2,家の灯り - 小さな町の夜
ごくありふれた、でもかけがえのない夜
静岡県の郊外、小さな町の一軒家。
夜の台所には、味噌汁の匂いがまだほんのりと残っていた。
食器はすでに洗い終わり、水切りラックで光を反射していた。
冷蔵庫には、明日のお弁当用に詰めたおかずがラップされて並んでいる。
母は、最後にテーブルを拭いて、ふぅと小さく息をついた。
「お風呂、もう入った?」と声をかける。
「さっき入ったよー」と、2階から娘の声が返ってくる。
「明日の体操服、リビングに置いてあるから忘れないでね」
「うん、わかってるー」
父はリビングのソファで、うとうとしながらニュースを見ていた。
テレビの音量が少し大きくなっていたが、それに文句を言う人はいない。
母はそれを少しだけ下げ、ブランケットを静かに掛けてやった。
その仕草は、何度も何度も繰り返してきたものだった。
夜9時半、妹が「歯、磨いたよー」と言って寝室に向かう。
母も、ひととおりの家事を終えて、ようやく自分の寝間着に着替える。
眠い、けれど、それは“普通の眠さ”だった。
ただ今日という一日が終わった、という合図のようなもの。
「じゃあ、また明日ね」
母はいつものように、家族に向かってそう言った。
誰も返事はしなかったが、それは愛されていないからではなかった。
日常とは、そういうものだ。
家の灯りが一つずつ消えていく。
リビング、台所、廊下、そして最後に、玄関の明かり。
すべてが静かに、穏やかに、夜に包まれていく。
月の光が、窓から差し込んでいた。
眩しくはない。やさしい光だった。
それはまるで、母の言葉のようだった。
「じゃあ、また明日ね」
だれも知らなかった。
“明日”という日が、もう来ないことを。
妹は、ベッドに入る前にこっそりリビングに戻ってきた。
ふかふかのスリッパの音が、畳に吸い込まれる。
「ママ、あのさ…」
母が振り返ると、妹は少し恥ずかしそうに、手を後ろに組んでいた。
「…明日、学校で友だちの誕生日なんだけどさ、折り紙でハート作ってあげようと思ってて…」
母は口元をゆるめて、そっと笑った。
「いいじゃない。ちょっとだけなら起きてていいよ」
「うん!」
妹は小さな工作箱を引っぱり出し、リビングテーブルの上で熱心に紙を折り始める。
「ハートって、どう折るんだっけ?」
「教えてあげるよ」
隣にいた姉が、スマホを片手に見本を見せながら一緒に折ってあげる。
そのうち父も、あくび混じりに立ち上がって「こっちのほうがきれいに折れるぞ」と参加し始めた。
「パパ、しわくちゃじゃん」
「気持ちが大事なんだよ、気持ちが!」
母はマグカップに、人数分ホットミルクを用意する。
「あったかい牛乳!さいこ〜」
妹が少しねむそうに笑うと、みんながふわっと優しくなる。
そんな時間が10分、15分と過ぎていく。
ようやくハートは完成し、妹がそれを胸にぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう、みんな。おやすみなさい」
「おやすみ」
「また明日ね」
「明日は6時半に起きなよー」
家の中は、ふたたび眠りへ向かっていく。
けれどさっきまでのおしゃべりの余韻が、あたたかく残っていた。
廊下の先のふすまの向こうで、妹が小さくハートの紙に「だいすき」と書く音が聞こえたような気がした。
やがて、すべてが静かになった。
そして、ゆっくりと月の光が、家の中を包んでいった。