第三十二話
僕は息を吞みながらゆっくりと回転するその巨大な魔法陣を見上げ続けていた。
そのとき、ふと、あることが頭に浮かんだ。
――昔、ローマ兵が、ガリア人の侵攻に対抗するため、一夜で城壁を築き上げたという話。
それは敵からローマの街を守ったと言われている……。
今僕たちの頭上にあるこの魔法の壁も、その壁と同じように僕たちを守ってくれるだろうか?
……そう考えかけて、嫌な違和感が胸を刺した。
いや、違う。
あの話は、確か作り話だったはずだ。一夜で壁なんて作られていない。
結局ローマはガリア人に敗れて、街を占領されたんだっけ。
ぞくりと背筋に冷たいものが走る。
縁起でもない考えを、慌てて振り払うように、僕はシステルへ視線を向けた。
「さっき……あ、アンモナイトを転送魔法で展望室に送り込んだのって……」
問い終わらないうちに、システルはにやりと笑った。
そしてポケットからスマホを取り出すと、僕の目の前に突き出してきた。
画面には見慣れたあの詠唱アプリ。
転送魔法のページが開かれていて、“Voice”の欄には、あの深夜アニメでサブヒロインを務めた声優の名前が表示されていた。
「どう? 私からのプレゼント。気に入ってくれた?」
プレゼント?
「プレゼント? なんの?」
僕がそう聞くと、システルは一瞬焦ったような顔になり――
すぐにあらぬ方向に視線をそらしながら、言葉を早口で継いだ。
「そ、そんなの……どうだっていいでしょ。あ、あんたが、その……穴に入るって言ったからよ」
「穴? なんの穴?」
「そ、それは……知らないわよ! 穴は穴よ!」
意味のわからない返答。
システルは少し頬を赤くして、誤魔化すように勢いよく話題を変えた。
「それにしても助かったわ。みんな、このアプリをインストールしてて。詠唱しなくても済むって、本当に便利だもんね」
システルは、まるで自分の考えが世界全体に認められたかのように、どこか誇らしげな表情を浮かべながら言った。
そしてスマホの画面を軽くタップしてから、続ける。
「急いで集めたのよ。あのアプリが入ってる人のスマホを、全部」
僕は尻尾の先で床を軽く叩きながら、彼女に問い返した。
「……システルのは? 客席のところに置いて来なかったんだ」
システルは振り返り、当然といった顔で肩をすくめる。
「なんで置いてくるのよ。私のがなくなったら、他の人と連絡取れなくなっちゃうじゃない」
「――いや、確かにそうなんだけど」
僕は思わず口をつぐむ。正論ではある。あるのだが。
……それってつまり、他の人のスマホは炎に包まれるかもしれない客席フロアに置いて、自分のはしっかり安全なところに確保してた、っていうことだよね?
いかにもシステルらしいと言えば、システルらしいけど。
僕は心の奥で苦笑いした。そして、すぐに焼け焦げた下のフロアで客席の中に立っていたさっきの五人の魔女たちの姿が脳裏に浮かんだ。
あの時の彼女たちの動き――今思えば、自分のスマホを探していたようにも見えなくない。
それに気づきに、僕は小さく息を吐いた。
きっと今ごろ、下のフロアでは――。
溶けて、黒くひしゃげたスマホを前に、言葉もなく立ち尽くしている魔女が何人かいるに違いない。
あの焦げた匂いと、灰の舞う空間の中で。
その様子を思い浮かべると、こんな状況だというのに、僕はふと余計なことを考えてしまった。
――ああいうのって、スマホの保険、効くのかな?
いや、これって事故じゃなくて事件だよな。しかも、確実に記録に残る規模の。
どう処理されるんだろう、と考えた瞬間、自分でも呆れるほど意識が逸れていたことに気付いた。
僕は気を取り直してシステルに問いかけた。
「……あの作戦って、いつ決まったの?」
僕の問いに、システルはちょっとだけ眉を上げた。
「あの作戦? ああ、アンモナイトを転送魔法で直接、展望室に送るってことね」
その口調は妙にあっさりしていた。
「あんたたち、階段に封印をかけに行ったでしょ。そのあと、ブリジットたちと相談して決めたのよ。
展望室を結界で覆うところまではすぐに決まった。でも、アンモナイトをどうやって展望室に誘い込むか――そこが、どうにも決まらなかったの」
システルは軽く息を吐き、杖を入れるポケットに手をやった。
「あっちこっちの扉にかけた結界や封印。あれで最初からアンモナイトがこっちのことを疑うのは決まっていたから、ほいほいって展望室に来るはずなんてない。
こっちは取引に本気かどうか確かめるため――なんて言っても、アンモナイトどころか、そんなの誰も信じないだろうし」
だから――と、システルは視線を伏せる。
「状況によっては、あいつを直接、転送魔法で展望室に送り込むっていう“奥の手”も用意してたの」
その声音には、わずかな緊張が滲んでいた。
「しかも、下に行った人たちから貨物室の床の結界が弱いって連絡が来てたから、もしかしたら、あんたも知ってる、あの手が使えるかも、って思ってはいたわけよ」
あの手っていうのは、貨物室の中で爆発を起こすことか。そして、中に入り、あいつの大事なものを展望室に転送する。
でも、連絡っていうのは、僕たちが客席のフロアに到着した後に来たはずだ。
それなのに、高効率魔力蓄積ユニットを転がしたのは、それよりずっと前だ。
前もってあのユニットを使うことになることを、いったいどうやって彼女は予期していたというんだ……。
だが、その続きを考える前に、システルはさらに言葉を重ねた。
「……でも、本当にどうなるかわからないから、最悪の場合、逆にこの船に乗ってる全員が展望室に立てこもる、っていう最終案もあったのよ」
その選択肢の重さに、僕は喉の奥がひりつくような感覚を覚えた。
だが、それでも今聞きたいことは別にある。
「……貨物室の床に転がした、高効率魔力蓄積ユニット。あれって?」
僕が問うと、システルは即答した。
「ああ、あれ。庭に大穴あけちゃって、ママに怒られたやつ。二度と使うなって言われたでしょ。
だから三十個ぐらい残ってたんだけど、使い道なくて困ってたのよ。
そこへ、別の世界に救助に行かされることになって、もしかしたら、使える機会があるかもって持ってきてたのよ」
三十個……。僕は軽く眩暈を覚えた。
もしかして夏休みの間中、夜の庭を、昼間のように照らすつもりだったのか。
いや、その前に――最初の一個目で爆発してくれて、本当に助かったのかもしれない。
……でも、システルの言う “使える機会” って、なんだ?
今回の件を出発前に予測できてたはずはない。
まさか、第84層世界の門から現れた魔物に手榴弾みたいに投げつけるつもり――なんてこと、あるわけ……いや、彼女なら……やるかも。だけど……。
僕は問いを重ねた。
「……それで、なんで転がしておいたの?」
システルは少し首を傾け、迷うように視線を落とす。そして、声を低くした。
「……あのとき狙われてるのは、十中八九、貨物室にあった、あのよくわからないものだと思ったわ。
それで、もし、それが壊されたりすると狙ってきたやつは困るんじゃないかって。
あのユニットを使えば本当に壊せるか脅しぐらいには使えるんじゃないかって。そして、これ」
そう言うと、システルは左腕を持ち上げ、ブレスレットを示した。
「アンモナイトが消した、あの私の魔法陣を発動させようとしたとき――これ、光っていたのが見えた?
魔法陣自体は消されていたから結局発動はしなかったけれど、光ったということは、アンモナイトの張った結界を越えて“中まで信号が届いた”ってことなのよ。
その瞬間、私はあのユニットを使うと決めたの」
今の話を聞いて、僕は彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。
「じゃあ、あそこにいた姿を消した魔女が、ロキシーともう一人の魔女を除いてあの場を離れたのも――前もって決めていた手ってこと?」
「そうよ、アンモナイトにもうあそこには誰もいないと思い込ませるためよ」
「ロキシーのあの攻撃も決まっていたんだ?」
「ロキシーのは……まあ、保険かしら。アンモナイトが大人しく展望室に行ってくれれば、出番はなかったかもしれない。
でも――たぶん、彼女の力は必要になることになると思っていたわ」
それを聞いた瞬間、僕は思わずずっと考えていたことを口にしてしまった。
「システルは、僕と話しているときって、いつもどんなことを考えているの?どれくらい本当のことを言ってるの?」
「なによ、いきなり藪から棒に。
どんなこと考えてるかって……そんなの、そのとき話してる内容に決まってるでしょ。
それに、あんたに嘘ついてどうするのよ。」
「ふうん」
彼女の答えに、僕はまったく納得していなかった。特に、後者はどう考えても嘘だ。
でも、それ以上は追及するのはやめた。そして、気持ちを切り替えるため、あいつに向けて探知の波を送ってみた。
前と同じだ。あいつは全く動いていない。一瞬、死んだのかと思ったが……それは違うようだ。
僕は、それを確かめると言った。
「あのアンモナイトに、そのまま止めを刺すことは考えなかったの?」
もしあいつが回復して動けるようになったら、結界の中に閉じ込められているとはいえ、厄介なことになりかねない。
それを聞いたシステルは、手を口に当て、目を少し伏せるようにして考えていた。そして、少し間を置いて答えた。
「あのアンモナイトを、倒すのは難しいと思う。
なぜかって聞かれると困るんだけど……動いていたのよ。私が魔法を発動させた時、周りの時間が止まっていたのに」
「動いていたって?」
魔法の発動中は、その魔法を発動させた者以外の時間は停止する。
それは、魔法を発動させると必ず起こる現象で、例外はないことになっている。
だけど……。
その時、システルが独り言のようにぽつりと言った。
「あの時みたい……」
「あの時って?」
「オーガを倒したとき」
「それは、もしかして、システルが見たと言っていた子供たち?」
「そう……」
それを聞いて、僕の心の中がドクンとなった。
あいつを結界の中に閉じ込め、ほっとしたのもつかの間――まるで台風の目を抜けて、再び、嵐の中に投げ込まれたかのような気分がした。




