1,ゼロ時 - 月が海を照らす夜
真夜中、世界が静寂に包まれたその瞬間、太平洋の中心に月の光が差し込んだ。
その光が海面を銀色に染めたその時、人々の「眠り」はゆっくりと形を変え始め、それはいつしか「死」へと姿を変えていた。
誰もまだ気づかない、世界の終わりの幕開けだった。
私はカーテンを少しだけ開け、窓辺に座って夜空を見上げていた。
グラスに注いだモスコミュールが揺れる。テレビの音は遠く、画面の中では誰かが笑っている。
私も笑うふりをしていたが、心の奥ではなぜか少しだけ、涙ぐんでいた。
理由は分からなかった。ただ、今夜が“最後の夜”だと、どこかで気づいていたのかもしれない。
冷蔵庫のモーターが止まり、部屋がいっそう静かになった。
私は枕にもたれて、スマートフォンの画面をゆっくりとスクロールする。
SNSでは、誰かが深夜ラーメンの写真を載せ、誰かが赤ん坊の寝顔をアップしていた。
「眠れなーい」
「月、めっちゃキレイ」
「明日は早いのに。。」
人々はいつも通りの、どうでもいいような、けれど確かな“生”の断片を投げ合っていた。
それはまるで、夜空に浮かぶ星々のようだった。
もうすぐ、すべての星が静かに消えることなど、誰も知らない。
月は、満ちていた。
まるで長いこと準備をしていたかのように、世界の隅々まで届くその光は、どこか柔らかく、優しかった。
不吉さもなければ、焦りもない。
ただただ、全てを包み込むように、夜を照らしていた。
「おやすみ」と私は言った。
誰に向けてでもなく。
それでも、その言葉はちゃんと届いていたような気がした。
枕に頭を沈め、目を閉じた。
あたたかい。やわらかい。
このまま、目が覚めなければいいと、ふと思った。
そしてその通りになることを、私はまだ知らなかった。
***
午前2時。東京都内。
一人の看護師が、ナースステーションで仮眠を取っていた。
彼女の胸の上には、電子カルテのファイルが乗せられたままだった。
病棟のモニターは静かに点滅を繰り返していたが、警報は一つも鳴らない。
どのベッドも、穏やかだった。
あまりに穏やかで、息を呑むほどだった。
誰も、眠っていた。
そして、その誰もが——
もう目を覚ますことはなかった。