第八話
俺は、駅で出会った二人のことを、なかなかエルドに切り出せずにいた。モニターには変わらず大災害のニュースが流れ続けている。状況は刻一刻と悪化し、先ほどの速報では、被災国が政府機能の一部を隣国へ移すと発表された。
エルドはモニターとスマホを交互に見ながら、気になる情報を見つけるとすぐに画面を俺に向けてくる。
「おい、これを見てみろ」
この記事が本当なら、報道されている以上に事態は深刻だ。
窓の外では雷こそ収まったものの、滝のような雨が容赦なく降り続けていた。
「なんだ、あいつらも行っているのか……」
エルドの独り言が背後から聞こえてきた。
「でも、俺が行っても、何もできないだろうしな……」
その言葉を聞きながら、俺は思う。普通なら即座に断るような話に、なぜ迷うのか——彼はその理由をよく知っている。そして、俺が第18層世界に行くと言えば、きっと「自分も行く」と言い出すだろう。
ここ数日、俺は冒険者仲間に連絡を取り、あの二人について尋ねて回った。何人かは同じように討伐軍に誘われていたが、一人を除いてその場で断ったという。唯一、即答しなかった者も「今、どうしようか悩んでいる」と話していた。そして、全員が「カンティークルの木」の話は一切聞いていないと答えた。
彼らに提示された報酬の内容は様々だ。ギルド内でのランク昇格を推薦する大公の手紙、第18層世界のダンジョンの位置を記した地図、代々伝わる公国の秘蔵の杖、希望する数の魔晶石——俺は、それを聞いていて思った。まるであの二人は、それぞれの人物が最も欲しいものを事前に知っていたかのようだ。
そんなことを考えながら、エルドにどう切り出すべきか悩んでいると——突然、事務所のドアが勢いよく開き、雨に打たれてずぶ濡れの女性が現れた。肩ぐらいまでの髪を後ろで縛り、銀縁の眼鏡をかけている。着ている制服の裾からは水が滴り落ち、眼鏡は曇っていて表情は見えない。
「よう」
エルドが軽く手を挙げ、彼女の惨めな姿を見て声をかけた。
「お前、それ、大丈夫か?」
「小降りになったから油断した。ポータルを使えばよかった」
ぼそりと答えた彼女は、ずぶぬれの靴で床を濡らしつつ事務所の奥へと進み、装備品が置かれている小部屋へと消えていった。
ごそごそと何かを探す音が聞こえ、やがて彼女はタオルで髪を拭きながら顔を出した。そして、俺の方をじっと見て唐突に言った。
「第18層世界に行くんだって?」
どこで聞きつけたのか。おそらく、俺があの二人について調べているのが知り合いの冒険者たちの耳に入り、それが彼女にも伝わったのだろう。
今、目の前で髪を拭いている女性——琴遥は、俺の娘だ。彼女は俺と同じ冒険者を目指し、修行中の身ではあるが、志しているのは魔法使いではなく、エルドと同じ前衛で戦うファイターだ。
まだ高校生の見習いながら、槍の実力はすでに達人の域に達し、何度か大人たちの大会に混じって優勝したこともある。
背後からエルドがこっちに視線を向けてきているのが痛いほどわかった。「何のことだ?」そんな無言の問いが伝わってくる。
ずっと迷っていた切り出し方が、今の琴遥の一言であっさり解決してしまった。俺は大きく息をすると、二人に全てを話すことに決めた。
琴遥は空いている椅子に向かいかけたが、自分の濡れた服に気づき足を止めた。
「着替えてくるから待って」
そう言うと、彼女は奥の部屋へ戻っていった。
——
話し終えた俺は、エルドと琴遥の顔を交互に見る。エルドは「お前、やっぱり」と呟くと、考え込むように視線を落とした。一方、琴遥は口に手を当て、まるで自分だけに聞こえるよう小さく呟いた。
「敵の正体は不明...距離を取れる長槍か、それとも小回りの利く短槍の方か」
その、すでに自分も行くことが決定事項であるかのような言葉に俺は心の中で大きくため息をついた。
沈黙が少し続いた後、エルドが意を決したように聞いてきた。
「本当にカンティークルの木はあるのか?」
俺は首を横に振る。
「わからない。見せられた映像だけでは、本物かどうか判断できなかった。色々調べてみたが、確かなことは何もわからなかった」
一瞬の間を置いて、俺は続けた。
「だが...俺には、あれは本物のカンティークルの木のように思える」
「でも、その木の話をされたのはお前だけなんだろ?」
「ああ、俺が聞いた限りでは」
俺の答えを聞いた、エルドが椅子を回し、天井を仰ぐ。
その時、事務所のモニターにビデオ通話の通知が表示された。発信者は、知り合いの魔法使いだ。俺は二人に「ちょっといいか」と合図し、通話に出た。
モニターに発信者の顔が映し出されると同時に、俺は「久しぶりだな」と声をかけたが、言葉の続きを飲み込んだ。
画面越しの彼は、まるで何日も眠っていないかのように憔悴しきっていた。
「何かあったのか?」と問いかけようとした矢先、彼は早口で言葉を吐き出した。
「お前も次光船の暴走事故のことは、もう知ってるな?」
彼の声は緊張を帯びている。
「俺たちは数日前からその対応に回っていたが、かなりまずいことになってる」
彼は一度息をつき、続けた。
「ついさっき、俺たち全員がここを引き上げることが決まった」
俺は眉をひそめた。
きっと彼は、今、報道されている次光船の爆発事故のことを言っているのだろう。
彼は仲間内でも屈指の転送魔法の使い手だ。一度に何十人もの人間を運べるほどの実力がある。きっとその腕を買われ、避難民の移送に従事しているに違いない。
だが、救援活動が終わったとは思えない。避難民の移送は続いているはずだ。それなのに、なぜ引き上げる必要があるのか?
そもそも、「暴走」とは?
疑問が渦巻く中、彼は予想外の言葉を口にした。
「魔法がまったく使えない」
俺はその言葉に息を呑む。
「ポータルも駄目だ。魔力を使うものは全滅だ。魔力を使った通話すらできない」
彼の声はかすかに震えている。
「最初は事故周辺だけだったが、今では国全域に広がってる。もう使える所はどこにもないだろう。次光船はまだ発着できるが、脱出用の拠点はどんどん遠のき、もう隣国との国境は目前だ」
その言葉を聞いて、俺の頭に先ほど見た映像が蘇った。
異常な渋滞、そして空を飛んでいた乗り物がふらつき、墜落していく光景。そうか、あれは魔法が使えなくなったからだ。
考えに耽る俺を、彼の切迫した声が引き戻した。
「お前、魔女を知らないか?」
唐突な問いに、思考が追い付かない。戸惑う視線の先、彼の背後には無数の次光船が空を行き交っているのが見えた。
「空間……いや、転送魔法が使える魔女だ」
なぜ、魔女の話が? 彼の意図が見えない。
俺は必死に頭を整理し、なんとか言葉を絞り出す。
「……暴走事故って、爆発じゃないのか? それに、魔女っていったいどういうことだ?」
彼は即座に答えた。
「爆発? いや、あれは爆発じゃない」
彼の声は低く、重かった。
「建造中の次光船に何かが起こり、それが止まらなくなったらしい。周囲はものすごい高温で、今では誰も近づけない。30キロ離れた地点ですら気温は百度近い」
彼は続けた。
「それに、あの街の周辺では、平坦な地面に立っていても、まるで垂直の壁に立っているような感覚に襲われる」
それを聞いて、俺は返す言葉を失った。
「手段が限られ、避難民の輸送は難航している。まだ、大勢が脱出できていない」
彼の声が急に強くなる。
「ここを去る前に、彼らを運ぶ手段を増やしておきたい」
そして、彼はもう一度尋ねてきた。
「魔女を知らないか?」
一瞬の沈黙の後、彼は続けた。
「あの彼女たち、魔女は、なぜか、まだ魔法が使えている」
その言葉に、俺はエルドたちと視線を交わした。
その時、モニターの上に速報のテロップが流れた。災害が発生している国の首相が移動中の事故で死亡したというものだ。
驚きながらも、俺は通話相手に「残念だが知らない」と短く返す。
「そうか」
それだけを言い残し、彼は通話を切った。
あの口ぶりからして、俺の他にも聞き回っているのだろう。そして、受け取った答えは俺と同じなのだ。
一息つく間もなく、今度は自分たちの国の政府から緊急のお知らせが発表された。
『現在運行中の各次層世界を結ぶ旅客便の運航を一時的に減便、または停止する』
理由は、旅客便に使用されている次光船を避難民の輸送に供出するためだという。
それを聞きながら、俺は先ほど見た無数の次光船を思い浮かべた。今でも、相当数の船が避難民の脱出に使われている。それでも不足するということは、彼らはいったいどれだけの人間をあの世界から避難させるつもりなのか。それにしても、災害の元凶ともいえる次光船を、救助のために使わざるを得ないというのも皮肉な話だ。
モニターに、政府の緊急会見が映し出される。そして、その説明の中に、耳を疑う事実が含まれていた。
「次光船の建造中に、突然、その船と周囲の空間との融合が始まり、その範囲は拡大を続け、最近になり、そこに新たな"次光壁"が誕生しつつあることが確認された。この未知の現象を止める手段は我々にはなく、現在は各次層世界と協力して、住民の避難を最優先にしている」
会場内にどよめきが起こるのがモニター越しにでもわかった。
新たな次光壁の誕生とは、どういうことだ。
俺の知る次光壁は、次層世界から次層世界への移動を妨げ、中のものを閉じ込める結界のように、常に世界の狭間に存在してきた。それが今、世界の内部で発生している——そんなことが本当にありえるのか?
突如、頭の中に、数日前に見た次層世界のインデックスが浮かび上がってきた。その34番目の世界には"Broken"と記されていた。俺が少年だった頃、初めてインデックスを見た時から、そこにはずっとそう書かれてあった。通説では、遥か太古の時代に何らかの原因で、その世界は破壊されたと言われている。
子供の頃の俺は、それは大昔に大型鳥類を絶滅させた隕石落下のようなものだと捉えた。だが、今、目の前で進行している事態は、まさにそれなのではないか?
俺は、大きく息を吐いた。モニターでは、政府の説明に対する記者たちとの質疑応答が始まっていた。