第三十三話
僕は短くうなり、それから視線を落として思考を巡らせた。
――時間が止まる。
魔法が発動する、その直前にだけ訪れる、ほんのわずかな静寂。
一般的な現象で、魔法使いなら誰もが経験するものだ。特に珍しくもなんともない。
……なのに、その理由はよくわかっていない。
大勢の研究者が、いろいろな説を唱えてきた。
時間の停止と同時に、術者は体が重くなるのを感じることから、近くに強力な重力源が発生し、その影響で時が止まるのだという“重力源説”。
魔力が魔法へと形を変える際、周囲の“時間の流れ”を吸収してエネルギー化させるのだという“時間変化説”。
あるいは、ただの錯覚でしかないという、身も蓋もない説まで。
どれらの説も、それらしく聞こえるが、決定的な証拠には欠けていた。
結局のところ、本当に何が起きているのかは、誰にもわからない。
だが、それとは別に――。
この止まった時間の中で、人や物が動いたのを見た、と記録に残している魔法使いは少なくない。
歴史に名を残すような大魔法使いまでもが、日記や自伝に書き残している。
長い間、眉唾だと言われ続けてきたが――
僕は、それを一度だけ目撃している。
今年の夏休みのことだ。
ある事情で、僕とシステルたちは、一泊二日という無茶な行程で、魔物が支配する下層世界へと向かった。
そして――あの時、僕は見てしまった。
僕の専門の探知魔法では、時間の停止はほとんど起こらない。
だけど、システルと一緒に発動させる転送魔法だけは別だった。
きっと、僕が転送先の座標や、そこに至るためのルートの設定を担当しているせいだろう。僕は長めの止まった時間を体験する。
当然、その間、システルもニケも、そして、この世界は完全に静止する。
――けれど、あの瞬間だけは違った。
下層世界から、人の住む世界へ一気に移動しようとした、その時だ。
転送魔法が発動し、視界がふっと白み、世界の動きが途絶える。
いつも通りのはずだった。
上層世界へと昇っていく魔力の渦の中から、何かが動いたように見えた。
錯覚かと思った。
だが、目を凝らすと――
地面に、無数の人の形をしたものがいた。
天へ向けて両腕を突き上げ、それが左右に大きく揺れている。
まるで、こちらへ向かって助けを求めているようだった。
あるいは、祈っているような。
その不気味な揺れに気づいた瞬間、僕は自分の目を疑った。
すぐに視線を固定し、正体を確かめようとした。
――その途端、世界が爆ぜるような眩い光が視界を覆った。
思わず目を閉じ、そして、ゆっくりと開いたとき。
そこにあったのは、人の世界だった。
陽光に照らされた広大な畑。
風にそよぐ作物の葉。
遠くで農具を手に、収穫作業をする人々の姿が見えた。
僕とシステルたちは、草原の真ん中にいた。
――教科書には、魔法発動時の時間停止の間に動くものは存在しないと書かれている。
それが常識だ。
疑う余地のない、魔法の基礎理論のひとつだ。
だが、僕は確かに見た。
あの揺れる無数の腕を。
あの、不気味なほど生きている動きを。
僕は、その場でシステルたちに言う気にはなれなかった。あの時はそんなことを伝えられる雰囲気じゃなかった。
それに、あれは言ってはいけない――そんな感覚のほうが強かった。
でも――。
あれは幻なんかじゃない。
錯覚でも、目の疲れでもない。
絶対に、現実だ。
僕は、そこまで考えて一度、大きく息を吸い込んだ。
そして――あのオーガの件だ。
あれは、どうしても気になっていたから、僕はずっと情報を追い続けていた。
事件の続報がどこかに転がっていないか、公式広報だけでは足りず、SNSに掲示板、動画サイトまで範囲を広げて漁った。
だが、出てくるのは事件を面白おかしく脚色したものばかり。肝心の事実に近い情報は一つもなかった。
一方、公的記録で残されていたのは、発生した事件としての概要だけ。
オーガがその後どう扱われたのか、死体はどう解析されたのか、どんな調査が行われたのか――どこにもなかった。
普通なら、オーガの出自を調べるためにDNAを解析し、系統からおおよその生息地を割り出すはずなのだが、なのに、これにはそれが行われた形跡がない。
あまりに不自然だった。
そこで僕は、視点を変えてみることにした。
オーガについての続報がないなら――
……あそこには、なぜか一体しかいなかった。
なら、そもそも、あの次層世界にオーガは存在していたことがあるのか。
そう考えて、あの世界の過去の資料、歴史書、魔法災害記録、古い学会誌まで、片っ端から当たった。
結果は、明白だった。
どこにも、過去にオーガが出没した記録なんて存在しなかった。
というより、あの次層世界において――
人型の魔性生物が現れたという記録自体が、一件もない。
スライムのような低級魔性生物ですら極めて稀で、ここ数十年は目撃すらされていなかったらしい。
……一体、どういうことなんだ。
じゃあ、あのオーガはどこから来た?
他の次層世界から、転移門か何かで流れ込んだ?
だが、仮にそうだとしても、出自を探るためのDNA情報が完全非公開では、調べようがない。
もしかして、意図的に隠しているのか?
誰が?何の目的で?
考えれば考えるほど、行き止まりに追い込まれる感覚だけが強くなっていく。
完全に、八方ふさがりだ。
――その時、あの政府の調査官の言葉が、ふっと脳裏に浮かんだ。
『もしかすると、他の次層世界との協同調査になる可能性がある』
たった一言だった。
けれど、今思えば妙に含みのある、あの独特の言い回し。
……あれは、単なる可能性なんかじゃなかったんじゃないか?
あの言葉の裏に、隠されている“何か”がある――
そうとしか思えなくなっていた。
疑惑は残ったけど、もう、取っ掛かりは何ひとつ残っていないように思えた。
でも――僕は諦めなかった。
何か、見落としている糸口があるはずだ。
そこで、僕は、あの場所を訪れたとき、最初に抱いた違和感を思い返した。
……なぜ、この公園は歴史自然公園と呼ばれているんだろう?
なぜ”歴史”と付くのか?




