第二十話
あいつは今にもブリジットに向けて魔法を放とうとしていた。
システルが言っていた。「これまでの行動からして、自分から仕掛けることはないはずだ」と。僕もそう思っていた──けれど、あいつはその考えを変えたらしい。
ちらりとシステルを見ると、彼女はじっとあいつを睨みつけていた。ごくり、と唾を飲み込む音が僕の耳に届いた。
そのとき、視界の端でニケが動く。毛を逆立て、ぴんと立てた尻尾をさらに強張らせる。
彼女は、自分の魔力使用限界まで残りわずかな魔力を使い、ブリジットを守るシールドを補強しようとしていた。
あいつの魔力が収束する気配が、空気を震わせてこちらに伝わってくる。
本気で撃つ気だ。
──だめだ、間に合わない。
頭の中に、ブリジットの能力を通して最悪の未来が浮かび上がってくる。彼女自身の姿が、あいつの魔法に飲み込まれ、塵となって消える光景が。
──その刹那。
あいつの背後の虚空から棒のようなものが突き出た。あれは、クォータースタッフだ。
それがブリジットに向けて伸ばされたあいつの腕を狙って振り下ろされる。
不意を衝かれ、あいつが息を飲んだ感覚が伝わってきた。
今なら──。一撃を与えられる。そう思った瞬間、あいつの防御魔法が発動し、激しい光と共にクォータースタッフを弾き飛す。
虚空が裂ける。そこに球状の輝きが膨らみ、人一人分の大きさへと拡大していく。
まばゆい光の中から姿を現したのはあの魔女だ。彼女を守るニケの魔法が火花を散らし、大きく揺らぐ。
現れた彼女の体は光に包まれたまま、右舷の壁へと客席の上を吹き飛び、鈍い衝撃音を響かせて激しく叩きつけられた。
それでも彼女は肘をつき、必死に身を起こそうとする。すぐにブリジットが駆け寄り、その体を支えた。
あいつは驚きに目を見開いていたが、すぐに嘲るような笑みを浮かべ、再びブリジットたちへと腕を伸ばした。
魔法の刃が解き放たれ、疾風のように一直線に迫った。
だが、刃は彼女たちに届く寸前、突如として出現した魔法の壁に叩きつけられ、粉々に砕け散る。
僕はすぐにニケに目を向ける。彼女は、今のわずかな隙を突いて壁を展開したのだ。全身の毛は逆立ち、体からはさっきにも増して強烈な緑光を放っていた。
それを見たあいつは、鼻で一度笑うと、もう片方の腕を構えた。
次の魔法が放たれる──その直前。
轟音が船底から突き上げるように響き、船体が大きく揺さぶられた。
突然の揺れに僕はシステルの肩から落ちかけ、慌てて爪を立てて踏みとどまる。
揺れが収まると、あいつは冷笑を浮かべ、言い放った。
「あなたは、とても忘れっぽいお方のようだ。先ほど、あの結界はあなた方ごときの力では破れないと申し上げたのに」
システルは答えない。ただ、じっとあいつを見据えていた。その左手首が、かすかに光を帯びる。
再び爆発音。だが今度は違う。杭を深々と打ち込むような重い響きが、船の奥底から伝わってきた。
直後、地震の始まりを思わせる細かな振動が船を震わせる。
あいつの表情が一瞬で変わった。嘲りが消え、戸惑いに染まる。
「……いったい?」
金属が軋む音が続き、やがて鉄を砕くような轟音が響き渡る。再び振動が襲いかかり、床板さえきしませた。
そして──。
このフロアの空気が、一瞬、時を止めるかのように張り詰め、深い沈黙に落ちた。




