第三十六話
不思議に思っていると、僕はふと気付いた。
――ブリジットが、あの鏡を持っていない。
システルの方へ視線を向け、声をかける。
「あの、鏡は? 下に置いたままでいいの?」
あの装飾を見れば、どう考えても何かの重要なアイテムにしか思えない。
放置したままでいいはずがない、そう思って僕は聞いた。
「鏡? 何の鏡?」
システルは背中を向けたまま、振り返りもせずに軽く返す。
「ブリジットに渡した鏡のことだよ」
「ああ、あれね。たぶん下に置いたままだから、後で回収に行ってくるわ」
「でも、いいの? あんな重要そうな鏡をほったらかしにしていて」
そう言って僕はブリジットにも視線を流した。ブリジットは少し戸惑いの表情を返してくる。
「重要? あの鏡が? なんで?」
「えっ……あれって、システルが何かの儀式とかに使うために持ってきたんじゃないの?」
まだニケの術の光に包まれながら、システルは肩越しに小さく笑った。
「全然違うわよ。あの鏡、ちょうどいいのがなかったから、パパのを借りただけよ。だって、自分のを持ってきて割れたら嫌でしょ」
「えっ、そうなの?」
「じゃ、なんであの時、ブリジットに渡したの?」
僕がそう聞くと、システルは迷いのない口調で答えた。
「あのアンモナイトが気まぐれでブリジットたちを攻撃しないようにするためよ。取引に必要なものを持っていたら手は出せないでしょ。
何かそれらしく見えるものがないかって考えて……ちょうどパパの鏡を思い出したのよ」
その理由を聞いた瞬間、僕は思わずため息を漏らした。
システルのパパは、個人でいろんな次層世界のアンティークや珍しい雑貨を輸入する仕事をしている。貿易会社に勤めていたけど、つい最近独立したばかりだ。
――つまり、あの鏡は、パパが扱っている“商品”ということだ。
システルは「借りた」と言っていたけれど、その言い方はどうにも怪しい。
どうせ、こっそり拝借してきたに違いない。
きっと今ごろパパは、商品がひとつ消えていることに気付いて、頭を抱えているんだろうな。
僕は、ここ数日システルとニケが学校で鏡や望遠鏡の話をしているのを聞いて、ずっとそれらは彼女にとって特別な意味を持つアイテムだと考えていた。
けれど、今の話を聞く限り、少なくとも鏡に関してはまったく重要なんてことはなかったらしい。
知った途端、胸の奥が一気にしぼむような――そんな拍子抜けした気分になる。
……ん?
でも拍子抜けしたはずなのに、鏡という言葉だけが、妙に心のどこかにひっかかったままだ。
まるで、何かを思い出しかけているような、そんなざらついた違和感が、静かに内側からせり上がってくる。
いったい、なんだろう。
あいつのことに関する何かか? でも――鏡。
どう頑張っても、あいつから鏡なんて連想できる気がしない。
となると、今いるこの空間か。
いや……もしかしたら、あの歴史自然公園に関係していることなのかもしれない。となると、子供たち?
……いったい、なんだ。
考えれば考えるほど霧が濃くなっていくようで、頭の中は空白のままだった。
とにかく、何か取っ掛かりを掴むため、僕はシステルにちょっと気になっていることを尋ねることにした。
「なんで、あの鏡を持ってきたの?」
「それは――」
システルが言いかけたその瞬間、横からブリジットが割って入ってきた。
さっきから、彼女はずっとシステルに何か言いたくて仕方ない、そんな落ち着かない気配をまとっていたのは感じていた。
「どうして、決めておいた予定を途中で変更した?」
ブリジットの声には、微かな苛立ちがにじんでいた。
「どうして、脱出ポッドへの搭乗が終わらないうちに、あの老人の移送を始めたんだ?」
少し責めるような口調。
――やっぱり、あのタイミングの変更は、システルの独断だったのか。きっと他にも、いろいろ彼女のアレンジがあるんだろうなあ。
そう聞かれたシステルは、ニケの魔法に照らされて輪郭を淡く揺らしながら、ゆっくりとブリジットの方へ振り返った。
そして、珍しく申し訳なさそうに眉を曇らせる。
「……あれについては、本当に申し訳なく思ってるわ。でも、あ……、あいつが客席フロアに現れた時、はっきり感じたの。貨物室で見た時より、弱くなってるっていうか……影が薄くなってるっていうか。
それに気づいた途端、胸が急にざわついたのよ。どうしても急がなきゃって。少しでも早く、この状況を抜け出す方法を探して、ここを離れないといけない――そう思ったの」
システルはそこで一呼吸おき、言葉を継いだ。
「だから、一番時間をかけずに済みそうな方法を選んだのよ」
静まり返った空気の中、ブリジットがわずかに目を細める。
「弱くなっている? 影が薄くなっているって……どういうことだ?」
問いかけに、システルは口を開いたまま言葉を失い、視線を揺らした。
答えに詰まり、自分でも説明の言葉を探しているような、そんな気配。
――ん?
今、システル……しれっと、あの老人の呼び方を“アンモナイト”から “あいつ” に戻してなかったか?
なんだよ。自分で言い出しておいて、まだ十分ぐらいしか経っていないと思うんだけど。
きっとブリジットに伝わりにくいとでも思ったんだろう。いや、それとも単純に長くて言いづらくなっただけなのか。
……いや、いいや。今はそんなことより――
そして僕は、ふたりの会話に割って入るように口を開いた。
「たぶん、あ、」
そこでいったん言葉を切り、念のためシステルの表情をうかがう。
……後で、いろいろうるさいからな。
彼女の目の動きから、”言っていいわよ”という合図を汲み取る。
――よし。
それを確認してから、僕は続けた。
「……あいつは、貨物室の時に比べて軽くなってる」




