第九話
固唾を呑んで彼女の決断を待つ。
そのとき、システルの表情が、ふっと変わった。
――呆けていた。
首をわずかに傾け、ぽかんとこっちを見てる。
ええええええ!?
まさか――今の言葉、伝わってない?
いや、それどころか……この状況そのものを理解してないのか?
「……あいつは殺さないって言ってるけど、あの表情、絶対に僕たちを帰す気なんかない。捕まったら最後、きっとどこかに閉じ込められて、もう二度と、自分の世界には戻れないかもしれないんだ」
僕は早口でまくし立てた。
短い沈黙のあと、システルはふいに真顔に戻り、あいつのほうを見据えた。
「――私を殺さないって言ったけど、その保証、どこにあるの?」
老人は、わずかに笑みを浮かべた。
「私が殺すつもりなら、とっくにあなたは死んでいます。それが保証になりませんか」
そう言いながら、一歩、また一歩と近づいてくる。僕たちも同じだけ後ずさる。
「今、あいつは僕たちが逃げられないと思って油断してる。今なら、僕の魔法であいつの頭の中に」
囁いた僕の言葉は、聞こえなかったかのように無視される。システルの視線は一点、老人だけを見据えていた。
「私が自分のことを知らないって言ってたけど……あなたは、私の何を知っているの?」
「それは、私のもとに来てから、ゆっくりお教えしましょう」
沈黙が一拍。システルが声を少し張る。
「でも、私を殺さなくても、この船に乗ってる他の人たちは殺すんじゃないの?」
その瞬間、老人の表情が変わり、歩みが急に速くなった。
――もう限界だ。
僕は彼女にかまわず、精神を集中させ、あいつの頭へ探知魔法を撃ち込もうとした。
その時――。
「今よ、やって!」
システルの大声が貨物室に響いた。
突然、貨物室の天井――あいつの真上の空間が淡く光を帯びる。そこに現れた光の球はみるみる膨れ上がり、白く眩しい輝きを放った。
老人が顔を上げた瞬間、その光から巨大な立方体が落ちてきた。
続けざまに、巨大な板状のもの、なにか角ばった塊……形も大きさも違う物体が次々と降り注ぐ。
衝撃と轟音が貨物室に満ち、床が震えた。
あいつは何かの魔法で身を守ろうとし、体が強く光り輝く。
ぶつかった物体の中には砕け散り、破片が周囲に飛び散るものもあったが、
それでも物は止まることなく降り注ぎ、防ぎきれなくなったあいつは、次第に物体の山に埋もれていった。
僕は何が起きているのかわからなかったが、これは逃げるチャンスだ――そう直感し、隣にいたシステルに声をかけて、安全な場所へと身を移した。
移動の最中、ふと気づいた。
あの落ちてくるのは、この船のあらゆる場所に積まれていた物資だ。それも、特に重いものたちが、次々とあいつに降り注いでいるのだと。
次第にあいつから放たれる魔法の気配が薄れていく。そして、立っていた場所に小さな山のような塊が出来上がったころ。
ようやく、宙にあった魔法の光は急速に輝きを失い、みるみる小さくなり、やがて静かに消えていった。
「魔法が効かないなら、物理はどうよ?」
システルがガッツポーズを決めた。
「……一体、何が」
彼女はポケットからスマホを取り出し、画面を見せてきた。そこには通話中の表示――相手は“エラーラ先生”。
空間魔法の使い手であり、僕たちのクラス担任。今のは彼女の転送魔法……いや、きっと彼女だけじゃない。
「先生、うまくいきました。ありがとうございます」
電話越しに、低く怒気を含んだ声が返ってきた。
『システィール・パスファインダー……すぐに戻ってきなさい』
聞こえたか聞こえないかのうちに、システルは通話を切った。そして顎で、貨物室のハッチがあったほうを示しながら言った。
「最初は、あの扉の前に物資を積み上げてバリケードを作るつもりだったけど、間に合わなかったの。でも結果的にこっちのほうが良かったわ。場所が少し変わったけど、上にいる人たちうまく調整してくれたみたいね」
防犯カメラを指差し、にやりと笑う。
「あの老人、古い人みたいだから、自分が見られているなんて気づいてなかったんじゃない?」
――カチンときた。
「な、なんで僕に言ってくれなかったの!?」
「説明してる時間なんてなかったでしょ。それに、逃げる予定だったんだし」
僕はどこか損をしたような気分になって、システルに言葉をぶつける。
「でも、作戦がある、とかぐらいは言えたんじゃない?途中から、僕の言ってること完全に無視してただろ」
「だって、あんた、私がわけのわからないことを言って困ってるんでしょ?だったら――困らせるのは悪いと思って、何も言わないようにしたのよ」
「あれは……」
「でも、私からしてみれば、あんたのほうこそ、わけのわからないことを言って、こっちが困ったわ。なに、あれ。僕はそのへんの穴から逃げますって。逃げ切れるわけないじゃん」
「あの時は……」
言い合いの最中、背筋が凍った。
山積みの物資の中から、激しい怒りと邪悪な気配が滲み出してくる。
突然、炎が弾け、山を包み込んだ。中から姿を現す老人――両目が異様に光り、憎悪むき出しの表情で僕たちを睨む。
「嘘でしょ……何十トンもある岩が落ちたのと同じよ。それで生きてるなんて」
老人が手を上げた瞬間、背筋を走る戦慄。もう、殺さないなんて選択は捨てている。
これまで感じたことのないほどの魔力が収束し、その手が振り下ろされる。
僕は思わず目をつぶった――轟音、そして衝撃。……だけど、生きてる?
目を開けると、赤く揺らめく壁が僕たちを覆っていた。
その赤は、みるみるうちに色を失い、やがて静かに消えていく。
――この魔法の感覚。僕は、よく知っている。
「もう逃げるわよ。それ、長くもたないから」
どこか呆れたような、それでいて苛立ちを含んだ――聞き覚えのある声が耳に届く。
振り返ると、開いた扉の前にニケがいた。
老人が再び撃ち込む。シールドが一瞬、赤色を濃くし、また薄れていく。
「修復できてるうちに、早く!」
僕とシステルは一目散に、ニケのいる扉へと駆け出した。




