本当に助かった」
「珍しく素直じゃん」
「見られて正門を通るのが面倒だったから。助かった。」
水野は短く笑った。
それ以上は聞いてこなかった。こっちも話を足さない。校舎裏のことは、説明するほどのことでもない気がしたし、内緒と言われているので僕もこれ以上話を足すこともできない。
そのまま授業が終わって、放課後になった。
ノートをしまい、鞄を持つ。
教室のあちこちで椅子が鳴って、誰かの声が重なる。いつもの放課後の音だった。
朝倉のほうを見るつもりはなかった。
なのに、気づけば視界の端で拾っていた。
友達に囲まれていた。
自然に話して、自然に笑っていた。
誰に対しても軽やかで、あの輪の中にいることに何の無理もなさそうに見える。たぶん実際、無理をしているわけではないのだと思う。あれも朝倉の一部なのだろう。
それでも、朝の姿を見たあとだと、少しだけ見え方が変わる。
どちらが本当、という話ではない。
どちらも本当なのだと思う。けれど、一度別の場面を知ってしまうと、それまでみたいにひとつの印象だけで片づけられなくなる。
人を知るというのは、たぶんそういうことなのだろう。
もっとも、そのときの僕は、そんなふうにきれいに整理できていたわけじゃない。
ただ少しだけ、前と同じではなくなっていた。
僕は近づかず、そのまま教室を出た。
帰り道に出る。
本当なら、そのまま帰ればよかった。
家に帰って本を読むなり、適当に時間をつぶすなりすれば、それで一日は終わるはずだった。
でも、足が少しだけ予定から外れた。
自分で決めたというほどはっきりした動きではなかった。
気づいたら、駅前の薬局の前に立っていた。
自動ドアが開く。
中は明るかった。
棚がきれいに並んでいて、洗剤も菓子も文房具も、同じ顔をして置かれている。必要なもののための場所というより、必要かどうかよく分からないものまで一応揃っている場所だった。
僕は籠も持たずに中へ入った。
見るものは決まっていた、それを探すために通路を歩く。
でも、本当に買うつもりかは決めかねているしどうかしてると思う。
少なくとも、そのときの僕はそう思っていた。
ただの気まぐれで、意味のない寄り道だと、自分ではそのつもりだった。
本当にそれを買ってどうするのか、今日の自分は今振り返ってもおかしな行動をしてると思う。
目的の棚の前で立ち止まりかけて、なぜかそれを買う自分が恥ずかしくなり意味もなく歩く。そういう曖昧な動きを繰り返していた。
たぶん、その日の朝から、僕の中では少しだけ何かがずれていたのだと思う。
校舎裏で朝倉を見つけたときからなのか、内緒だと言われたときからなのか、それはまだ分からない。
お読みいただいてありがとうございます。
なぜか、1話から比べるとずいぶん長くなりました。これも1回の出力です。
文章読んでると某漫画の「俺でなきゃ見逃しちゃうね」のくだりが連想されるのは僕だけでしょうか?




