第二十四話
システルはそう言うと、肩に掛けたマジックバックに手を伸ばしながら言葉を続ける。
「もう一つは、このマジックバックの構造に似た異空間に隠してある。あなたが現れたとき、両方をそこへ移そうとしたけれど……片方しか移せなかった」
そこで一度、言葉を切る。
そのわずかな沈黙が、室内の空気をひときわ重くした。
「――そこへの扉を開ける」
その一言と同時に、彼女はマジックバックの口を開けた。
中から取り出したのは、美術館で見る小さめな肖像画と同じくらいの大きさの金属の板のようなもの。
それは異様に冷たい光を帯び、縁にはまるで植物の蔓が絡み合うような複雑な模様が刻まれていた。
一見すれば、芸術品というより、儀式の遺物に近い。
彼女はそれを、立ち止まってこちらを見ているブリジットに向けて、静かに差し出した。
ブリジットは肩を貸していた魔女をそっと床に下ろすと、ためらいがちにシステルの方へと歩み寄る。
……あれは、何だ?
金属板の表面がわずかに反射したのが見えた。
鏡――?
あれも魔道具?。でも、システルってあんなの持ってたっけ?
胸の奥で、何かが引っかかった。
もしかして、システルとニケが学校で話していた“鏡”って……あれのことじゃないのか?
考えがそこへ辿り着いたとき、システルのポケットの中でスマホが一度だけ震えた。
だけど、彼女はそれには何の反応も見せない。ただ、静かにブリジットへ鏡を手渡し、あいつに向かって言葉を投げた。
「これを使って扉を開くわ。あなたの希望どおりの展望室で。私の代わりに使い魔たちに開かせる」
淡々とした口調。そして、僕たちにだけ聞こえるように囁いた。
「――さあ、行って」
その瞬間、僕はニケと視線を交わす。お互い、言葉もなく理解した。ためらいながら、僕はシステルの肩から飛び降りる。
ブリジットが鏡を受け取ると、僕はその横をすり抜けるようにして後方へと歩き出した。
振り返るたびに、システルの小さな背中が見える。
広い客席の中央――ただひとり、巨大な“あいつ”と対峙している彼女の背中。
近くに魔女たちが潜んでいるとはいえ、その姿が、あまりにも小さく、孤独に見えた。胸の奥が、締めつけられる。けれど、今は行かなきゃならない。きっと、彼女には考えがある。それを信じる。
僕たちは息を殺しながら、客席の間の狭い通路を抜けて、船首にもっとも近い客席ブロックまでようやく辿り着いた。
扉を開けた瞬間、肩を借りていた魔女がうめき声を上げ、その場に崩れ落ちた。
顔は蒼白、呼吸は荒く浅い。きっと肺が酸素を取り込めていないに違いない。――このままだと、まずい。
その時、何もない空間がゆらぎ、鷹司が姿を現した。彼女は床に倒れた魔女のもとへ駆け寄ると、ロッドを掲げる。
光が走り、魔力が包み込む。だが、すぐに鷹司の表情が険しく歪む。そして早口で言った。
「……魔法による細胞の破壊はございまへんえ。せやけど、いくつもの内臓に深う損傷が見られますう。内出血もひどうて、このままやと命が危のうなりますえ。…一刻も早う、治療を始めへんと……!」
ブリジットがうなずいた瞬間、鷹司の詠唱が始まる。
ロッドの先端にはめられた魔晶石がまばゆく光を放ち、床に倒れている魔女の身体を緑の輝きが包み込んでいく。
少しずつ呼吸が整い、頬に赤みが戻っていく彼女の姿を見て、僕は胸を撫で下ろした。
そして、すぐに気持ちはシステルの方へ引き戻される。
彼女が心配でたまらない。
僕は急いで扉の前まで戻った。その途中、視界の端に、あの鏡が見えた。床の上、無造作に置かれている。
……こんな大事なものを、放っておいていいのか?
一瞬迷ったけど、僕はシステルを優先させる。
そして、ほんの少しだけ隙間を開けて向こうを覗いた。
すぐに背後に気配を感じた――振り返ると、ニケも同じように覗いている。
彼女の瞳に映る不安が、自分とまるで同じであることが分かった。
そのとき、急に魔力の波動が僕の身体を包み込んだ。
ブリジットが静かに手を伸ばし、僕とニケの背中に触れている。
「システルのことが心配だと思うが、動いたらあの老人に気づかれる。……じっとしてて」
小さな声。僕は無言でうなずく。
次の瞬間、僕たちの身体が徐々に透け、音もなく空気に溶けていった。
僕は五感を研ぎ澄ませ、遠くのシステルへ意識を集中させる。自分の猫の耳が、かすかに彼女の声を拾う。
『私の使い魔たちが扉を開いても、中からあれを取り出すには時間がかかるわ。……だから、ゆっくりしてていいわよ。
ところで、あと一時間、私たちはこうしてにらみ合っていればいいのかしら』
その声音には、余裕すら感じられた。でも、広い客席の中央で、あの巨躯と相対しているのは、たった一人の少女。その背中は、とても小さくて、まるで小人のようだ。
僕の胸がざわつく。自分に何かできることはないか。でも、今はただ、見守るしかない。
そのとき、システルがふと口を開いた。
『前もって言っておくけど、これから渡す“あれ”が、あなたの探しているものと完全に一致するかは分からないわ。
私たちは、“あれ”についてあまり詳しくないの。それでもいい?』
沈黙のあと、老人の低い声が響く。
『――お渡しいただければ、それで十分です』
それにシステルが小さく笑ったのが聞こえる。
『ふうん。あなた、“あれ”のコレクターか何かなの?』
返答はない。
空気だけが重く沈む。
そして、長い沈黙の果てに――
システルが、わずかに声を張った。
『……そろそろかしらね』
直後、空気が震えた。
僕の身体に魔法が発動する気配が伝わってくる。強烈な魔力のうねり――これは上、たぶん、あの展望室からだ。
思わず見上げかけたが、ブリジットの言葉を思い出して、ぐっと堪える。
……いや、もう一つ。
下の方のフロアからも、微かに別の波が。
けれど、その感覚は展望室からの圧倒的な魔力に飲み込まれ、すぐに掻き消えていく。
僕はただ、システルの背中を見つめた。
その小さな体が、あの空間で――
“何かを出現させよう”としているのか。
どこにも存在しないはずの“あれ”を。
まるで、魔法のように。
上から何度も波動が伝わってくる。
見えない扉が、ゆっくりと、開いていく。




