5,夜のフロア - 名前のない誰かたちの夜
名もなき誰かたちの夜
新宿の高層ビル、25階。
22時を過ぎると、自動的にフロアのセキュリティロックが作動する。
エレベーターの使用は制限され、共用エリアへのアクセスにもICカードが必要になる。
その仕組みは、都市の“深夜”が誰にも優しくないことを、あらためて思い出させる。
それでも残っていたのは、ただひとり。
コートを椅子の背に掛けたまま、書類を一枚ずつゆっくりとめくっていた。
帰る理由がなかったわけではない。
ただ、まだ“今日”が終わる音がしなかった。
フロアの天井灯はすでに間引かれ、ほとんどの机にはシャットダウン済みのモニター。
小さなスタンドライトだけが、自分のスペースを照らしていた。
無音の空間。
コピー機の最後の余熱だけが、静かに吐息を漏らしていた。
少しして、給湯室に向かう。
カードリーダーにICをかざすと、ピッという電子音がやけに響いた。
マグカップを手に取り、棚の奥に放置された洗い忘れのコップをふと見つける。
一度は無視しようとして、結局、蛇口をひねって軽くゆすいだ。
誰が使ったかもわからない。
でも、その人もたぶん、自分と同じように“言葉にできなかった気持ち”を、ここに少しだけ残していったのだと思った。
オフィスに戻ると、誰かの席に読みかけの専門書が開いたまま置いてある。
付箋がついたページには、小さくボールペンで「すぐ見る」と走り書きがある。
それだけで、ここに“誰かがいた”ことが、はっきり伝わる。
デスクに戻り、時計を見た。
23時をまわっている。
「……あと5分だけ」
誰に向けたわけでもなく、そうつぶやいて、目を閉じる。
椅子にもたれ、腕を枕にして、静かに息を吸う。
そのとき、フロアの端で自動消灯した照明がふっと落ち、部屋はさらに静けさを増す。
ガラス窓の外、夜の街にはまだ灯りが残っている。
でもこの階、この部屋、この席には、
もうひとりしかいない。
あるいは、それすらも、もういなかったのかもしれない。
月が、ビルのガラスに映る。
その光が、デスクの端までやさしく降りてくる。
帰りのエレベーターに乗る人は、もういない。
ICカードをかざす音も、誰の足音もない。
それでもそこには、
「おつかれさま」と一度も声に出せなかった想いだけが、
ふんわりと、漂っていた。
そして、誰にも知られぬまま――
最後の“退勤”は静かに訪れた。