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私の中にいるじいちゃん

作者: 霜月希侑

「新聞はどこだ?」

 じいちゃんの声が、朝の静かな家に響く。少し掠れたその声は、昔のように力強くはない。

「さっき読んで自分で片付けてたでしょ、お父さん」

 ばあちゃんの声には、苛立ちと諦めが混じる。私はキッチンの隅でコーヒーを淹れながら、そっと息を吐く。じいちゃんの認知症は、診断される前からわかっていた。看護学生の私には、教科書で習った知識が頭をよぎる。記憶の断片が少しずつ欠けていく病気。進行性で、不可逆的。でも、知識があっても、心は追いつかない。私の大好きなじいちゃんが、日に日に遠い人になっていくのが、怖かった。


 私は、幼い頃から、じいちゃんとばあちゃんの家で育った。そんな私にとって、この家は世界の全てだった。じいちゃんは中学校の教師で、勉強のことになると眉間に皺を寄せて厳しかった。

「みさ、スマホなんかに時間を使わんで勉強しなさい」

 その声に何度反抗したことか。でも、勉強以外では、じいちゃんはまるで別の人だった。動物園や遊園地、夏の海。車を運転して、私の手を引いて、どこへでも連れて行ってくれた。お店でキラキラしたおもちゃや文房具を指差せば、

「これ、欲しいのか?」と笑って買ってくれた。じいちゃんの眼鏡の奥の優しい目が、私の心の拠り所だった。


でも今、じいちゃんの目はどこか曇っている。

「学校は?」

「今日、休みだよ、じいちゃん。」

 何度目かの同じ質問に、笑顔で答える。ばあちゃんが間に入る。

「お父さん、さっきから休みって言ってるでしょ!」

 その声には、怒りと共に、隠しきれない不安が滲む。じいちゃん自身への苛立ちじゃない。このどうしようもない変化への、やり場のない怒りと悲しみだ。

「すまん、すまん。そうだったかな」

 じいちゃんの笑顔は、どこか頼りない。眼鏡の奥の目が、私を捉えていない気がして、胸が締め付けられる。


 老年看護の講義で学んだことが頭をよぎる。認知症の進行、ケアの方法、家族へのサポート。でも、教科書の言葉は冷たく、じいちゃんの壊れていく姿を前にすると、何の意味も持たない。私はただ、認めたくなかった。私の大好きなじいちゃんが、じいちゃんじゃなくなっていくことを。ばあちゃんが混乱しながら叫ぶ声も、じいちゃんの繰り返す質問も、全部が怖くて、部屋に閉じこもった。ドアの向こうで響く二人の言い争いが、私を現実へと引きずり戻す。どうしようもないのに、何もできない自分が、嫌いだった。


 あれから4年。じいちゃんの認知症は、ゆっくりと、でも確実に進行した。私は看護師になり、病院で働く日々を送っている。今日は久しぶりに実家に帰ってきた。

「じいちゃん、みさだよ。久しぶり」

 笑顔で話しかけるけど、じいちゃんの目は私を映さない。

「ああ、どうも、こんにちは」

 他人行儀な声。ばあちゃんがすかさずフォローする。

「お父さん、ほら、あなたの孫よ、みさよ。学校卒業するまで一緒に暮らしてたのよ」

「そうなのか。知らないな」

 じいちゃんの言葉は、静かに私の心を刺す。私の記憶にいるじいちゃんは、笑顔で私の手を引いてくれる人だった。でも、じいちゃんの記憶に、私はもういない。


 最近、じいちゃんは目を離すと遠くへ歩いて行ってしまう。デイサービスやショートステイを利用することが増え、ばあちゃんの疲れた顔が目に見えて増えた。それでも、私はじいちゃんに話しかける。

「じいちゃん、私、看護師になったんだよ。病院で働いてるの」

 届かないかもしれない。それでも、言葉を紡ぐ。じいちゃんは少し間を置いて、ぽつりと言った。

「看護師さんか。体に気をつけて頑張れよ」

 その声は、昔のじいちゃんのままだった。厳しくて、でもどこか温かい。あの眼鏡の奥の優しい目が、一瞬だけ戻ってきた気がした。


 夜、じいちゃんの部屋の窓から見える星空は、どこか遠い。記憶の彼方で、じいちゃんはまだ私の手を引いて笑っている。私は看護師として、誰かのために働くたびに、じいちゃんの言葉を思い出す。「頑張れよ」その声が、私を支える。じいちゃんが私のことを忘れても、私はじいちゃんを忘れない。私の心に、じいちゃんの笑顔は生きている。


 休憩室で、私はコーヒーの入ったカップを握り潰しそうになる。さっきの患者さん、80歳代の男性。じいちゃんと同じように、朝食のことを何度も繰り返し聞いてきた。何度聞かれても穏やかに答えた自分を褒めたいのに、頭の中ではじいちゃんの「新聞はどこだ?」がこだまする。『認知症は進行性で不可逆的』――講義の言葉が冷たく胸に突き刺さる。

 あのじいちゃんが、こんなふうに誰かに「穏やかに」対応される日がくるなんて、想像したくなかった。なのに、私はその「穏やかな看護師」でいるしかない。じいちゃんに寄り添えなかったくせに、他人に寄り添おうとしている自分が、急に滑稽に思えた。カップを置くと、手が震えていた。


 今日も私は働く。じいちゃんの記憶が消えても、私の記憶の中で、じいちゃんはいつまでも私のじいちゃんのままだ。

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