第二十六話
あいつの手が閃いた瞬間、魔法が放たれた。
それは矢のように一直線にシステルがいた所へ――しかし、その直前で弾かれる。
ニケが残したシールドだ。
激しい光が走り、空気が裂けるような音が響いた。
衝突の衝撃でシールドが波打ち、透明だった膜が赤く染まっていく。
亀裂のような線が走り、きらめく粉が宙に舞った。
だが、あいつはそれで止めなかった。
次々と魔法を放ち、光の雨がシールドを打ち据えた。
いくつかは受け止めきれず、薄くひび割れた部分を突き破って飛び出す。
火線のような光が、僕たちのいる扉の方へと迫った。
だが、どれも近づくにつれて勢いを失い、霧のように淡く消えていく。
最後まで届いたものも、この最後の扉を守るシールドに触れると、軽く弾かれて霧散した。
……僕は、わずかに息を吐いた。
だがすぐに胸の奥がざわつく。
――システルは?
あいつに気づかれないよう、ほんの微かな魔力だけを漂わせて探る。
すぐに、馴染みのある気配を見つけた。
あの柔らかな波のような、彼女特有の感覚。胸が少しだけ温かくなる。
僕から斜め下、おそらく二、三十メートルほど離れた位置――下のフロアだ。
やはりブレスレットに登録していたテレポート魔法で移動したのだろう。
でも使っている魔力は少ない。状態までは読み取れない。
けれど、あいつが魔法を放つ直前に、彼女が光の粒となって消えたのを確かに見た。
きっと無事だ。
……無事であってほしい。
しかし次の瞬間、冷たい不安が背を撫でた。
あいつも後を追って――下に行くかもしれない。
僕は息を詰めて、あいつを見た。
いつの間にか、魔法の放射を止めている。
ただそこに立ち、考え込むように微動だにしない。
追う気配はない。何かがおかしい。
あいつの周囲には、さっきよりも多くの魔法の球が浮かび、淡く旋回している。
その身体は光を帯び、輪郭が崩れはじめていた。透けた皮膚の向こうに、奥の壁が見え始めている。
あいつの周りの空気が軋み、空間そのものが歪むように感じた。
あれは――システルがかけた転送魔法が、術者である彼女がこの場を離れた今も発動を続けているということだ。
術が、なおも進行している。
どうして?
そして、僕はすぐに気づいた。
――そうだ、あの周囲には、姿を消して潜んでいる魔女たちがいる。
きっと、彼女たちがシステルの魔法を引き継いでいるんだ。魔力を、途切れさせないようにしている。
耳を澄ませる。
微かな息の音、衣擦れ――呟き、いや、これは詠唱だ。
ほとんど聴き取れないほどの、細い声。
やっぱり……彼女たちは息を殺し、魔力を繋いでいる。
あいつにかけられた転送魔法を、最後まで完了させようとして。
あいつの行き先は――きっと、あの展望室。
でも、あいつはもう気づいている。
あの客席の海の中に、魔女たちが潜んでいることを。
そして、たぶんシステルはそのことに気づいていなかった。
……この作戦、うまくいくのか?
胸の奥がざわめいた瞬間、僕の不安は現実になった。
あいつが、意を決したように手を振りかぶり、前方へと魔法の矢を乱射したのだ。
矢は連射のようにほとばしり、音もなく空気を裂いた。
やっぱり――気づいていた。
あの空間に、魔女たちが息を潜めていることを。
ニケの張ったシールドが、次々と破られていく。
透明の膜に亀裂が走り、ひびが広がり、ついには赤く点滅したかと思うと、粉々に砕け散った。
あいつはその様子に、さらに勢いを増して矢を撃ち放つ。
しかし、それでも……僕の耳に届く詠唱の声は止まらない。
低く、静かに、確実に続いている。
あいつの体が、転送魔法の拘束に徐々に縛られていくのがわかる。
あの光景――まるでマシンガンの連射のようだ。
ブリジットの能力を借り、魔女たちは攻撃の予兆を読み、避けているのだろう。
だが、いつまでも詠唱を続けながら避け続けるなんて、不可能だ。
それに、僕には分かっていた。
あいつには――“あの手”がある。
その予感が、次の瞬間、現実になった。
あいつが動きを止め、貨物室で見た時と同じ仕草で、腕を天井に払う。無数の水色の光粒が生まれ、あいつの前に降り注いだ。
魔法解除。デスペル――しかも広範囲。
床に落ちていく光粒が、雨のように客席を包み、ひとつひとつ消えていく。
僕の感覚からも、ブリジットの補助が薄れていくのがわかった。
――やばい。
透明化の魔法が剥がされる。
あそこに潜んでいた魔女たちが、今にも姿を現す。
姿を現した彼女たちは、あいつにとって格好の的になる。
これでもう、システルが描いていたシナリオとは違う流れに入ってしまった。
僕は喉の奥が締めつけられるように感じながら、懸命に次の手を考えた。
転送魔法の発動まで、あと一分は詠唱が必要だ。
だめだ。とてもそんな時間はない。
僕とニケで飛び出すか?
僕があいつの動きを探知しつつ、ニケがシールドを張り直す。
ニケの魔力量なら、解除されても何度でも再展開できる。
その間に、魔女たちは逃げればいい。
――でも。
後方からは、まだ鷹司が治療している魔力の気配が伝わってくる。
あの怪我人はまだ動けない。動かせない。ここにいる全員は逃げられない。
迷っている間にも、あいつの魔法が完成してしまった。
光が一瞬、あの空間を飲み込む。
そして、静寂。
僕は固唾を呑んで、客席を見つめた。
そこに、魔女たちが姿を現すはずだった。
……けれど。
いくら待っても、誰も現れない。
光が収まっても、そこには何もいない。
ただ、空席の列が冷たく照らされているだけだった。
僕は、息を呑んだ。
そして、悟った。
――あそこには、最初から誰一人いなかったのだ。




