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441Hz

6時間目の授業が終わり、谷町杏花(タニマチキョウカ)は急いでいた。手には黒いカバンのようなものを持っている。中身はクラリネットだ。

誰よりも早く音楽室へ向かい準備をすることにも、そろそろ慣れつつある。


「そろそろチューニングしまーす」

谷町がクラリネットを片手にみんなの前へ出る。最初に音を鳴らし、基準の音を作ることが谷町の、コンミスという役職の役目の一つだ。他の部員はこの段階で音を合わせるが、谷町はここまでに音を調整できていないといけない。それが毎日授業後に急いでいる理由だ。

本当はコンミスなんてやりたくなかった。吹奏楽全体の慣習とはいえ、どうしてクラリネットのパートリーダーが大体いつもコンマス(男性の場合)/コンミス(女性の場合)をやらされるのか分からない。うちの部なら私よりも、フルートのこってぃー(琴子(コトコ))やトランペットの(ノゾミ)の方がはっきりと実力がある。もっとも、こってぃーは学生指揮者なので、指揮者と演者の仲介もするコンミスを兼任できない。それは分かっている。でも団によってはオーボエがコンマスをやることもあるらしく、それならくらげ(海月(ミヅキ))がいる。そう思って以前くらげにコンミスをやらないかと持ちかけたら「谷町は無責任な奴だ」などと怒られてしまった。結局これまでの慣習通りクラリネットのリーダーとして仕方なく引き受けている。


準備ができたみんなが谷町の方を見た。その瞬間、デデドン、と意図的に打楽器を鳴らした音がした。何人かがちょっと笑ったが、谷町は音源を睨む。犯人はティンパニ奏者のリチャード。こんな感じだが副部長だ。純日本人で本名は陸斗(リクト)というらしいけれど、その名前はもはや忘れ去られている。

「あれ、リチャード、ちょっとピッチ低くない?」

おふざけ自体の指摘はしない。彼相手にそんなことをしていては埒があかない。

ただ、谷町や多くの部員の耳は割と鋭いので、音程のちょっとしたずれを聞き分けられることが多い。当然リチャードも先ほどまで準備をしていたし、おふざけは多いが実力もちゃんとあるのでずれているのは不思議だ。

「谷町さん鋭いねえ」

リチャードは「谷町さん」と呼んでくるのだが、アクセントがいつも「谷町線」のそれである。大阪メトロじゃないんだから。相変わらず何人かがクスクス笑っていて、前に立っている谷町としては恥ずかしいが、隊列の後方にいるリチャードは平然とニヤニヤしている。

そのニヤニヤにムカついたのでティンパニの方へ向かってみた。


リチャードの手元のチューナーは、「鋭いねえ」という言葉とは裏腹に、音程が正確であることを示していた。

「このチューナー壊れかけ?」

音程を確認するチューナーは、学生が使うレベルのものは大体がショボい電子機器なので電池切れや故障が起こるし、電池が切れかけていると正確に反応してくれなかったりする。

「いや、この間電池替えたしそれはないと思うなあ」

リチャードはまだニヤニヤしていて、視線の先にはチューナーの画面がある。

その視線を追いかけて気が付いた。基準が441Hzになっているではないか。


Hz(ヘルツ)とは、音の振動数の単位である。数が大きいほど高い音であることを示し、例えばピアノで言えば真ん中のラの音にあたる音、もっと身近な音で言えば時報の最初の3音は440Hzである。鍵盤楽器や弦楽器は多くの場合、この440Hzを基準として音程を調整する。吹奏楽やオーケストラにおいては、少し高く明るい音を目指して442〜444Hzにすることも多い。うちの部では、自然と音が高くなりやすい夏場以外は443Hzに合わせて練習を始めることにしている。それが441Hz基準となれば、ちょこっと低く聞こえて当然だ。

「441Hz基準にしたのわざとだよね?」

咎める口調ではない。きちんと理由があれば443Hzではなく441Hzを採用してもいいと思った。

リチャードは屈託のない笑顔で答える。

「だって、443や442より、441の方が美しい数字だから」

心底呆れた。こいつは平方数が美しいからというだけの理由で基準をいじったらしい。楽器の演奏に数字の美しさなんて持ち出すべきではない。音楽において数字は基準以外の何者でもなく、そこを深く考えていては始まらないことは、音楽にも自然科学にも造詣が深いリチャードならよく分かっているはずだ。

ここで怒りにまかせずに返すべき言葉は何だろうか……


「リチャード、441という数字が21の2乗だから美しいってのは分かるけど、ここではみんなと同じ音に揃える美しさを追求しない?」

声を上げてくれたのは部長の松本忠弥(マツモトチュウヤ)だ。この人は本当に頼りになる。楽器を始めたのは高校からなのに、1年足らずでもうトロンボーンを吹きこなし、人望の厚さで部長にもなった。おまけに甘いマスクで成績も優秀なのだから、頼れるというよりも、一般人たる我々には勝てる要素がないと言った方が正しいかもしれない。

お調子者リチャードもそんな部長に諌められては反論できず、チューナーの基準を443Hzに戻してチューニングをやり直し始めた。忠弥に見惚れていた部員たちも我に返ったようだ。


「谷町も、リチャードが443Hzに戻してくれたらそれでいいよね?」

問題は解決したし、部長に反抗する気もない。谷町は頷きながら本来の持ち場に戻り、再度指示を出す。

「基準が揃ったので、今度こそ全員でチューニングしまーす」

『基準が揃った』のところでもう一度ティンパニ奏者を睨んだ時、部員の何人かが思わず吹き出したが、気にせずチューニングを始めた。


 ◯◯◯


市立曙高校吹奏楽部は、生徒主導でほどほどに真面目に活動している。今年のコンミスを担当する谷町は、なんだかんだ良いメンバーに囲まれているなと思う。高校2年生となったこの1年間、この環境で全力で青春を楽しみたい。

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