第二十七話
何が起きているのか、最初はまるでわからなかった。
あそこには、誰もいない。
だが確かに――さっき、あいつがこの場に現れたとき、魔女たちは全員、魔法で姿を消したはずだ。
僕は、視線を逸らさず、まっすぐその空間を見つめる。
もし、誰もいないというのなら……つまり、あの魔女たちも、鷹司のように、姿を消すと同時にあの場を離れたということになる。
ブリジットが言っていた。
『自分とシステル以外は姿を隠せ』――と。
あれは、不意打ちを狙うためじゃなかった。目的は、あいつに魔女たちの位置を掴ませないためだったんだ。
たぶん――姿を消した魔女たちは、僕たちのすぐそば、この客席ブロックのどこかに潜んでいる。
あいつを見る。
混乱した様子で、左右を見回している。はるかに僕よりも動揺しているのがわかる。
ほとんど透けかけた身体の中心で、眩い光が膨張を始めている。
もはや誰も周囲にはいないというのに――いまも魔法は発動し続けていた。
――誰が、どこからかけている?
僕のすぐ近くにいる誰かじゃない。あそこまでは遠すぎる。魔力の制御はとても無理だ。
なら、あいつの背後。反対側の扉の向こうか?
耳に届くこの囁くような詠唱は、確かにあいつの立つ方向から聞こえてきている。
あの扉の向こうに、誰かが――?
――でも、この声には、聞き覚えがあった。
よく知っている声。けれど、それはシステルではない。
誰だ……?
絶対にブリジットでも鷹司でもない。
じゃあ、ロキシーか? ――いや、違う。
まさか……エラーラ先生?
それも違う。
一体、誰なんだ。顔は浮かばないのに、声だけが妙に馴染んでいる。
この船に乗っている知り合いは、システルを入れても五人だけ。
けれど、そのどれとも一致しない。
もしかして――あの老婦人?
……いや、全然違う。
誰なんだろう?
もう喉まで出かかっているのに、どうしても思い出せない。
そして――ようやく、わかった。
この声は、春ごろに僕が録画して見ていた深夜アニメの、サブヒロインの声だ。
となると……この詠唱、まさか、あのスマホのアプリか!?
確か、あのアニメ。僕が見ているうちに、システルも一緒に見るようになった。
そのとき、彼女は言った。
「……あんた、ああいう子、好みでしょ」
思い出した瞬間、気づいた。
声が、一つじゃない。
たぶん、あいつの周囲には、いくつものスマホが仕掛けられている。
もしかすると、船内放送のスピーカーからも流れているのかもしれない。
それらが一斉に詠唱し、あいつを魔法の拘束に捉えている。
だが、どうやって――システルは一斉に詠唱を始めさせた?
そうか。
……タイマーだ。
僕は、思わず心の中で唸った。
彼女は自分のスマホでストップウォッチを動かしていた。
あらかじめ仕掛けておいたスマホに、詠唱開始の時刻をセットしていたのだ。
ストップウォッチで時を計り、絶妙なタイミングであいつへ転送魔法をかけた。
きっと最初から、それが目的だった。
――あいつを強引に展望室へ送り込み、閉じ込めること。
それが、彼女の本当の狙いだった。
そして、脱出の方法はそのあとで考えればいい。
だから「脱出までの時間を稼ぐ」というのは、もはや大した問題ではなかった。
三十分や一時間という数字は、あいつを油断させるためのフェイク。
システルにとって大事なのは、あいつが“隙を見せる瞬間”を作り出すことだった。
たぶん、あそこに魔女がいると思わせたのも、あいつに無駄な時間を費やさせるためだ。
ここまでは、すべてシステルの筋書きどおりに進んでいる。
だが、もし――
追い詰められたあいつが、船ごと吹き飛ばそうとしたら?
……いや、しない。
このフロアのすぐ二つ上には、あいつの大事なものがある。
それだけは、壊せないはずだ。
けれど、このフロアを吹き飛ばす程度のことなら……やるかもしれない。
ちらっとニケの顔が浮かぶ。
彼女の防御魔法で、防ぎきれるだろうか――?
そのときだった。
その予感が、的中する。
あいつは狼狽したように右腕を振り抜き、
客席が一斉に炎に包まれた。
けれど、威力は貨物室のときよりはるかに弱い。
火災報知器が鳴り響き、天井からスプリンクラーの雨が降り注ぐ。
炎は瞬く間に鎮まり、詠唱のいくつかが消えたけど、まだ僕の耳には執拗に唱え続ける声が聞こえてくる。
僕はほっと胸を撫で下ろした。
あいつの身体は、もう大半が位相空間に沈みかけている。
この世界で何かを起こしても、もはや影響を及ぼせる範囲はわずかだ。
そして――ふと、気づいた。
あいつがこのフロアに現れたとき、最初に覚えた“違和感”の正体に。
なるほど、そういうことか。
……でも、なんで?
システルは、あいつに転送魔法をかけたとき――魔晶石を使わなかった。
展望室までの距離は、せいぜい三十メートル。距離的には不要かもしれない。
だが、あの巨体で、あの得体のしれない存在に対してなら、通常の魔力では足りないかもしれない。
それでも、使わなかった。
ということは――彼女も、気づいていたのか。
考えを巡らせていると、
突然、背筋に鋭い殺気が走った。
あいつは自分に魔法をかけているのが僕たちだと考えたに違いない。矛先をこっちに向けてきた。
いまの僕のかすかな体の震えを、ニケが感じ取ったのか。
彼女はブリジットの魔法から姿を現すと、あいつが攻撃を仕掛ける前に、
僕たちがいる扉の前に何重ものシールドを展開した。
守る対象が減ったことで、彼女の魔法は勢いを取り戻している。
あいつが放った弱った魔法の刃を、軽々と弾き飛ばす。
視線を送ると、あいつは、もはや自分の足で動くことすらできなくなっていた。
それを見て、僕の心に淡い希望が生まれた。
これなら、間に合う。
あいつにかけられた魔法が完成するまで――持ちこたえられる。
あとは――あいつが気づかないことを祈るだけだ。
気づかれたら、最後。この作戦は終わりだ。
いや、終わりどころか……僕たちが生きていられる保証さえない。
頼む。
どうか、今度だけは、これだけは気づくな。
あと二十秒――いや、三十秒か。
そのわずかな時間が、僕には永遠にも思えた。




