第三十一話
ドアが開くと同時に、まるで熱風のように濃い魔力が、一気にこちらへ吹きつけてきた。
胸の奥がぎゅっと重くなり、呼吸がわずかに軋む。
――この感覚。あいつを閉じ込めている結界と同じだ。
システルがドアを押さえてくれているあいだに、僕とニケはその隙間をすり抜けてフロアへ入った。
踏み込んだ瞬間、さっきよりもさらに濃密な魔力が、空気そのものを重く沈ませているのが分かった。
ここは、あいつと対峙していた客席フロアの一つ上――普段なら広々としたビュッフェ会場になるはずの場所だ。
だが今、この入口付近には、慌てて移されたのだろう物資が雑然と積まれ、歩ける場所がほとんどなくなっていた。
このフロアでは、本来なら乗客たちの脱出が進んでいるはずだ。
しかし、積まれた物資の壁が視界を遮り、ここからでは状況がよく見えない。
それでも僕は、物資の隙間を探し、わずかに視線が抜ける角度を見つけた。
ここから遠く――船首側に、長い列を作って並ぶ大勢の人影が見えた。
きっと脱出ポッドへの乗船を待っている人たちだ。
声は届かないが、船員たちが必死に指示を出している様子だけは、なぜか霞む空気の向こう、細い隙間からかすかに見える。
まだ乗り込みは終わっていない。
この船には、客室フロアより上の複数のフロアに、船首側と船尾側とでポッドの乗船口が配置されている――そのはずだ。
けれど、いま僕たちがいる場所に一番近い船首側の乗船口は、まったく使われていないようだった。
理由は分かる。
僕たちがあいつを迎え撃ったのは、このすぐ下のフロアの“船首寄り”だった。
そのほぼ真上にあたるこのあたりは、危険区域と判断されたのだろう。
それで、乗り込みは船尾のみで行われている。
ここからでは細かな人数までは探れない。だが、それでも――あの列の長さなら、ブリジットの言っていた通り、あと二十分もあれば乗船は完了するはずだ。
そう考えてから、僕は――さっきから気になっていた天井を見上げた。
そこには、巨大な魔法陣が広がっていた。
船尾と船首のちょうど中央、展望室の真下に当たる位置。
左舷から右舷まで届くほどの巨大な円が、眩い光を撒き散らしながら、ゆっくりと回転している。
物資の隙間から覗き込むようにして、その下の光景を目にしたとき、世界の音が少しだけ遠のいた。
広場のように物が避けられたスペースに、数名の女性が立っていた。
彼女たちは、天井の魔法陣よりひとまわり、いや、ふたまわり小さな円を床に描くように配置されている。
そして手にしたロッドを天井へと掲げていた。
ロッドの先――その少し前方に、魔晶石が何十個も、まるで星座のように並び、
眩い光を放ちながら円軌道を保ったまま宙に浮いている。
あれは……結界の魔法陣だ。あんなのを見るのは初めてだ。
あの天井の巨大な円陣こそが、展望室全体を包み込み、
あいつを閉じ込めている“檻”を形作っている。
そのとき、その光を見上げるように、システルがゆっくりと歩き始めた。
僕は思わず、彼女の背に向けて声を投げた。
「……あれが、あいつを閉じ込めてる結界、なんだよね?」
「そうよ。うまく転送魔法で送り込めていれば、あのアンモナイトは――あの魔法陣で作られた展望室の結界の中に閉じ込められているはずだわ」
「アンモナイト!?」
思わず声が上ずった。
……アンモナイト? なんで急にそんな名前?
システルが何を言おうとしているのかは、なんとなく伝わる。
きっと階段を駆け上がってくる途中、あいつに新しい呼び名でもつけようと、彼女なりに必死にひねり出していたんだろう。
でも、アンモナイトはないだろ。あまりにもイメージが一致しなすぎる。
それに、いくらなんでも、あいつはそこまで古くないと思うんだけど。
僕が内心でそんなツッコミを入れていると、システルが続けた。
「第84層世界で、古代の門を覆ってる結界……知っているでしょ? あれと同じ原理らしいの。この船には、あの門の結界や封印の作業に関わってた人が何人か乗っていてね。急遽、力を合わせて“即席の結界”を再現したのよ」
システルの声は落ち着いているけど、やけにその言葉が胸に沈む。
「急ごしらえだけど……しばらくの間は、84層世界の本物とほとんど変わらない効果があるみたい」
天井の巨大な魔法陣は、今も眩い光を放ちながら回り続けている。
その下では、魔晶石が星のように軌道を描き、
魔女たちがロッドを掲げたまま微動だにしない。
即席――それでも、本物に限りなく近い。
息がひとつ、浅くなる。
「でも、あいつだったら、もしかしたら――」
そこまで言ったところで、システルがじろりと僕を睨んだ。
……あ、なるほど。
どうやら僕たちのチームでは、以後、あいつを“アンモナイト”と呼ぶことに正式決定したらしい。
よく映画なんかで「以後、目標を○○と呼称する!」とかやってるけど、あれみたいなやつね。
……でもアンモナイトはなあ。
いくらなんでも、もうちょっとこう、別の――いや、めんどくさいから適当に合わせとこう。
僕は小さく息を吐き、仕方なく言い直した。
「でも、あのアンモナイトだったら……あの結界も破れるんじゃない?」
言葉にした瞬間、武装船のシールドが一撃で貫かれた、あの光景が脳裏に蘇った。
僕は余り詳しくはないけど、古代の門を守っている結界は何重にも張り巡らされた複合式になっていると聞いたことがある。
ここのは即席。
本気のあいつなら、一枚くらい破れてもおかしくない気がする。
システルが、僕の思考を先回りするように答えた。
「……破ろうと思えば、できるわ。アンモナイトなら、ね」
その声には、確信と、わずかな緊張がにじんでいた。
「でもいま、アンモナイトは、あの狭い展望室に――自分の大事なものと一緒に押し込められているのよ。本気で魔法を使ったらどうなると思う? 一瞬であれは蒸発よ。防御魔法で守っても……ただでは済まないわね」
言われてみればその通りだった。
それに、あいつはロキシーの一撃で、かなりのダメージを受けてる。
身体も、精神も、貨物室の時の半分も保っていないはずだ。
結界を壊す余裕なんて、いまのあいつには――ない。
いや、たとえ余裕があっても、
中にあるあれを守るために、本気は出せない。
そう考えた瞬間、胸の奥がかすかに震えた。
結界は……まだ持つ。
そのはずだ。




