第七話
さっきまで大粒の雨を激しく窓に叩きつけていた昨晩からのそれは、一時的に小雨へと変わった。
流れ落ちずに残っていた窓の水滴が、時折顔を出す真夏を思わせるような強い日差しによって瞬く間に乾いていく。
その乾いた窓から外に目を向けると、強い西風に流されていく雨雲に虹がぼんやりと照らし出されているのが見えた。
確か予報では、午後から再び強い雨が降ると言っていた。それを思い出した俺は、あの虹が平穏を装う偽物の安寧のように思えてきた。
あの二人と出会ってから数日後、俺はエルドと話をしている。今、俺と一緒に事務所にいる彼は、昨日この世界に戻ってきたばかりだ。
二週間前に俺が仕事でここを出たとき、彼はすでに別の仕事で20層も離れた世界に行っていた。
「いやぁ、ここはまだ暑いなあ」
彼は開口一番にそう言った。
「どうだった?」
頭の後ろで手を組みながら、椅子に体を反らして座っているエルドに向かって俺は尋ねた。
「どう?」
最初は何を聞かれたのかわからなかった様子だったが、すぐに仕事のことだと気づくと、答えた。
「散々だったよ。何日も暗い穴の中をさまよった挙句、結局目的のものは見つからずじまい。食料が尽きかけて地上に戻ろうとしていたところにリッチが現れて、気づいたら周りはスケルトンの大軍に取り囲まれてた。全員で一斉にポータルクリスタルで逃げたよ。ほとんどの装備はその場に置いていく羽目になったが、まあ、死人が出なかったのが救いだったな」
彼は一か月前、あるダンジョン深くに伝説の剣とともに埋葬された騎士がいるという古文書の記述をもとに、ある資産家が組織した剣の捜索隊に護衛役として雇われていたのだ。
俺たちは「魔法コンサルタント」を名乗っているが、実のところ彼は魔法使いではない。魔力がこもっている武器を使って主に前衛で戦うファイターだ。鍛えられた筋肉、屈強な体格に顎髭をたくわえ、年齢は俺より3つほど上だ。若いころはパラディンをやっていたというから、その系統の魔法は使えるのだろうが、俺は一度もそれを使っているのを見たことはない。二人で組んで仕事をすることが多いので、それぞれの職業を並べる必要もないと思い、看板は一つにまとめている。
「お前さんの方は?」とエルドが聞いてきた。
「それに比べればだいぶましだったかもな。遺産として大量に残された骨董品を魔法で鑑定していただけだからな。毎日同じ作業の繰り返しでいい加減うんざりはしたが」
「何か出たのか?」
「いや。ほとんどガラクタだったよ」
「は、は、そうか」と彼は短く笑った。
その時、壁に取り付けられているモニターから、先ほどからずっと流れているニュースが目に入ってきた。
あの次光船の造船所から始まった爆発がさらに範囲を拡大し、連絡が取れなくなった町が出てきているという。
そして、家族に電話をかけても全く通じないと取り乱しながら話す住民の映像が流れた。
避難区域がこれまでの十倍にも拡大され、数百万人が対象になったというニュースが続く。
カメラの前で話すリポーターの後ろからサイレンの音が鳴り始め、リポーターは「私たちがいる場所にも避難勧告が出ました。今から避難のため移動を開始します」と叫ぶと、映像が切り替わった。
街と街を繋ぐ道路に、避難住民を乗せたバスのような大型の乗り物が何十台、何百台と渋滞で立ち往生している様子が、上空から映し出される。
それを見て、妙な違和感が胸をよぎる。
以前、ある異世界で大規模な火山噴火が発生した時には、備え付けのポータルや転送魔法を駆使し、住民の避難はスムーズに進んでいた。しかし、今の映像では、時代遅れとも言える地上の乗り物に頼っているように見える。
かつて、俺はこの災害が起こっている国に仕事で訪れたことがあるが、科学も魔法も、決して立ち遅れてはいなかった。むしろ、俺たちの世界より進んでいると感じたほどだ。街の至る所に個人用ポータルが備えられ、瞬時に目的地に移動が出来た。街中ではもはや人を乗せて走る乗り物は無用の長物となっていた。
そう考えを巡らしていると、モニター上部に、ふらふらと人工物が降りてくる映像が映し出された。
空を飛んで人や物を運ぶ乗り物に違いない。しかし、それはそのまま力尽きたかのように地上へ降下し、渋滞で埋め尽くされた道路から少し離れた空き地に、着陸というよりは墜落するように落ちた。
モニターの映像は興奮気味の解説とともにズームされ、乗り物が前のめりに地面に突き刺さるようにして半分横に倒れているのが分かった。
そして、中から多くの人たちが急いで飛び出してくるのが見えた。きっと避難してきた人々だ。
「おい、大変なことになっているな」後ろからエルドの声がした。
「ああ……」
すでに避難区域はその国の国土の半分にも及び、さらに拡大が予定されている。加えて、近隣の国々にも次々と避難準備の指示が出され、すでに避難が始まっていた。
どうやら、次光船の造船所を発端に起こったこの大事故は、かつての火山噴火とは比べものにならない規模のようだ。
そんな考えに沈んでいると、突然、胸ポケットのスマホが鳴った。驚いて少しのけぞりながら画面を見ると、『琴遥』の名前が表示されている。
「今からそっちに行っていいか?」と聞いてくる。
「なんだ、急に」と思いながらも、「かまわない」と答え、電話を切った。
再びモニターに視線を戻すと、今度は上空から被害状況を映す映像に切り替わっていた。
先日、駅で目にした光景と同じだ。激しく燃え上がる建物、完全に崩れ去った瓦礫、延々と立ち込める煙。降り積もる大量のすすまで、はっきりと確認できる。
以前は消火作業や避難誘導の映像が見られたが、今はそれらの姿はどこにもない。
やがて、撮影しているドローンが移動を始め、映像がゆっくりと動き出した直後に、激しく映像が乱れた。そして、ドローンが姿勢を崩したのだろうか。
地表を映していた映像が、一瞬だけ地平線の方を映し出す。遠くに淡い光を放つ太陽と海が見えた。
俺はその中のある光景を見つけて、大きく目を見開く。大量に立ち込める煙の中に、どの炎よりも遥かに高く、ゆらゆらと揺らめく炎があった。
それは恐ろしいほど暗い青で、まるで空から降ろされたカーテンのように横へと広がっている。
「あれはいったい」と思った、その時、ドローンが姿勢を立て直し、カメラが再び地表へと向う。
その映像を追いながら、さらに俺はおかしなことに気がついた。
まだかろうじて立っているビルたちが、すべて同じ方向にわずかに傾いているのだ。
「今、あそこでは、一体何が起きているんだ…」
そう考えた途端、再び映像が乱れ出し、そして完全に途切れた。
モニターには、先ほどまで流れていた住民たちのインタビュー映像が繰り返し映されるようになり、俺はゆっくりと視線を外すと──
突如、空が閃き、やがて地の底から響くような低い轟音が空気を震わせた。
外へと目を向けると、止みかけていた雨がいつの間にか大粒となり、激しくガラスを叩いている。
そして遠く高層ビルの上に、黄色い稲妻が突き刺さるのが見えた。
何か、良くないことが起こる予感がする。しかし、それが何かは俺には分からない。
ふと、駅で出会ったあの二人の顔が脳裏に浮かんだ。
その瞬間、再び雷鳴が轟き、室内が黄色く照らされる。そして、閃光が消え去ると、厚い雲に覆われた街にゆっくりと闇が降りてきた。
室内には深い暗闇が広がり、時が止まったかのような感覚が押し寄せてくる中、ただ、雨音だけは執拗に響き続けていた。