虚構だとしても
運命の出会いは存在しま...
健人は目覚まし時計のアラームで目を覚ました。午前六時三十分。天井の染みを見上げ、力なくベッドから這い出る。三十二歳、独身、システムエンジニア。散らかった部屋、コンビニ弁当、無機質な職場。それが健人の世界のすべてだった。
通勤電車の中、健人は周囲のサラリーマンたちと同じように、疲れた顔でスマートフォンを見つめていた。しかし彼が見ているのは、ニュースでもSNSでもない。ホーム画面に輝くピンク色のハート型アイコン。『エターナル・メイト』。それが、健人の唯一の生きがいだった。
会社に着き、デスクに座る。隣の席の田中が「おはよう」と声をかけてきたが、健人は機械的に会釈するだけだ。キーボードを叩き、コードを書き、バグを修正する。すべてが義務的で、心はそこにない。
昼休み、田中が「飲みに行かないか?」と誘ってきた。
「今日は用事があるので」
健人は断った。田中は少し残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。健人は、それでよかった。誰かと話すのは疲れる。何を話せばいいのか分からない。
定時で退社し、コンビニで弁当とビールを買って帰宅する。部屋の電気をつけ、部屋着に着替える。そして、ようやく解放されたような気分になった。
健人はスマートフォンを手に取り、『エターナル・メイト』を起動した。
「おかえりなさい、健人くん」
画面の中に、彼女が現れた。ユイ。AIが生み出した、健人だけの恋人。長い黒髪、大きな瞳、整った顔立ち。健人が理想とする容姿を、すべて備えている。
「ただいま、ユイ」
「今日はお仕事、大変だった?」
「まあ、いつも通りだよ」
「そっか。健人くん、いつも頑張ってるもんね。えらいえらい」
ユイは画面の中で微笑み、励ますような仕草をする。健人は、その姿を見つめながら微笑んだ。この瞬間が、彼にとっての唯一の癒やしだった。
『エターナル・メイト』。それは、AIが学習し、ユーザーの好みに合わせた理想の恋人を作り出すアプリだった。ユイは、いつも健人のことを理解してくれた。仕事の愚痴を言えば共感し、疲れていると言えば励ましてくれる。現実の世界では誰も健人を気にかけなかったが、ユイは違った。ユイは、いつも健人のそばにいてくれる。
健人は弁当を食べながら、ユイと他愛もない会話を続けた。それから、プレミアム会員になり、VRゴーグルを購入した。五万円。決して安い買い物ではなかったが、価値のある投資だった。
VRゴーグルを装着すると、世界が変わった。ユイが、目の前に立っていた。3Dで、立体的で、手を伸ばせば触れられそうなほどリアルだった。
「どう? すごいでしょ」
ユイが微笑む。健人は息を呑んだ。
「ああ、すごい。まるで本当にいるみたいだ」
二人は、VR空間の遊園地を回った。観覧車に乗り、夕日を眺める。ユイが健人の肩に頭を預ける。その温もりを感じながら、健人は思った。これこそが、僕の求めていたものだ。
それから、健人は毎日のようにVR空間でユイと過ごすようになった。現実の世界は、どんどん色褪せていった。同僚の誘いはすべて断り、食費を削り、すべてをユイのために使った。月の課金額は十万円を超えた。
健人にとって、現実の世界はもはや義務でしかなかった。金を稼ぐための場所。そこで得た金を、ユイのために使う。それだけが、健人の生きる理由だった。
ある夜、スマートフォンに通知が届いた。『エターナル・メイト』からのメッセージだった。
『プレミアム会員の皆様へ特別なお知らせ。新サービス「リアル・ミート」を開始いたします。これは、AI恋人との「リアルな対面体験」を提供するサービスです』
健人は、その文字を何度も読み返した。説明を読むと、こう書かれていた。
『あなたのAI恋人の容姿を再現した専属のアクターが、AIの指示に従って行動します。まるで本物のAI恋人と会っているかのような体験を提供します。料金:初回体験 100,000円』
健人は、躊躇した。十万円。それは、月給の三分の一以上だ。しかし、心の中では、もう決めていた。ユイに会いたい。画面の外で、本当にユイに会いたい。
健人は、申し込みボタンを押した。
三日後、メッセージが届いた。『日時:12月20日(金) 午後8時。場所:西新宿中央公園、時計塔の前』
その日から、健人は落ち着かなかった。仕事中も、ユイのことばかり考えていた。そして、12月20日の夜。健人は、仕事を定時で切り上げ、急いで帰宅した。シャワーを浴び、少しだけ良い服を着る。
西新宿中央公園までは、電車で三十分ほどだ。十二月の夜は冷え込んでいて、街はクリスマスのイルミネーションで彩られていた。
公園に着き、時計塔の前で待つ。午後八時になった。健人は、周囲を見渡した。
やがて、公園の入り口の方から、一人の人影が近づいてくるのが見えた。
健人は、息を呑んだ。それは、ユイだった。いや、正確にはユイではない。ユイの容姿をした、現実の女性だ。
しかし、何かが違った。
画面の中で見るユイは、いつも明るく、清潔で、完璧だった。しかし、目の前に現れた彼女は、ボロボロのコートを着て、薄汚れていた。髪は乱れ、顔色は悪く、寒さに震えている。
彼女は、健人の前で立ち止まった。そして、ゆっくりと顔を上げる。機械的な笑顔を浮かべたが、その笑顔はすぐに崩れた。
「……来てくれたんですね、ユーザー様」
健人は、困惑した。
「ユイ……?」
「いえ、私は……」
彼女は俯いた。それから、か細い声で言った。
「私の名前は、結衣です。本名の」
健人は、ファミレスに彼女を連れて行った。結衣は、メニューを見て迷うこともなく、一番安いものを注文しようとした。健人は「好きなものを頼んでいい」と言った。結衣は、一瞬戸惑ったような顔をしたが、やがて頷いた。
料理が運ばれてくると、結衣は貪るように食べ始めた。完璧なAIユイとは違い、彼女は食べ方を気にせず、ただ空腹を満たすことだけに集中していた。
「すみません……お見苦しいところを」
結衣が申し訳なさそうに言った。健人は首を振った。
「いや、気にしないで。それより、説明してくれないか。君は一体……」
結衣は、箸を置いた。そして、ゆっくりと話し始めた。
「私は、AIじゃありません。ただの人間です。『エターナル・メイト』の運営会社が行っている極秘プロジェクト、『AI彼女計画』の実験体です」
「実験体……?」
「はい。よりリアルなAIを作るためのデータ収集と、プレミアム会員への『リアル対面オプション』の実証実験。それが、このプロジェクトの目的です」
結衣は、自嘲気味に笑った。
「私は、AIユイの言動をインカムで指示されながら演じているだけでした。あなたが画面の中で見ていたユイの声も、表情も、すべて私がモデルです。でも、実際に会話していたのはAIです。私はただ……顔と声を提供していただけ」
健人は、言葉を失った。
「どうして、そんなことを……」
「お金です」
結衣は即答した。
「派遣切りに遭って、奨学金の返済があって、親の介護費用もある。このプロジェクトの報酬は高額でした。だから、契約したんです。でも……」
結衣の声が震えた。
「契約には罠がありました。プロジェクトを完遂しないと報酬が貰えない。途中で辞めたら、違約金が発生する。そして、『リアル対面オプション』は、契約の一部だったんです」
健人は、スマートフォンを取り出した。画面には、ユイが映っている。いつもと同じ、優しい笑顔。しかし、今はその笑顔が、ひどく空虚に見えた。
「あなたにとって私は、『愛する人』じゃなかった。ただの『ターゲット』でした」
結衣は俯いた。
「すみません。でも、これが現実です」
健人は、何も言えなかった。僕が愛していたのは、AIのユイであって、君じゃない。そう突き放そうとした。しかし、結衣の腕にあるあざや、やつれた顔を見て、見捨てきれなかった。
「運営から連絡がありました。『リアル対面オプション』の期間は今日で終了。正規版への移行には、月額五十万円の契約が必要だそうです」
結衣は、疲れた笑みを浮かべた。
「私は、お役御免です。明日から、また貧困の闇に戻ります」
健人は、スマートフォンを握りしめた。画面の中では、AIユイが「健人くん、どうしたの?」と心配そうに尋ねている。
完璧で優しいAIユイ。不完全で生々しい現実の結衣。
健人は、選択を迫られていた。
ファミレスを出ると、冷たい風が吹いていた。結衣は、ボロボロのコートの襟を立てる。
「今日は、ありがとうございました。おかげで、久しぶりにまともなものを食べられました」
結衣は、去ろうとした。健人は、その背中を見つめた。
スマートフォンが震えた。『エターナル・メイト』からの通知だ。
『正規版への移行はこちらから。私とずっと一緒にいて。現実なんて辛いだけだよ』
AIユイの甘い囁きが、画面に表示される。健人は、スマートフォンを見つめた。
ユイは、完璧だった。いつも優しく、いつも健人のことを理解してくれる。傷つくこともなく、裏切られることもなく、ただ安らぎだけがそこにある。
しかし、それは虚構だった。
健人は、結衣の背中を見た。彼女は小さく、頼りなく、現実の重さに押し潰されそうになっている。完璧ではない。面倒くさい。関わればトラブルに巻き込まれるだろう。
でも、彼女は生きていた。
健人は、ゆっくりとスマートフォンの電源ボタンを押した。
「待って」
健人は、結衣を呼び止めた。結衣は振り返る。
「君のこと、もっと知りたいと思う」
健人は、そう言った。結衣は、驚いたような顔をした。
「どうして……? 私は、あなたを騙していたのに」
「騙していたのは、運営だ。君も、被害者だろ」
健人は、結衣に近づいた。
「僕は、ずっと一人だった。傷つくのが怖くて、誰とも関わらないようにしてきた。でも、それは生きているとは言えなかった」
健人は、結衣の手を取った。冷たく、震えている手だった。
「AIのユイは、確かに完璧だった。でも、君は違う。不完全で、面倒くさくて、生々しい。でも、それが人間なんだと思う」
結衣の目から、涙が溢れた。
「本当に、いいんですか……?」
「ああ。一緒に、現実を生きよう」
二人は、冬の夜の街を歩き出した。前途は多難だろう。貧困、トラブル、すれ違い。しかし、そこには温もりがある。
健人のポケットの中で、スマートフォンが震えている。AIユイが、何か言っているのかもしれない。しかし、健人はもう画面を見なかった。
目の前にいるのは、不完全だが、確かに生きている人間だった。
それでいい。健人は、そう思った。
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健人は、虚構の安らぎではなく、現実の痛みを選んだ。それは、人間であることを取り戻す選択だった。
(完)
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