第十六話
目に映る景色は、さっきと変わらない。
船尾から炎を吹き出しながら漂う船。赤い星。システルが言っていた赤のままの信号機。窓の視界には映っていないが、右下に視線を落とせば、あの奇妙な船もまだいるはずだ。
けれど……なんだろう。さっき、ほんの一瞬だけ噛み合わない歯車を見たような違和感が胸をよぎった。
今、目の前に広がっている光景のどこに、それが潜んでいるのか。
自分の瞳孔が、剃刀の刃のように細く縦に縮んでいくのがわかった。外を凝視したまま、残っている思考のかけらでシステルに言葉を投げる。
「この航路が危険だから航行制限されてるんだ。船が一隻も通らないのはそのせいだと思う」
僕の声に、まるで自分もシステルと同じ疑問を持っていたかのようにブリジットが割って入ってきた。
「いや、たとえそうだったとしても、他に船が一隻もいないのは不自然だ。救援要請を出しているのだから、戦力を整えているとしても、何隻か警備艇が遠巻きにいてもおかしくない」
その言葉に、僕らは息を呑んだ。誰もが同じことに気づき、顔を見合わせる。たしかに、そうだ。
ロキシーが不安げに言う。
「でも……救援の要請は出したんやろ? 返事、来てるんやんな?」
「もちろんだ」ブリジットが頷いた。
そこで鷹司が、言いにくそうに口を開く。
「……まさか、この船の乗員の方々は、あのご老人のお身内なのでは? 船内の方々の中に、どこか違う雰囲気をお持ちの方がいらっしゃるように思えるのですが」
ブリジットは首を振った。
「私はブリッジのモニター越しに貨物室の様子を見ていたが、その際に聞こえた通信士たちの会話に、不審な点はなかったように思う」
つまり、それを信じるとしたら、少なくともこの船の中枢には怪しいところはない。なら、答えはひとつしか残らない。
その考えに行き着いた時、急に今までのことが崩れ落ちる感覚に襲われた。棺が現れ、あの老人が姿を見せた時のことが、遠い昔の夢のようにすら思えてきた。そして、急に現実感が薄れてきた。
僕は、それを取り戻そうとシステルに尋ねた。
「今、何時なの?」
システルは黙ってスマホを差し出す。画面を見た僕は息を呑んだ。
アイコンは並んでいるのに、時刻の表示が、どこにもない。それだけが消えていた。
僕は皆を見回す。ブリジットたちもスマホを掲げた。だが、どれも同じ。時刻が表示されていない。
「気づいたら、いつの間にかこうなっていたの」システルが低い声で言った。
ブリジットが重く口を開いた。
「船内での通信は通じる。けれど、外の世界とはまったく繋がらない……何度試みても」
沈黙が落ちた。遠くで封印をこじ開けようとする音が響く。けれど、それすら現実感を失い、遠い世界の音のように聞こえた。
「ここは、どこなの?」システルが鋭く言った。
「……三デッキ目の客席フロア」僕は反射的に答える。
「違うわ。そうじゃなくて――この船がいる場所よ」
彼女の問いの意図は分かっていた。けれど、なぜか無意識に間違えた答えを返していた。すぐに考えるのが怖かったのだ。
気を取り直し、越えてきた次光壁の数を思い出す。そして感覚を頼りに口を開いた。
「……たぶん、第30層世界を少し越えたぐらい」
だが、境界の感覚が曖昧に揺らぐ。僕は数え直し、言葉を継いだ。
「いや……もう少し進んでいるかもしれない。32、33層……」
言葉が途切れる。頭の中に浮かぶ、90層にわたる次層世界のインデックス。その34番目――“broken”と記された世界。
太古に、何らかの理由で破壊されたと言われている場所。誰も行ったことがなく、送られた探査機のほとんどは行方不明。唯一届いた映像には、大きな岩のような影が一つ映っていただけだった。
その近辺の航路は、大昔から次光船の遭難事故が相次ぎ、すでに廃止されて久しい。
僕は唾を飲み込む。そのあとの沈黙が、全てを物語っていた。
「……私たちは、どなたに救援を求めていたのでしょうか」鷹司がぽつりとつぶやく。
直後、フロアを揺るがす大音響が轟いた。階段の封印が破られかけている。
ブリジットは一瞬だけ目を閉じ、言った。
「ここが、どこかは詮索するのは後回しだ。今、あの老人に備えることを最優先にしよう」
ロキシーが呟く。
「……時間稼いでも、結局、助けは来ぇへんっちゅうことやろ?」
その言葉が、空気を凍らせ、重苦しい沈黙が落ちた。
けれど僕は気持ちを奮い立たせる。そして、システルたちと視線を交わした。
頷き合ったその瞬間、全神経を――あいつの気配に向けた。
しかし、ほんの一瞬だけ、視線が窓の外へと逸れる。
――僕がさっき感じた違和感。それはブリジットが言ったことと同じだったのだろうか?
いや、何か違う。そう、感じる。
だが、その考えはすぐに頭の片隅に追いやった。今はあいつに集中する時だ。
階段の封印が破られ、二枚目の魔法の壁に、あいつが爪を立てる感覚が伝わってくる。
その封印が破られるのにそんなに時間はかからないだろう。
そう思うと、僕は大きく息を吸い込んだ。
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